最上義光の菩提寺として訪問した山形市の光禅寺で、「永和の板碑」と紹介されている板碑を目にしました。
<永和の板碑>えいわのいたび
こちらです。ここは墓所ですので、どなたかの墓石と思って近寄りましたが、説明板を見て板碑だとわかりました。
<説明板>
板碑と聞くと、もう少し平べったい板状の石を想像してしまいますが、板碑で間違いないわけですね。説明文を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。
『碑面上部に阿弥陀如来の種子(梵字)キリークと、無量寿経四十八願の一節を刻み、この卒塔婆建立の意趣と造立の年号を、永和二年丙辰八月彼岸第二番と刻んでおります。』
なるほど…と言いたいところですが、ちょっと分かったような分からないような?
まず、阿弥陀如来を表す文字と、仏教の大切な教えの一部が刻まれていることは確かなようです。そして、この板碑は永和2年、干支は「ひのえたつ」の年のお彼岸に建立された。元号と干支は良いとして、彼岸第二番?お彼岸の2日目と受け止めて良いものでしょうか(雑ですみません)。
後半は以下の通りです
『明治二十九年山形城跡が連隊となり、地均し工事に二の丸跡より発掘されたもので、永和二年(一三七六)は最上の始祖、斯波兼頼公が城内に草庵を結んで出家した翌年あたります。』
なるほど
読み替えると、最上家始祖の斯波兼頼は1375年に山形城内に草庵を設けて出家しており、その翌年の年号が刻まれた板碑が、軍の連隊が城跡に駐屯した時の工事で発見されたということです。
個人的な感覚になりますが、板碑は供養塔、あるいは何かの節目に記念碑的な意味で設けられるイメージが強いです。羽州探題としての役割を終えて、嫡男に家督を譲った斯波兼頼が、出家する区切りとして板碑を造ったのだろう。現地ではそんなイメージで納得しました。
ただブログにまとめるにあたり、改めて考え直すと、阿弥陀如来を記した板碑の意味は、もっともっと仏教的な意味合が濃いものであるような気もします。お彼岸の重みも、今とは異なるような気がします。無信教に等しい私の感覚など、とても及ばない深い思いがそこにあるのではないかと。
斯波兼頼は城内に草庵を結んだ4年後にこの世を去ります。現地説明文はそこまで言及していませんが、人々を救う仏が記された板碑は、出家した兼頼が仏門に徹したなごりなのかもしれませんね。
<有形文化財>
山形市指定有形文化財に指定されています。
■訪問:永和二年阿弥陀板碑
(光禅寺墓所)
[山形県山形市鉄砲町] 2-5-7
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■参考及び出典
現地説明板
2023年09月23日
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