出羽の虎将・最上義光の嫡男・義康の菩提寺を訪ねました。
<常念寺>じょうねんじ
山形市三日町の常念寺です
<最上義康供養塔>
こちらが最上義康の供養塔です。背景に映っている墓所は少し加工させて頂きました。
供養塔は比較的新しいです。最上義康四百年忌として2002年(平成14年)に建立されたとのこと。境内奥ではなく、門を通ってすぐのところにあるのも納得です。
<最上義光公嫡男>
義康は山形城主最上義光の嫡男として生まれました。父は豪快にして人情味もある出羽の猛将として有名ですが、実は子である義康も文武に優れた人物で、父に従って各地を転戦し、武功をあげています。
「北の関ケ原」ともよばれる慶長出羽合戦では、危機に陥った最上家を代表して、伊達政宗のもとへ向かい、援軍を要請しています。また、領内に侵攻していた上杉軍が関ケ原の勝敗を聞いて撤退を始めると、庄内地方へ進軍する最上軍の総大将を任されています。最上義光から如何に信頼されていたか伝わってくるようですね。
そんな有能な嫡男が
なぜ若くして亡くなったのか…
戦ならともかく、巨大化した最上家の跡継ぎ問題に起因する家臣間の不仲、父と子の関係悪化が、義康を死に追いやることになりました。あまりにもドロドロした話なのでここでのご紹介は省略させて頂きますが、結果としては、江戸で家康の近侍として仕えていた次男が跡継ぎとなり、嫡男の家督相続は実現しませんでした。そして、高野山での出家を命じられた義康は、僅かな手勢で移動する途上「何者か」の命を受けた一団に襲撃されました。傷を負い、その場で無念の自害を遂げますが実質は暗殺です。
1603年9月21日(慶長8年8月16日)没
28歳という若さでした。
では
この「何者か」は誰なのか?
諸説あります。
まず、不仲の父・最上義光が首謀者という説があります。また、義康が最上家当主となることを嫌っていた家臣・里見民部の図り事という説もあります。
前述の通り、最上義康は若い頃からその能力を発揮し、父のサポート役を担いました。つまり、もともとは良好な親子関係だったのです。若者の成長過程で、父と対立することは、あまり珍しいことではありません。まして、気性が激しい同志です。表向き不仲となっても、もっと大きな意味での信頼や期待があったのではないでしょうか。
最上義光は、義康が死に至った経緯を家臣に調べさせます。危険を察した里見民部は山形を去りますが、義光の手の者により粛清されました。里見民部は最上義光のもとで活躍した武将でしたが、どこで歯車が狂ったのでしょうか。歴史にもしもは禁句ですが、最上家が急速に大大名にならなかったら、身内の争いもここまで大事にならなかったのかもしれませんね。
そうなった経緯については、不明な点が多いままです。
ただ、最上義光は義康の遺品となった日記に、父の武運祈願が記されていることを知り、泪したと伝わります。家臣に命じ、亡くなってしまった嫡男を手厚く葬りました。
<義光山常念寺>ぎこうざん
最上義光本人の名が山号になっています
<常念寺本堂>
最上家の当主になるはずった武将の菩提寺です。
■訪問:義光山 常念寺
[山形県山形市三日町]2丁目
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■参考
・境内説明文(常念寺縁起)
・Wikipedia:2023/9/21
2023年09月21日
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