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2023年06月03日

将門の伝説が残る神社(太田市)只上神社

平将門の胴体が埋葬されたという伝説が残る場所を訪ねました。

<只上神社>ただかりじんじゃ
Tadakari-Shrine-Gate.JPG
群馬県太田市の只上神社。渡良瀬川のすぐ近くです。

<参道>
Place-associated-with-Masakado.JPG
誰もいませんね。参道左手側の建物は社務所と思われます。参道右手にむかしは遊具が設置されていて、子供たちが遊ぶ姿が見られたそうです。

<拝殿>
Tadakari-Frontshrine.JPG
よそ者が失礼致します

<村社只上神社御由緒>
Tadakari-Jinja-honorable-history.JPG
この付近は毛里田(もりた)という村だったようです。元々は品陀和氣命(ほむだわけのみこと)のみを祀る神社で、只上八幡宮と呼ばれていました。将門に関する記載はありませんでした。

<本殿>
Tadakari-mainshrine.JPG
しっかりと保護されているので御本殿そのものは見ることができませんでした。

<境内社>
Tadakarijinja-Kedaishya.JPG
こちらは拝殿左側に並ぶ境内社。そういえば、御由緒には合祀に関する詳しい記載がありました。水神宮や稲荷社、雷電社等・・・(省略して申し訳ないです)

只上神社は、かつては「胴筒の宮」とも呼ばれていました。伝承では、ばらばらになった将門の亡骸のうち、胴体がここ只上神社に葬られたとされています。手・足・腹部はお隣の足利市の複数の神社とのこと(手は大手神社、足は鶏足寺、腹部は大原神社)。首については説明は不要ですね。

<境内>
Tadakari-Jinja.JPG
とにかく静かでした

将門には桔梗姫(桔梗の前)と呼ばれる妾がいました(シンプルに侍女と紹介している例が多いです)。しかし桔梗姫は藤原秀郷に内通し(秀郷の妹という説もあり)、これが将門が討ち取られる原因となったともされています。今回訪問の太田市只上は、桔梗姫の出身地とされるこことから(千葉県という説もあり)、将門を祀ることで、祟りを鎮めたということなのでしょう。祟りを恐れられながらも、いつのまにか民衆に慕われているところが、将門という武将の不思議な力だと思えます。

<只上神社裏手>
Tadakari-Jinja-waterway.JPG
Tadakari-Shrine-Hill.JPG
裏手は渡良瀬川に通じる水路。神社は微高地に位置しています

地元の方のお話では、桔梗を避ける風習は今でも残っているとのことでした。若い人たちにそれがどの程度伝わっているかは分かりませんがね。


ということで
関東には平将門の伝説が数多くありますが、そのひとつをご紹介させて頂きました。


<只上神社遠望>
Tadakari-Shrine-Forest.JPG
渡良瀬川の堤防から撮影しました。

<渡良瀬川>わたらせがわ
Tadakari-Hachimangawara.JPG
太田市と足利市の間を流れる渡良瀬川です。この付近(鹿島橋より上流)の河原を八幡川原と呼ぶそうです。只上神社が八幡宮と呼ばれていたことのなごりですね。平将門と藤原秀郷の戦いが行われた川原とも言われています。

以上です。
拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。

■訪問:只上神社
[群馬県太田市只上町]1706


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2023年06月02日

将門の子が砦を築いたのが始まりという伝説(久留里城)

君津市公式ホームページでこんな記載を見つけました。
『久留里城の起源については「平安時代中期の猛将平将門の三男、東少輔頼胤が初めてこの地に砦を構えた」と伝えられていますが、確証はなく伝説と考えられています。』 
[『』内は原文/読み:東少輔頼胤(とうのしょうゆうよりたね)]

<久留里城跡>くるりじょう
Twitter-Isuke230531-Kururijo.jpg

あの平将門の子が砦を築いたと聞くと、とても興味深い話ですね。この伝説の詳細は省略しますが、大筋では、将門には三人の息子がいて、そのうち三男は東少輔と称し、夢枕にお告げあったことから久留里に砦を築いたというものです。そのまま三代続いたものの、同族である千葉氏との争いに敗れて、久留里を去ることになった。そういう伝説です。

現在の千葉県を中心に勢力を誇った千葉氏の祖は、一般的には将門の叔父の平良文(たいらのよしふみ)とされています。伝説と切り離しても、平将門は千葉氏や同族の相馬氏とは因縁浅からずという印象です。伝説はあくまで伝説ととらえるのが妥当なのかもしれませんが、なかなかスパッと割り切れません。

<久留里城天守>
Kururijo-castle-tower.JPG

妥当な見解からこぼれ落ちてしまうようなもの。そこにこそ、趣味の醍醐味があるのかもしれません。将門に関する伝説は関東に数多く残っていますが、ここ久留里城にも残っている。せっかく訪問したので、それを否定することはなしということにします。

拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:久留里城
[千葉県君津市久留里]字内山

■出典及び参考
・Wikipedia:2023/6/2
・君津市公式ホームページ

https://www.city.kimitsu.lg.jp/site/kanko/491.html


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2023年05月10日

小田原市にある新田義貞の首塚

小田原市にある新田義貞の首塚を訪ねました。

<新田義貞首塚>
Nittayoshisada-Kubizuka-Odawaracity.JPG
こちらになります。

<首塚の碑>
nittayoshisada-kubizuka.JPG
お隣の石碑は比較的新しいですね。立派です

それにしても
新田義貞と言えば本拠は群馬、討ち死にしたのは北陸です。なんで小田原に?

<首塚跡入口付近>
Grave-Nitta-Yoshisada's-head.JPG
設置されている説明板によれば、足利尊氏に敗れた新田義貞の首級を、家臣が故郷の上州へ持ち帰ろうとしたものの、この地で身動きがとれなくなり、やむなく埋葬したということになります。

ちょっと私の要約は雑なので、詳しく知りたい方のために転記させて頂きます。『』内は原文です。

<説明文>
Grave-Nitta-Yoshisada's-head-Guide-Plate.JPG
『建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)は 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で没したと伝えられている。
 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。』


この付近は網一色村(あみいしきむら)と呼ばれていたようですね。東側を流れる酒匂川(さかわがわ)まできたところで、宇都宮泰藤は力尽き、奪い返した主君の首を埋葬し、自らもこの地で没したようです。

Nitta-Yoshisada-Kubizuka.JPG

新田義貞の為に奮闘したこの宇都宮泰藤という武将が、徳川家康家臣で小田原藩主となる大久保氏の先祖というところに、浅からぬ因縁を感じるとともに、若干ですが複雑な思いもします。更に、徳川氏の祖が、源氏の嫡流新田氏とされていることとも頭をよぎります。ちょっと考え過ぎですかね?


ここ小田原だけではなく、新田義貞の首塚と呼ばれている場所は他に複数あります。大切なことは、それぞれの場所で、新田義貞に思いを馳せる人たちが今もいることだと思っています。

nittayoshisada-kubizuka-Odawara.JPG
鎌倉幕府討滅の中心人物となった新田義貞に、思いを馳せることができる場所です。

■訪問:新田義貞首塚
[神奈川県小田原市東町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
「新田義貞の首塚」



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2023年04月23日

布陣した家康が日々参詣した神社(小田原市)山王神社

北条征伐のために小田原城の東側に布陣した徳川家康が、足しげく通ったと伝わる神社を訪ねました。

<山王神社>
shrine-gate-odawara-sannou.JPG
odawara-sannoushrine.JPG
小田原市の山王神社です

<御由緒>
shrine-odawara-sannou-Guide-Plate.JPG
詳細が記されていますので、以下に転記させて頂きます。

『明応四年(一四九五)二月北條早雲は、小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模国を平定した。
その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称へ、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが暴浪のため、その地崩壊せしかば、慶長十八年(一六一三)九月十八日現地に移せりと。
旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。
寛永元年(一六二四)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ井戸を史跡として長く後世に伝えん。』


家康が布陣した天正十八年(1590年)頃の山王神社は、現在よりもう少し海側に位置していたようです。

<境内の地図>
Odawara-sannoushrine-Guide-Plate.JPG
境内に「旧山王原村の図(及び綱一色村)」と題した地図が掲示されていました。山王原村は西の山王川、東の酒匂川(さかわがわ)に挟まれた海沿いの村だったわけですね。山王神社は山王川沿いです。

<地図拡大>
Odawara-sannoushrine-Guide-Map.JPG
山王神社付近を拡大、そして加筆させて頂きました。現在の山王神社(赤丸)の道を挟んだ南側(緑の丸)が旧山王神社の敷地であることが記されています。移転したといっても、すぐ近くです。今より河口に近かったわけですね。
ちょっと細かいことに拘ると、説明文には『山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え』とありますから、本来は小田原城の一部だったことになります。いくら近くに布陣しているからといって、敵の城内に参拝できたのか?まぁやや疑問ながらも、その付近はいわゆる総構えの外側になるので、戦況によっては家康が足を運ぶことも可能だったのかもしれません。


<山王川河口>
Odawara-Sannou-River-Estuary.JPG
向かって右手のあの付近でしょうか。

由緒によれば、旧社地には「星月夜ノ井戸」と呼ばれる井戸があり、山王神社は星月夜ノ社とも呼ばれていたとのこと。素敵な響きですね。深い意味があるのかもしれませんが、夜空に浮かぶ星や月が水面に映って見える井戸…とシンプルに受け止めることにします。家康も井戸の水面を見つめたのでしょうか?

<境内の井戸>
shrine-well-odawarasannou.JPG
移転とともに、星月夜ノ井戸も山王神社の境内に移されています

shrine-odawara-sannou-jinja.JPG
山王神社は小田原合戦の頃とは場所が多少異なるものの、戦の最中の家康が参拝した神社であることは間違いありません。戦の勝利を祈ったと伝わりますが、それだけでしょうか?きっと他にもいろんな願いがあったことでしょうね。

■訪問:
浜町山王神社

(別名:星月夜の社)
[神奈川県小田原市浜町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
・山王神社御由緒
・旧山王原村の図



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2023年04月22日

徳川家康陣地跡の碑(小田原市)

徳川家康が小田原城を攻める秀吉軍として布陣した場所を訪ねました。

<徳川家康陣地跡>
Tokugawaieyasu-Jinba-stone-monument.JPG
こちらです。

<説明板>
Tokugawa-Ieyasu-Jinchiato.JPG
Tokugawaieyasu-Jinchiato-Guide-Plate.JPG
小田原市教育委員会さんによる説明板が設置されています。せっかくですので、一部を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。

まず冒頭
『この記念碑は、天正十八年(一五九〇)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。
碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保七年(一八三六)九月十七日建立しました。』

とのこと。

小田原の大久保家の歴史は、家康に仕えた三河武士大久保忠世から始まります(藩祖)忠真は江戸時代後期の小田原藩主で、藩政改革を実施した中興の名君と言われています。藩士の名は初耳ですが、小田原藩屈指の書家とか、あるいは教養のある人物なのでしょう(ここは個人的な推測です)


以下説明文の続きです
『徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約三万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。三島から宮城野を経て、明星岳を越え久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣しました。』

北条討伐に乗り出した豊臣軍配下で、徳川軍3万は主力の一部を担っていました。文中にある進軍ルートで、山中城鷹ノ巣城足柄城などを落とています。三方に分かれていた徳川軍は小田原城の東側に集結し、大軍による包囲網に加わります。その一方で、徳川軍は別働隊を派遣して、北から関東に入った前田利家ら北国軍に加勢するなど、豊臣軍に大きく貢献しました。

<今井権現神社>
Tokugawaieyasu-Jinchiato-Torii.JPG
家康がここに陣を張ったことが縁で、江戸初期に東照宮が創建されたと伝わります。実際に陣を張った当時、ここは柳川和泉守泰久の宅地で、徳川軍の滞在は北条氏が降服するまで約110日も続いたそうです。柳川氏は地元(当時の地名は今井)の豪族と思われます。

<徳川家康陣地跡の碑>
Tokugawaieyasu-Jinba-stonemonument.JPG
説明板によれば、碑の全体の高さは335p、碑石そのものは255pとのこと。厚みもあり、立派な石碑です。

<陣城跡?>
Tokugawaieyasu-Jinba-Odawara.JPG
陣の周りには堀があったとも伝わりますが、現在は確認することができません。


秀吉率いる大軍は小田原城を包囲したものの、睨み合いが続く状態が長く続きました。そんななか、攻め手として小田原城の一角に攻め込めたのは徳川軍だけなのです。家康はここでも豊臣軍に貢献しました。
ただ、敵である北条氏とはもともと同盟関係であり、第5代当主・北条氏直には娘・督姫を嫁がせています。つまり敵方の当主の義理の父です。また、当主の叔父(前当主・氏政の弟)である北条氏規(うじのり)とは、今川氏の人質時代をともに過ごした仲です。


どのような思いで
北条氏の降伏を待っていたのでしょうね

Imai-Jinba-Ato-Odawara.JPG
つわものどもが夢の跡

■訪問:徳川家康陣地跡の碑
  (今井陣場跡)
[神奈川県小田原市寿町]4丁目

■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)



-----------( 補 足 )-----------
私は徒歩で現地へ向かいましたが、箱根登山バスの今井バス停から徒歩1分です。
Tokugawaieyasu-Jinba-bus-station-Imai.JPG



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陣場という名のバス停(小田原市)

小田原市でこんなバス亭と出会いました。

Tokugawaieyasu-Jinba-bus-station-Jinba.JPG
陣場か…

この付近は徳川家康が陣を張ったと伝わる場所です。家康の小田原出陣といえば、これはもう豊臣秀吉に従って小田原城を攻めた時の話ですね。家康の本陣はもう少し北側(北西)のようですが、徳川軍は約3万もの大軍でしたので、この付近全体に布陣していたのでしょう。

それがそのまま呼び名となっているわけか

陣場とか陣屋といった地名は日本各地にみられます。ただ、まさに徳川家康の陣場跡へ向かって歩いている最中だったので、陣場と記されたバス停を目にしたときは嬉しかったですね。

徳川軍は100日以上この地に留まったと伝わります。主戦場にはなりませんでしたが、それ相応の環境を整えた上で滞在していたのでしょう。バス停のおかげで、そのなごりが漂っているとことを感じることができました。

Tokugawaieyasu-Jinba-bus-station-Imai.JPG
徳川家康陣場跡として石碑が建てられているのは、お隣のバス停(今井)のすぐ近くです。現在は寿町ですが、むかしは今井という地名だったようです。

Tokugawaieyasu-Jinchi-ato.JPG
陣場跡は今井陣場ともよばれているとのこと。これについては、次の投稿とさせて頂きますので、良かったら覗いてみて下さい。

■訪問:バス停 陣場
 (箱根登山バス)
[神奈川県小田原市寿町]5丁目


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2023年04月09日

大久保神社(小田原市)大久保忠世を祀る城山の神社

徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世を祀る神社を訪ねました。

<大久保神社>
Okubo-Shrine-Odawara-stone-pillar.JPG

<石段と入口>
Okubo-Shrine-Odawara-stone-steps.JPG

<鳥居>
Okubo-Shrine-Gate.JPG

<狛犬>
Okubo-Shrine-Komainu.JPG
Okubo-Shrine-Odawara-Komainu.JPG

<拝殿>
Okubo-Shrine-Odawara-city.JPG
Okubo-Jinja-Hengaku.JPG
長きに渡って家康に忠節を尽くし小田原城主となった大久保忠世小田原藩中興の名君となった大久保忠真が祀られています

■大久保忠世■おおくぼただよ
大久保忠世は徳川家康に古くから仕えていた三河国武士です(1532年生)。弟忠佐とともに数々の戦で武功をあげ、家康の天下取りに貢献しました。豊臣秀吉による小田原征伐にも家康に従って参戦し(1590年)、北条家が滅んだ後は4万5千石で小田原城主となりました。

■大久保家と小田原藩■
忠世の嫡男・忠隣(ただちか)の代で、大久保家は一旦改易となります。しかしのちに大名として復活し、5代忠朝の代で小田原藩主となりました。この時の石高は11万3千石でしたので、大久保家がいかに幕府から期待されていたか伝わってきますね。小田原は関東防御の要衝であり、その後も幕末まで大久保家が代々城主を務めました。

■大久保忠真■ただざね
小田原は譜代大名が治める重要な藩のひとつですが、他藩同様に、江戸時代後期ともなると財政窮乏に陥っていました。この苦しい状況で藩政改革を行い、中興の名君と呼ばれたのが11代(小田原藩大久保家としては9代)忠真でした。忠真は藩主として活躍する一方で、幕府の要職を歴任し、最終的には老中を20年以上勤め、職についたまま亡くなりました(享年60)。

<現地説明板>
Okubo-Shrine-Odawaraa-Guide-Plate.JPG
こちらに記された説明によれば、大久保家はもともとは『下野(今の栃木県)宇都宮に勢力を持った藤原道兼の流れの宇都宮』氏の子孫とのこと。宇都宮泰藤のときに新田義貞に従い転戦しましたが、義貞亡きあと三河に土着したようです。その後、姓を宇津に改めて徳川の祖・松平に属し、やがて大久保を名乗ったと記されています。

<大久保藤>おおくぼふじ
Okubo-family-crest.JPG
小田原藩大久保氏の家紋です。藤の家紋は藤原氏の流れを汲むことを示しています。

<拝殿>
Okubo-Shrine-Odawara-front-shrine.JPG
大きな神社ではありませんが、静寂のなか凛とした空気が漂います。

<本殿>
Okubo-jinja-main-shrine.JPG
大久保神社の創建は1893年(明治26年)。当初は小田原城天守台跡に祀られていました。1900年(明治33年)にこの地に移されました。

<城山の神社>
Okubo-Shrine-Odawara-Shiroyama.JPG
城山の中腹で今でも小田原を見守っています

■訪問:大久保神社
[神奈川県小田原市城山]

■参考及び出典
現地説明板



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2023年03月19日

武家の守護神から始まる和樂備神社(蕨市)

<和樂備神社>わらび
Warabij-shrinegate.JPG
蕨城址公園の帰りに、お隣の和樂備神社にも立ち寄りました。

<社殿>
Warabi-shrine.JPG
立派です

<本殿>
Warabi-Mainshrine.JPG
蕨の鎮守として崇敬される神社です

<手水舎>
Warabijinja-Chozuya.JPG
説明板によれば寛永寺旧在ともいわれる貴重な水盤とのこと

境内の全ては紹介できないので案内図を貼っておきます

<案内図>
Warabijinja-Guidemap.JPG
充実の境内

城とは関係ないのか?

大いに関係あります

<由緒>
Warabijinja-honorable-history.JPG
一部を以下に転記させて頂きます。

『当社の創建は明らかではないが、社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。』

八幡神は古くは武家の守護神として信仰され、特に足利将軍家は八幡信仰を押し進めました。そういう意味では、八幡宮を前身とするここ和樂備神社が、足利将軍家の一族・渋川氏が築いた城跡のお隣というのは感慨深いですね。城の正確な位置はわかりませんが、神社の境内も城の一部だったと思われます(個人意見)。

<境内>
Warabijinja-precincts.JPG
池を挟んだ向こう側は城址公園です

ということで
蕨城址公園のお隣の神社は、蕨城の成り立ちと密接な関係だったというお話でした。

<鎮守>
Warabijinja.JPG
由緒によれば『江戸時代には「上の宮」⁽八幡社⁾と呼ばれ、「中の宮」⁽氷川社⁾、「下の宮」⁽氷川社⁾と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。』とあります。城なきあともこの地に定着していたわけですね。八幡社が和樂備神社と名づけられたのは明治になってから。今でも地元民に親しまれている神社です。

■訪問:和樂備神社
[埼玉県蕨市中央]4丁目

■参考:現地説明板
・和樂備神社由緒
・蕨市教育委員会



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2022年12月25日

北条早雲騎馬像(小田原駅西口)早雲の「火牛の計」

今回は小田原駅前の北条早雲像の話です。

<北条早雲像>ほうじょうそううん
Houjou-Souun.JPG
小田原駅西口駅前広場のロータリーに立つ北条早雲像。小田原北条氏の祖となった武将ですね。駿河国の興国寺城を拠点にして伊豆を支配下におさめたのち、相模国の小田原城を手にいれました。早雲以降、北条氏は氏綱・氏康・氏政・氏直と5代にわたって続き、やがては関東の覇者となりました。

ところで
立派な騎馬像ではありますが、まわりに牛がいるのはどういうことでしょうか?

<牛>
kagyu-no-kei.JPG
牛といってものんびりした雰囲気はなく、むしろ慌てているようにも映ります。角には木の棒が付けられていたり、まるでキャンドルのように火がともされています。

これは早雲が小田原城を攻める際に、千頭の牛を使って攻略したとされる「火牛の計」を表しています。

<火牛の計>かぎゅうのけい
Houjousouun-Kagyunokei.JPG
もう少し詳しく言うと、伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけ、小田原城の大森氏を討ち破ったとされています(現地説明板の内容を要約)。

つまりは
北条氏がここ小田原に進出した瞬間の姿がモチーフとなっているわけですね。

ということで
北条早雲の騎馬像のご紹介でした。ちなみに、早雲本人は北条を名乗っていません。もとの名は伊勢盛時です。北条の名は、二代目当主の氏綱から用いられました。

<小田原駅西口駅前広場>
Houjousouun-Odawara.JPG
伊勢盛時の雄姿ということですね

■訪問:北条早雲像
(小田原駅西口ロータリー)
[神奈川県小田原市城山]1丁目

■参考及び出典
・Wikipedia:2022/12/25
・現地説明板
(北條早雲像建立期成会)


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2022年12月03日

富山の薬売りの礎を築いたお殿様 富山城址の前田正甫像 

今回は富山売薬の礎を築いた藩主の話です。

<前田正甫像>まえだまさとし
Masatoshi-Maeda-Toyamajo.JPG
富山城址で撮影した越中富山藩の第2代藩主・前田正甫像。かなり高い位置にあります。現地説明板によれば、台石を含めると10mに及ぶとのこと。

その説明板がこちらです。

<説明板>
Masatoshi-Maeda-explanation-board.JPG
詳細が記されています。少し長いので、一部を下記に抜粋させて頂きます。『』内は富山市さんの原文そのままです。

前田正甫は『富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました』とのこと。文化人としても知られる藩主だったようです。そして『正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。』とあります。

反魂丹(はんごんたん)?
伝説?

ちゃんと続きがあります。『元禄三(一六九〇)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです』

読んだ通りで、これ以上説明は不要ですね。ちなみに、文中にある『とある大名』とは、三春藩主の秋田輝季だったようです。ちょっと失礼ながら、秋田輝季も富山の薬を世に広めるのに貢献したということになりますね。

この伝説の信憑性はともかく、正甫が城下の製薬店や薬を扱う業者の商売を保護し、売薬を奨励したことは事実です。そしてこの働きかけが、のちに発展する越中薬売りの礎となりました。

<富山売薬を広めたお殿様>
Masatoshi-Maeda.JPG
一説によれば、正甫はあまり体が丈夫な方ではなかったそうです。それ故に、薬に強い関心を持っていたとも言われています。何が吉と出るのか、わからないものですね。

■訪問:前田正甫像
(富山城址公園)
[富山県富山市本丸]

■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/12/3
現地説明板(富山市)



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  8. 8. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  9. 9. 内匠頭御預かりの田村家のルーツ(田村右京太夫屋敷跡)
  10. 10. 浦和暗渠散歩 天王川を下る
  11. 11. 高天神城のなごり
  12. 12. 金沢城のなごり
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もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
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