徳川十六神将のひとりに数えられる大久保忠世を祀る神社を訪ねました。
<大久保神社>
<石段と入口>
<鳥居>
<狛犬>
<拝殿>
長きに渡って家康に忠節を尽くし小田原城主となった大久保忠世、小田原藩中興の名君となった大久保忠真が祀られています
■大久保忠世■おおくぼただよ
大久保忠世は徳川家康に古くから仕えていた三河国武士です(1532年生)。弟忠佐とともに数々の戦で武功をあげ、家康の天下取りに貢献しました。豊臣秀吉による小田原征伐にも家康に従って参戦し(1590年)、北条家が滅んだ後は4万5千石で小田原城主となりました。
■大久保家と小田原藩■
忠世の嫡男・忠隣(ただちか)の代で、大久保家は一旦改易となります。しかしのちに大名として復活し、5代忠朝の代で小田原藩主となりました。この時の石高は11万3千石でしたので、大久保家がいかに幕府から期待されていたか伝わってきますね。小田原は関東防御の要衝であり、その後も幕末まで大久保家が代々城主を務めました。
■大久保忠真■ただざね
小田原は譜代大名が治める重要な藩のひとつですが、他藩同様に、江戸時代後期ともなると財政窮乏に陥っていました。この苦しい状況で藩政改革を行い、中興の名君と呼ばれたのが11代(小田原藩大久保家としては9代)忠真でした。忠真は藩主として活躍する一方で、幕府の要職を歴任し、最終的には老中を20年以上勤め、職についたまま亡くなりました(享年60)。
<現地説明板>
こちらに記された説明によれば、大久保家はもともとは『下野(今の栃木県)宇都宮に勢力を持った藤原道兼の流れの宇都宮』氏の子孫とのこと。宇都宮泰藤のときに新田義貞に従い転戦しましたが、義貞亡きあと三河に土着したようです。その後、姓を宇津に改めて徳川の祖・松平に属し、やがて大久保を名乗ったと記されています。
<大久保藤>おおくぼふじ
小田原藩大久保氏の家紋です。藤の家紋は藤原氏の流れを汲むことを示しています。
<拝殿>
大きな神社ではありませんが、静寂のなか凛とした空気が漂います。
<本殿>
大久保神社の創建は1893年(明治26年)。当初は小田原城天守台跡に祀られていました。1900年(明治33年)にこの地に移されました。
<城山の神社>
城山の中腹で今でも小田原を見守っています
■訪問:大久保神社
[神奈川県小田原市城山]
■参考及び出典
現地説明板
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2023年04月09日
2023年03月19日
武家の守護神から始まる和樂備神社(蕨市)
<和樂備神社>わらび
蕨城址公園の帰りに、お隣の和樂備神社にも立ち寄りました。
<社殿>
立派です
<本殿>
蕨の鎮守として崇敬される神社です
<手水舎>
説明板によれば寛永寺旧在ともいわれる貴重な水盤とのこと
境内の全ては紹介できないので案内図を貼っておきます
<案内図>
充実の境内
城とは関係ないのか?
大いに関係あります
<由緒>
一部を以下に転記させて頂きます。
『当社の創建は明らかではないが、社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。』
八幡神は古くは武家の守護神として信仰され、特に足利将軍家は八幡信仰を押し進めました。そういう意味では、八幡宮を前身とするここ和樂備神社が、足利将軍家の一族・渋川氏が築いた城跡のお隣というのは感慨深いですね。城の正確な位置はわかりませんが、神社の境内も城の一部だったと思われます(個人意見)。
<境内>
池を挟んだ向こう側は城址公園です
ということで
蕨城址公園のお隣の神社は、蕨城の成り立ちと密接な関係だったというお話でした。
<鎮守>
由緒によれば『江戸時代には「上の宮」⁽八幡社⁾と呼ばれ、「中の宮」⁽氷川社⁾、「下の宮」⁽氷川社⁾と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。』とあります。城なきあともこの地に定着していたわけですね。八幡社が和樂備神社と名づけられたのは明治になってから。今でも地元民に親しまれている神社です。
■訪問:和樂備神社
[埼玉県蕨市中央]4丁目
■参考:現地説明板
・和樂備神社由緒
・蕨市教育委員会
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蕨城址公園の帰りに、お隣の和樂備神社にも立ち寄りました。
<社殿>
立派です
<本殿>
蕨の鎮守として崇敬される神社です
<手水舎>
説明板によれば寛永寺旧在ともいわれる貴重な水盤とのこと
境内の全ては紹介できないので案内図を貼っておきます
<案内図>
充実の境内
城とは関係ないのか?
大いに関係あります
<由緒>
一部を以下に転記させて頂きます。
『当社の創建は明らかではないが、社伝によれば、室町時代に蕨を所領とした足利将軍の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりであるという。』
八幡神は古くは武家の守護神として信仰され、特に足利将軍家は八幡信仰を押し進めました。そういう意味では、八幡宮を前身とするここ和樂備神社が、足利将軍家の一族・渋川氏が築いた城跡のお隣というのは感慨深いですね。城の正確な位置はわかりませんが、神社の境内も城の一部だったと思われます(個人意見)。
<境内>
池を挟んだ向こう側は城址公園です
ということで
蕨城址公園のお隣の神社は、蕨城の成り立ちと密接な関係だったというお話でした。
<鎮守>
由緒によれば『江戸時代には「上の宮」⁽八幡社⁾と呼ばれ、「中の宮」⁽氷川社⁾、「下の宮」⁽氷川社⁾と共に蕨宿三鎮守として、重きをなした。』とあります。城なきあともこの地に定着していたわけですね。八幡社が和樂備神社と名づけられたのは明治になってから。今でも地元民に親しまれている神社です。
■訪問:和樂備神社
[埼玉県蕨市中央]4丁目
■参考:現地説明板
・和樂備神社由緒
・蕨市教育委員会
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2022年12月25日
北条早雲騎馬像(小田原駅西口)早雲の「火牛の計」
今回は小田原駅前の北条早雲像の話です。
<北条早雲像>ほうじょうそううん
小田原駅西口駅前広場のロータリーに立つ北条早雲像。小田原北条氏の祖となった武将ですね。駿河国の興国寺城を拠点にして伊豆を支配下におさめたのち、相模国の小田原城を手にいれました。早雲以降、北条氏は氏綱・氏康・氏政・氏直と5代にわたって続き、やがては関東の覇者となりました。
ところで
立派な騎馬像ではありますが、まわりに牛がいるのはどういうことでしょうか?
<牛>
牛といってものんびりした雰囲気はなく、むしろ慌てているようにも映ります。角には木の棒が付けられていたり、まるでキャンドルのように火がともされています。
これは早雲が小田原城を攻める際に、千頭の牛を使って攻略したとされる「火牛の計」を表しています。
<火牛の計>かぎゅうのけい
もう少し詳しく言うと、伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけ、小田原城の大森氏を討ち破ったとされています(現地説明板の内容を要約)。
つまりは
北条氏がここ小田原に進出した瞬間の姿がモチーフとなっているわけですね。
ということで
北条早雲の騎馬像のご紹介でした。ちなみに、早雲本人は北条を名乗っていません。もとの名は伊勢盛時です。北条の名は、二代目当主の氏綱から用いられました。
<小田原駅西口駅前広場>
伊勢盛時の雄姿ということですね
■訪問:北条早雲像
(小田原駅西口ロータリー)
[神奈川県小田原市城山]1丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/12/25
・現地説明板
(北條早雲像建立期成会)
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<北条早雲像>ほうじょうそううん
小田原駅西口駅前広場のロータリーに立つ北条早雲像。小田原北条氏の祖となった武将ですね。駿河国の興国寺城を拠点にして伊豆を支配下におさめたのち、相模国の小田原城を手にいれました。早雲以降、北条氏は氏綱・氏康・氏政・氏直と5代にわたって続き、やがては関東の覇者となりました。
ところで
立派な騎馬像ではありますが、まわりに牛がいるのはどういうことでしょうか?
<牛>
牛といってものんびりした雰囲気はなく、むしろ慌てているようにも映ります。角には木の棒が付けられていたり、まるでキャンドルのように火がともされています。
これは早雲が小田原城を攻める際に、千頭の牛を使って攻略したとされる「火牛の計」を表しています。
<火牛の計>かぎゅうのけい
もう少し詳しく言うと、伊豆韮山から箱根を越えて小田原に進出した時、牛の角にたいまつを結んで大軍の夜襲に見せかけ、小田原城の大森氏を討ち破ったとされています(現地説明板の内容を要約)。
つまりは
北条氏がここ小田原に進出した瞬間の姿がモチーフとなっているわけですね。
ということで
北条早雲の騎馬像のご紹介でした。ちなみに、早雲本人は北条を名乗っていません。もとの名は伊勢盛時です。北条の名は、二代目当主の氏綱から用いられました。
<小田原駅西口駅前広場>
伊勢盛時の雄姿ということですね
■訪問:北条早雲像
(小田原駅西口ロータリー)
[神奈川県小田原市城山]1丁目
■参考及び出典
・Wikipedia:2022/12/25
・現地説明板
(北條早雲像建立期成会)
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2022年12月03日
富山の薬売りの礎を築いたお殿様 富山城址の前田正甫像
今回は富山売薬の礎を築いた藩主の話です。
<前田正甫像>まえだまさとし
富山城址で撮影した越中富山藩の第2代藩主・前田正甫像。かなり高い位置にあります。現地説明板によれば、台石を含めると10mに及ぶとのこと。
その説明板がこちらです。
<説明板>
詳細が記されています。少し長いので、一部を下記に抜粋させて頂きます。『』内は富山市さんの原文そのままです。
前田正甫は『富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました』とのこと。文化人としても知られる藩主だったようです。そして『正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。』とあります。
反魂丹(はんごんたん)?
伝説?
ちゃんと続きがあります。『元禄三(一六九〇)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです』
読んだ通りで、これ以上説明は不要ですね。ちなみに、文中にある『とある大名』とは、三春藩主の秋田輝季だったようです。ちょっと失礼ながら、秋田輝季も富山の薬を世に広めるのに貢献したということになりますね。
この伝説の信憑性はともかく、正甫が城下の製薬店や薬を扱う業者の商売を保護し、売薬を奨励したことは事実です。そしてこの働きかけが、のちに発展する越中薬売りの礎となりました。
<富山売薬を広めたお殿様>
一説によれば、正甫はあまり体が丈夫な方ではなかったそうです。それ故に、薬に強い関心を持っていたとも言われています。何が吉と出るのか、わからないものですね。
■訪問:前田正甫像
(富山城址公園)
[富山県富山市本丸]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/12/3
現地説明板(富山市)
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<前田正甫像>まえだまさとし
富山城址で撮影した越中富山藩の第2代藩主・前田正甫像。かなり高い位置にあります。現地説明板によれば、台石を含めると10mに及ぶとのこと。
その説明板がこちらです。
<説明板>
詳細が記されています。少し長いので、一部を下記に抜粋させて頂きます。『』内は富山市さんの原文そのままです。
前田正甫は『富山藩第二代藩主。初代藩主である父利次の後をうけ、文武の振興を図り、新田開発や産業育成など、藩政の充実に力を注ぎました』とのこと。文化人としても知られる藩主だったようです。そして『正甫は富山売薬の基礎を築いた人物としても有名です。それは「反魂丹伝説」という形で語り継がれています。』とあります。
反魂丹(はんごんたん)?
伝説?
ちゃんと続きがあります。『元禄三(一六九〇)年、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめたところ、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになったため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山売薬の始まりであるという伝説です。この伝説により、正甫は「富山売薬を広めたお殿様」として、いまでも市民の間から親しまれているのです』
読んだ通りで、これ以上説明は不要ですね。ちなみに、文中にある『とある大名』とは、三春藩主の秋田輝季だったようです。ちょっと失礼ながら、秋田輝季も富山の薬を世に広めるのに貢献したということになりますね。
この伝説の信憑性はともかく、正甫が城下の製薬店や薬を扱う業者の商売を保護し、売薬を奨励したことは事実です。そしてこの働きかけが、のちに発展する越中薬売りの礎となりました。
<富山売薬を広めたお殿様>
一説によれば、正甫はあまり体が丈夫な方ではなかったそうです。それ故に、薬に強い関心を持っていたとも言われています。何が吉と出るのか、わからないものですね。
■訪問:前田正甫像
(富山城址公園)
[富山県富山市本丸]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/12/3
現地説明板(富山市)
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2022年11月26日
佐々成政ゆかりの神社(富山市)千歳神社
戦国武将・佐々成政ゆかりの神社を訪ねました。
<千歳神社>ちとせじんじゃ
富山市の千歳神社です。佐々成政が戦勝祈願をした神社と伝わります。
<説明板(御由緒)>
情報が少ないので、現地説明板(御由緒)を参考にさせて頂きます。下記に一部を転記させて頂きます。(『』内は原文の写しです)
『天正九年(一五八一)佐々成政公が、越中五十四万石を領して富山城主となった時、敬神の念が厚かったので、この神明社を産土大神として崇め、城下町富山を東西に二分し、東は北の神明、西は南の神明と称し、それぞれ富山の守護神とした。』
佐々成政というと、とても荒々しく、勇猛果敢に戦うイメージが強いですね。しかしその一方で、神を敬うことを大切にしていました。
若い頃から織田信長に仕えて、徐々に頭角を現していった佐々成政が、ここ越中で一国を任されたのが40代の半ばのこと。越中54万石ですからね。これはかなり凄いことです。そのまま何事なければ、更に飛躍できたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
成政が柴田勝家らとともに上杉方の魚津城を攻めている真っ最中に、主君が本能寺で討たれてしまいます。これ以降、状況は激しく変化。成政は時代の流れに激しく抵抗しますが、良い結果は得られませんでした。
終わってみれば、越中を領し、この神社を保護した頃が、出世のピークだったのかもしれません。
<千歳神社鳥居>
勢いに乗っていた佐々成政が大切にした地元の神明社。富山の土地神としては最も古いとされています。
説明板によれば、当初は別の場所に鎮座していたようです。説明文をそのまま転記させて頂くと『当神社は北の神明にあたり、当時は蛯町の地に鎮座していましたが、富山藩祖前田利次公が入城後、寛文年間城下の町割に際し現在地に移った。』とのこと。江戸時代になって移転したわけですね。
また、神明社が千坂神社と改称されたのは明治になってからとのこと。説明文には、越中富山藩の第10代藩主である前田利保が、富山城の出丸に隠居所として千歳御殿を造り、城の近くを流れる神通川の下流を千歳川と名づけたことが記されています。神社の改称も、千歳御殿に因んだのでしょう。
<千歳橋>
千歳神社近くの千歳橋です。川はかつての神通川の流路とほぼ一致します。
<佐々成政ゆかりの神社>
現在の社殿は昭和になって再建されたものです。しかし神社の始まりは古く、長い歴史のなかには、
、戦国武将・佐々成政も深く関わっています。
以上、富山市にて佐々成政ゆかりの神社を訪ねたというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:千歳神社
[富山県富山市千歳町]2丁目
■参考及び抜粋
現地説明板(千歳神社由緒)
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<千歳神社>ちとせじんじゃ
富山市の千歳神社です。佐々成政が戦勝祈願をした神社と伝わります。
<説明板(御由緒)>
情報が少ないので、現地説明板(御由緒)を参考にさせて頂きます。下記に一部を転記させて頂きます。(『』内は原文の写しです)
『天正九年(一五八一)佐々成政公が、越中五十四万石を領して富山城主となった時、敬神の念が厚かったので、この神明社を産土大神として崇め、城下町富山を東西に二分し、東は北の神明、西は南の神明と称し、それぞれ富山の守護神とした。』
佐々成政というと、とても荒々しく、勇猛果敢に戦うイメージが強いですね。しかしその一方で、神を敬うことを大切にしていました。
若い頃から織田信長に仕えて、徐々に頭角を現していった佐々成政が、ここ越中で一国を任されたのが40代の半ばのこと。越中54万石ですからね。これはかなり凄いことです。そのまま何事なければ、更に飛躍できたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。
成政が柴田勝家らとともに上杉方の魚津城を攻めている真っ最中に、主君が本能寺で討たれてしまいます。これ以降、状況は激しく変化。成政は時代の流れに激しく抵抗しますが、良い結果は得られませんでした。
終わってみれば、越中を領し、この神社を保護した頃が、出世のピークだったのかもしれません。
<千歳神社鳥居>
勢いに乗っていた佐々成政が大切にした地元の神明社。富山の土地神としては最も古いとされています。
説明板によれば、当初は別の場所に鎮座していたようです。説明文をそのまま転記させて頂くと『当神社は北の神明にあたり、当時は蛯町の地に鎮座していましたが、富山藩祖前田利次公が入城後、寛文年間城下の町割に際し現在地に移った。』とのこと。江戸時代になって移転したわけですね。
また、神明社が千坂神社と改称されたのは明治になってからとのこと。説明文には、越中富山藩の第10代藩主である前田利保が、富山城の出丸に隠居所として千歳御殿を造り、城の近くを流れる神通川の下流を千歳川と名づけたことが記されています。神社の改称も、千歳御殿に因んだのでしょう。
<千歳橋>
千歳神社近くの千歳橋です。川はかつての神通川の流路とほぼ一致します。
<佐々成政ゆかりの神社>
現在の社殿は昭和になって再建されたものです。しかし神社の始まりは古く、長い歴史のなかには、
、戦国武将・佐々成政も深く関わっています。
以上、富山市にて佐々成政ゆかりの神社を訪ねたというお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
■訪問:千歳神社
[富山県富山市千歳町]2丁目
■参考及び抜粋
現地説明板(千歳神社由緒)
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2022年07月09日
北条時宗夫人・覚山尼ゆかりの寺(上尾市)少林寺
今回は城跡巡りの途中で立ち寄った歴史ある寺院の話です。
<少林寺山門>
<本堂>
臨済宗の寺院で、鎌倉の円覚寺の末寺です
上尾市のホームページには『同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。』とあります。同ページの情報によれば、開山は鎌倉の円覚寺第二世を務めた高僧・仏源禅師、開基は鎌倉幕府執権・北条時宗夫人の覚山尼(かくざんに)とのこと。覚山尼は縁切寺としても知られる鎌倉の東慶寺の開基ともいわれています。武家政権の中心地である当時の鎌倉と、深い関りのあった寺院ということですね。
<境内の様子>
歴史の古い少林寺ですが、幕末動乱期に火災で本堂他が焼失してしまいました。山門と鐘楼堂が難を免れ、いまに至るようです。
<四脚門>
上尾市指定文化財に指定されています
<鐘楼堂>
立派な佇まいです。嘉永年間に建立されたものを解体・修理して現在に至ります
ということで
幕府があった頃の鎌倉と深い関りのある少林寺のご紹介でした。拙ブログで魅力の全てはお伝えできませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
<県道沿い>
少林寺は県道上尾・久喜線沿いです。山門は少し奥まったところにあるため、こちらを目印にすると素通りせずにすみます。
おじゃま致しました
■訪問:少林寺
[埼玉県上尾市西門前] 399
■参考及び出典■
境内説明板(少林寺)
上尾市教育委員会ホームページ
>上尾の寺社3少林寺(西門前)
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110106.html
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<少林寺山門>
<本堂>
臨済宗の寺院で、鎌倉の円覚寺の末寺です
上尾市のホームページには『同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。』とあります。同ページの情報によれば、開山は鎌倉の円覚寺第二世を務めた高僧・仏源禅師、開基は鎌倉幕府執権・北条時宗夫人の覚山尼(かくざんに)とのこと。覚山尼は縁切寺としても知られる鎌倉の東慶寺の開基ともいわれています。武家政権の中心地である当時の鎌倉と、深い関りのあった寺院ということですね。
<境内の様子>
歴史の古い少林寺ですが、幕末動乱期に火災で本堂他が焼失してしまいました。山門と鐘楼堂が難を免れ、いまに至るようです。
<四脚門>
上尾市指定文化財に指定されています
<鐘楼堂>
立派な佇まいです。嘉永年間に建立されたものを解体・修理して現在に至ります
ということで
幕府があった頃の鎌倉と深い関りのある少林寺のご紹介でした。拙ブログで魅力の全てはお伝えできませんが、雰囲気だけでも伝われば幸いです。
<県道沿い>
少林寺は県道上尾・久喜線沿いです。山門は少し奥まったところにあるため、こちらを目印にすると素通りせずにすみます。
おじゃま致しました
■訪問:少林寺
[埼玉県上尾市西門前] 399
■参考及び出典■
境内説明板(少林寺)
上尾市教育委員会ホームページ
>上尾の寺社3少林寺(西門前)
https://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110106.html
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2022年06月25日
源義経招魂碑(久喜市)
今回は埼玉県久喜市の源義経招魂碑の話です。
<源義経招魂碑>しょうこんひ
こちらです
埼玉県で義経?
ここ久喜市には『静御前墓所』があります。冒頭の画像はそちらで撮影しました。
<静御前墓所>しずかごぜんぼしょ
義経の愛妾として有名な静御前の墓所です。義経を追って奥州平泉へ向かう途上で義経の死を知り、病に倒れて没したと伝わります。静御前終焉の地については諸説ありますが、ここもその候補地のひとつとなっています。
義経本人がこの地と深い関りがあったわけではありませんが、静御前が没し、そして眠る場所です。歴史にもしもは禁物ですが、もし義経が密かに生き延びていたなら、この地を訪ねたのではないでしょうか
招魂とは霊を招いてまつること。この地に義経の招魂碑が建てられていることには、感慨深いものがありますね。
ということで
静御前墓所の源義経招魂碑のご紹介でした。
<栗橋駅にて>
現地は栗橋駅から徒歩1分です。駅の改札を出たところにはこんなパネルも設置されていました。ちょっと私がイメージする義経よりオッサンっぽいですが、武芸に励み、武功で名を馳せた人ですから、これくらい男らしかったのかも知れませんね。
■訪問:源義経招魂碑
(静御前墓所)
[埼玉県久喜市栗橋中央]1-2-10
-----■過去記事のご紹介■-----
静御前墓所は二度目の訪問となりました。初回訪問時の記事を下記にご紹介させて頂きますので、良かったら覗いてみて下さい。
<栗橋駅構内>
投稿:2019年01月19日
タイトル:静御前ゆかりの地
→『記事へすすむ』
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<源義経招魂碑>しょうこんひ
こちらです
埼玉県で義経?
ここ久喜市には『静御前墓所』があります。冒頭の画像はそちらで撮影しました。
<静御前墓所>しずかごぜんぼしょ
義経の愛妾として有名な静御前の墓所です。義経を追って奥州平泉へ向かう途上で義経の死を知り、病に倒れて没したと伝わります。静御前終焉の地については諸説ありますが、ここもその候補地のひとつとなっています。
義経本人がこの地と深い関りがあったわけではありませんが、静御前が没し、そして眠る場所です。歴史にもしもは禁物ですが、もし義経が密かに生き延びていたなら、この地を訪ねたのではないでしょうか
招魂とは霊を招いてまつること。この地に義経の招魂碑が建てられていることには、感慨深いものがありますね。
ということで
静御前墓所の源義経招魂碑のご紹介でした。
<栗橋駅にて>
現地は栗橋駅から徒歩1分です。駅の改札を出たところにはこんなパネルも設置されていました。ちょっと私がイメージする義経よりオッサンっぽいですが、武芸に励み、武功で名を馳せた人ですから、これくらい男らしかったのかも知れませんね。
■訪問:源義経招魂碑
(静御前墓所)
[埼玉県久喜市栗橋中央]1-2-10
-----■過去記事のご紹介■-----
静御前墓所は二度目の訪問となりました。初回訪問時の記事を下記にご紹介させて頂きますので、良かったら覗いてみて下さい。
<栗橋駅構内>
投稿:2019年01月19日
タイトル:静御前ゆかりの地
→『記事へすすむ』
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2022年06月18日
畠山重忠ゆかりの観音堂(さいたま市)田島観音堂
畠山重忠ゆかりの地を訪ねました。
<参道>
さいたま市桜区田島の田島観音堂です
<庚申塔>
参道わきの庚申塔です。ここは県道沿い。道標も兼ねたものですが、南・西といった漢字はわかるものの、崩し字のひらがなは読めませんでした(私には)
<カシワの木>
境内でひときわ目をカシワの木は、さいたま市指定天然記念物となっています
<鐘楼>
<境内石碑と六地蔵菩薩>
そして
<田島観音堂>
創建年代等は不詳です。ただ標柱の側面に刻まれた文字からして、鎌倉時代初期なのではないかと推定できます。
<標柱正面>
正面には宝永山如意輪観世音の文字。田島観音の名で親しまれていますが如意輪観世音が正式な名のようです。こちらの観音様は足立坂東13番札所です。
そして側面
<畠山重忠建立>
ちょっと見えにくいですが、「畠山重忠公建立 太田氏房候歸似」と刻まれています。鎌倉幕府の有力御家人だった畠山重忠が建立したということですね。つまり創建は鎌倉幕府が樹立された頃。それ以前かそれ以後かはともかく、だいたいその頃ということになります。太田氏房は岩槻城主だった戦国武将。帰依と読めますので、その信仰の対象でもあったということでしょう。
田島観音堂と畠山重忠の関係についてもう少し深く知りたいと思い調べたのですが、なかなか有効な情報がなく、今回もまた「猫の足あと」さんのお世話になります。『』内は抜粋です。
『真言宗寺院の田島観音堂は、かつて寳榮山如意輪寺と号す寺院址です。田島観音堂の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「如意輪寺 新義真言宗、輿野町圓乗院末にて寳榮山と號す、本尊は不動」とあります。足立坂東三十三ヶ所霊場13番、北足立八十八ヵ所霊場13番、武州足立百不動尊霊場49番です。』
田島観音は、標柱の文字にもあった如意輪寺という寺の跡ということのようです。そして、圓乗院との関りがうかがえます。
[参考:圓乗院(円乗院)]
こちらが与野の圓乗院(円乗院)さんです。鎌倉時代初期に畠山重忠が現在のさいたま市桜区道場に創建した寺院で、戦国時代末期又は江戸時代初期にこの地に移転しました。旧与野市を代表する立派な寺院です。
<田島観音堂>
私の調べ方が悪いせいもあって、田島観音堂と畠山重忠の関係がややぼやけたままですが、与野の圓乗院と関りがあるということで、なんとなく納得しました。
<畠山重忠建立>
かつて畠山重忠がこの付近を領したことは事実です
ということで
畠山重忠ゆかりの観音堂のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:田島観音堂
(如意輪観世音)
[さいたま市南区田島]3丁目
■参考画像:円乗院
(安養山西念寺)
[さいたま市中央区本町西]1丁目
■参考及び抜粋
猫の足あと
・田島観音堂
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_sakra_tajima.html
・円乗院
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_chuo_enjo.html
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<参道>
さいたま市桜区田島の田島観音堂です
<庚申塔>
参道わきの庚申塔です。ここは県道沿い。道標も兼ねたものですが、南・西といった漢字はわかるものの、崩し字のひらがなは読めませんでした(私には)
<カシワの木>
境内でひときわ目をカシワの木は、さいたま市指定天然記念物となっています
<鐘楼>
<境内石碑と六地蔵菩薩>
そして
<田島観音堂>
創建年代等は不詳です。ただ標柱の側面に刻まれた文字からして、鎌倉時代初期なのではないかと推定できます。
<標柱正面>
正面には宝永山如意輪観世音の文字。田島観音の名で親しまれていますが如意輪観世音が正式な名のようです。こちらの観音様は足立坂東13番札所です。
そして側面
<畠山重忠建立>
ちょっと見えにくいですが、「畠山重忠公建立 太田氏房候歸似」と刻まれています。鎌倉幕府の有力御家人だった畠山重忠が建立したということですね。つまり創建は鎌倉幕府が樹立された頃。それ以前かそれ以後かはともかく、だいたいその頃ということになります。太田氏房は岩槻城主だった戦国武将。帰依と読めますので、その信仰の対象でもあったということでしょう。
田島観音堂と畠山重忠の関係についてもう少し深く知りたいと思い調べたのですが、なかなか有効な情報がなく、今回もまた「猫の足あと」さんのお世話になります。『』内は抜粋です。
『真言宗寺院の田島観音堂は、かつて寳榮山如意輪寺と号す寺院址です。田島観音堂の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「如意輪寺 新義真言宗、輿野町圓乗院末にて寳榮山と號す、本尊は不動」とあります。足立坂東三十三ヶ所霊場13番、北足立八十八ヵ所霊場13番、武州足立百不動尊霊場49番です。』
田島観音は、標柱の文字にもあった如意輪寺という寺の跡ということのようです。そして、圓乗院との関りがうかがえます。
[参考:圓乗院(円乗院)]
こちらが与野の圓乗院(円乗院)さんです。鎌倉時代初期に畠山重忠が現在のさいたま市桜区道場に創建した寺院で、戦国時代末期又は江戸時代初期にこの地に移転しました。旧与野市を代表する立派な寺院です。
<田島観音堂>
私の調べ方が悪いせいもあって、田島観音堂と畠山重忠の関係がややぼやけたままですが、与野の圓乗院と関りがあるということで、なんとなく納得しました。
<畠山重忠建立>
かつて畠山重忠がこの付近を領したことは事実です
ということで
畠山重忠ゆかりの観音堂のご紹介でした。拙ブログにお付き合い頂きありがとうございます。
■訪問:田島観音堂
(如意輪観世音)
[さいたま市南区田島]3丁目
■参考画像:円乗院
(安養山西念寺)
[さいたま市中央区本町西]1丁目
■参考及び抜粋
猫の足あと
・田島観音堂
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_sakra_tajima.html
・円乗院
https://tesshow.jp/saitama/saitama/temple_chuo_enjo.html
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