<新田義貞首塚>
こちらになります。
<首塚の碑>
お隣の石碑は比較的新しいですね。立派です
それにしても
新田義貞と言えば本拠は群馬、討ち死にしたのは北陸です。なんで小田原に?
<首塚跡入口付近>
設置されている説明板によれば、足利尊氏に敗れた新田義貞の首級を、家臣が故郷の上州へ持ち帰ろうとしたものの、この地で身動きがとれなくなり、やむなく埋葬したということになります。
ちょっと私の要約は雑なので、詳しく知りたい方のために転記させて頂きます。『』内は原文です。
<説明文>
『建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)は 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で没したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。』
この付近は網一色村(あみいしきむら)と呼ばれていたようですね。東側を流れる酒匂川(さかわがわ)まできたところで、宇都宮泰藤は力尽き、奪い返した主君の首を埋葬し、自らもこの地で没したようです。
新田義貞の為に奮闘したこの宇都宮泰藤という武将が、徳川家康家臣で小田原藩主となる大久保氏の先祖というところに、浅からぬ因縁を感じるとともに、若干ですが複雑な思いもします。更に、徳川氏の祖が、源氏の嫡流新田氏とされていることとも頭をよぎります。ちょっと考え過ぎですかね?
ここ小田原だけではなく、新田義貞の首塚と呼ばれている場所は他に複数あります。大切なことは、それぞれの場所で、新田義貞に思いを馳せる人たちが今もいることだと思っています。
鎌倉幕府討滅の中心人物となった新田義貞に、思いを馳せることができる場所です。
■訪問:新田義貞首塚
[神奈川県小田原市東町]4丁目
■参考及び出典
現地説明板
「新田義貞の首塚」
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