<徳川家康陣地跡>
こちらです。
<説明板>
小田原市教育委員会さんによる説明板が設置されています。せっかくですので、一部を下記に転記させて頂きます(『』内は原文のままです)。
まず冒頭
『この記念碑は、天正十八年(一五九〇)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。
碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保七年(一八三六)九月十七日建立しました。』
とのこと。
小田原の大久保家の歴史は、家康に仕えた三河武士・大久保忠世から始まります(藩祖)。忠真は江戸時代後期の小田原藩主で、藩政改革を実施した中興の名君と言われています。藩士の名は初耳ですが、小田原藩屈指の書家とか、あるいは教養のある人物なのでしょう(ここは個人的な推測です)。
以下説明文の続きです
『徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約三万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。三島から宮城野を経て、明星岳を越え久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣しました。』
北条討伐に乗り出した豊臣軍配下で、徳川軍3万は主力の一部を担っていました。文中にある進軍ルートで、山中城や鷹ノ巣城、足柄城などを落とています。三方に分かれていた徳川軍は小田原城の東側に集結し、大軍による包囲網に加わります。その一方で、徳川軍は別働隊を派遣して、北から関東に入った前田利家ら北国軍に加勢するなど、豊臣軍に大きく貢献しました。
<今井権現神社>
家康がここに陣を張ったことが縁で、江戸初期に東照宮が創建されたと伝わります。実際に陣を張った当時、ここは柳川和泉守泰久の宅地で、徳川軍の滞在は北条氏が降服するまで約110日も続いたそうです。柳川氏は地元(当時の地名は今井)の豪族と思われます。
<徳川家康陣地跡の碑>
説明板によれば、碑の全体の高さは335p、碑石そのものは255pとのこと。厚みもあり、立派な石碑です。
<陣城跡?>
陣の周りには堀があったとも伝わりますが、現在は確認することができません。
秀吉率いる大軍は小田原城を包囲したものの、睨み合いが続く状態が長く続きました。そんななか、攻め手として小田原城の一角に攻め込めたのは徳川軍だけなのです。家康はここでも豊臣軍に貢献しました。
ただ、敵である北条氏とはもともと同盟関係であり、第5代当主・北条氏直には娘・督姫を嫁がせています。つまり敵方の当主の義理の父です。また、当主の叔父(前当主・氏政の弟)である北条氏規(うじのり)とは、今川氏の人質時代をともに過ごした仲です。
どのような思いで
北条氏の降伏を待っていたのでしょうね
つわものどもが夢の跡
■訪問:徳川家康陣地跡の碑
(今井陣場跡)
[神奈川県小田原市寿町]4丁目
■参考及び出典
現地説明板
(小田原市教育委員会)
-----------( 補 足 )-----------
私は徒歩で現地へ向かいましたが、箱根登山バスの今井バス停から徒歩1分です。
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