<新田義貞公之像>
駅前ロータリー設置された新田義貞公像
勇ましい姿ですね。この像は『新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。』とのこと。
『』内はこちらに記されている府中市による説明文をそのまま抜粋させて頂きました。
分倍河原での合戦についても詳しく記されていますので、抜粋しながらご紹介させて頂きます。
『元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。』
群馬県新田町は現在は同県太田市に吸収されています。そこで挙兵し、南下する新田義貞に続々と諸勢力が合流したということですね。そして、ここへ到着する以前に、既に鎌倉幕府軍との戦いは始まっていました。
続きをご紹介します
『同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。』
勝ち続けたわけではなく、苦戦も強いられている様子が伺えます。しかし、ここにきて三浦義勝ら相模の国人衆すらも味方となり、新田軍は再び分倍河原に攻め入り大勝利をおさめます。文中の表現をお借りすると
『前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。』
とのこと。ここでの勝敗がの後に大きく影響したことは言うまでもありません。
140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させる直前の雄姿ということですね
ということで
分倍河原駅前の新田義貞像のご紹介でした。
もし私と同じように分倍河原駅で下車して古戦場へ向かう方は、現地の高低差なども意識してみると良いかもしれません。駅の改札は台地の隅に位置しています。
■訪問:新田義貞公之像
(分倍河原駅前ロータリー)
[東京都府中市片町]3丁目
■参考
現地説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/22
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