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2020年05月23日

岩槻城主太田氏資 反北条の父と北条の嫁

今回は、岩槻城主の長男として生まれ、自らも城主となりながら若くして亡くなった戦国武将の話です

<太田氏資像>うじすけ
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[撮影:芳林寺]
岩槻城主だった太田氏資の像です。あの有名な太田道灌の流れをくむ岩槻太田家の戦国武将です。諸説ありますが、岩槻太田家は道灌の甥で養子となった太田資家(すけいえ)から始まります。そのひ孫が氏資です。

■太田資正の嫡男■すけまさ
氏資は岩槻太田家の太田資正の嫡男としてこの世に生を受けました(1542年)。父・資正は武蔵で活動した勇猛果敢な武将で、当時関東で勢力を拡大していた小田原の北条家に抵抗し続けた男です。私見になりますが、その粘り強い抵抗ぶりから『反骨の戦国武将』というイメージです。氏資本人も武勇に優れた武将ではありましたが、北条に与する道を選び、悲劇の結末をむかえることになります。

■反北条の父と北条の嫁■
当時の小田原北条家の当主は3代目氏康です。上杉謙信や武田信玄と関東での覇権争いをしたつわものですね。北条氏康は娘を氏資に嫁がせて、岩槻太田家との関係強化を図ります。これに対し、岩槻城主であり太田家当主の資正は、様子をみながらも北条の息のかかった家臣を追い出すなど、反旗を翻さないまでも一定の緊張を保っていました。そして1560年、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東に兵を進めるとこれに呼応し、ついに反北条の態度を明確します。
さて、氏資の嫁は北条氏康の娘です。この時代の政略結婚にはありがちな事ですが、妻の実家と自分の家が争うという事態となってしまいました。義父が北条氏康なら次の当主となる北条氏政や氏照・氏邦といった大物が義兄弟。これはちょっと困りますね。更に氏資の見立てでは、現れては消えてしまう越後の上杉謙信より、小田原を拠点とする北条家と繋がっている方が、関東で生き残る道として有利と思えたのかもしれません(私の勝手な想像です)。いずれにせよ、氏資と父・資正の関係は険悪になっていきます。

こいつではダメだ

資正はそう思ったのでしょう。家督を次男(養子となって梶原家を継いだ梶原政景)に継がせようと考えたようです。氏資はこれを知り、一時出家してしまいました。

■父と弟を追い出す■
氏資にとっての転機は、父・資正の戦での敗北といっていいでしょう。1564年の第二次国府台合戦(北条vs里見[上杉と同盟関係])において、父である資正が里見氏と共に敗退します。資正は落ち延びますが、この太田家の混乱期に出家したはずの氏資は密かに還俗。北条氏康と謀って父と弟を岩槻城から追放し、家督を継いでしまいます。氏資が北条家の家臣となったことで、北条氏康は武蔵の大半を平定するに至りました。

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氏資の元の名は資房。北条氏康から氏の一字を与えられて改名しました

■殿■しんがり
小田原北条家の配下となった太田氏資は、1567年の三船山の戦い(北条vs里見)において、激しい戦闘の末に敗走せざるをえなかった北条軍の殿を務めます。殿、つまり退却する軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ役目であり、最も危険な仕事ですね。北条軍を敗走させるのですから、この時の里見軍は勢いがありました。

岩槻城主・太田氏資
この戦いで討ち死にとなりました
まだ25歳という若さです

太田氏資の殿は自ら志願したものと言われています。諸説ありますが、父であり当主である太田資正を追放して北条の家臣となっていることから、『裏切者』といったレッテルが付きまとい、氏資はこれを払拭すべく殿を願い出たとされています。北条家の家臣団において、そこまで負い目を感じる立場に追い込まれていたのでしょうか。また、一説によれば氏資は、このとき岩槻城主に相応しいだけの兵を率いていなかったとされています。氏資はこの合戦のために岩槻城を出たわけではなく、別な理由で小田原城に滞在している時に戦が始まってしまったのです。僅かな手勢のまま参戦し、行った先で討ち死に。氏資の死後、岩槻城に北条家の身内が入ることを考えると、いろいろと想像せざるを得ません。

■芳林寺にて■ほうりんじ
<山門>
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<道灌と氏資に関する説明>
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<太田道灌像>
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<太田氏資像>
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最後に
氏資の妻・長林院は、氏資との間に授かった娘とともに江戸に移り住みます。しばらくの時を経て岩槻城に北条氏政の四男・氏房が入城する際、岩槻太田氏の血を引く娘は氏房の妻となり、長林院も再び岩槻へ戻りました。

氏資の父・太田資正は、1590年の豊臣秀吉による北条征伐の際、小田原に参陣しています。つまり、息子が寝返り、命まで捧げた関東覇者が滅ぶ様子を見届けていたわけですね。その翌年亡くなりました。

■訪問:芳林寺
[埼玉県さいたま市岩槻区本町] 1-7-10



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-------------(追 記)-------------
芳林寺については太田道灌ゆかりの寺として別途投稿しています。よかったら覗いてみて下さい。
■投稿:2018年01月06日
■タイトル:道灌ゆかりの寺 芳林寺
→『記事へすすむ
タグ:埼玉
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2019年08月25日

東京国際フォーラムの太田道灌像

文武ともに一流、そして江戸城築城者としても知られる太田道灌が、主に裏切られ暗殺されたのが1486年8月25日。つまり今日です。何となく意識して、道灌の銅像がある場所を訪ねてみました。

<太田道灌像>
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東京国際フォーラムの太田道灌像です。室外ではなく、近代的なガラス張りの建物の中にあります。

<展示スペース>
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銅像とともに道灌のプロフィールや戦績などを紹介するパネル、そして江戸城の模型が展示されています。

<江戸城天守模型>
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84分の1大に作られた模型

<道灌時代の江戸城>
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これは興味深いですね。家康により拡張される前の江戸城です。日比谷の入り江が城近くまで迫っています。扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌が江戸城を築いたのは長禄元年(1457年)。道灌は当時25歳でした。

<銅像>
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制作者:朝倉文夫

<開都五百年記念>
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この銅像は江戸城築城500年(開都500年)を記念して旧東京都庁の敷地内に建てられたものです(1956年)。都庁の新宿移転に伴い、跡地に建てられた東京国際フォーラムに設置し直されました。

城下町江戸といえば徳川時代をイメージしますよね。ただスケールこそ違えど、道灌の時代にも城下に庶民は暮らしていました。道灌がこの地に一定規模の城を完成させた。その基盤があったからこそ、関東に入った家康もこの地を拠点にできた訳ですね。そういう意味で、道灌による江戸城築城をもって開都と呼ぶのは分かる気がしますね。江戸の基礎を築いた男。それが太田道灌ということですね。

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道灌の目線の先は江戸城です。

ということで
旧都庁の敷地に建つ太田道灌像のご紹介でした。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる人がいたら嬉しいです。

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太田道灌像はフォーラムの1階。東京駅側の入り口付近です。

■訪問:東京国際フォーラム
[東京都千代田区丸の内]3丁目


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2019年08月19日

秩父神社の社殿 代官・成瀬正一のなごり

とても有名な神社を訪ねました。

<秩父神社>
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JR秩父駅からは徒歩圏内。宝登山神社、三峯神社とならび秩父三社のひとつです。

創建は紀元前と伝わる秩父神社。こんな関東屈指の歴史を誇る神社を、拙ブログでご紹介なんてとんでもないのですが、現存する社殿徳川家康寄進ということで、その部分だけ触れさせて頂きます。


■家康により再建された社殿■
家康の時代の社殿が現役で活躍している。これだけでも凄いことですよね。勿論、たいへんなメンテナンスを施しているのでしょう(1970年には解体復元)。当時の建築様式を留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。

<社殿正面>
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<社殿の彫刻>
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当時の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)により施された豪華な彫刻が目をひきます。日光東照宮の眠り猫も甚五郎によるもの。ちなみに、名の由来は左利きであったためともいわれています。

戦国末期、秩父は小田原北条氏の支配下でした。実質的には鉢形城を拠点とする北条氏配下ですかね。しかし豊臣秀吉により北条氏が滅ぼされると(1590年)、関東に入った徳川家康の支配下となります。そして1592年、徳川家康は社領57石を秩父神社に寄進し、代官・成瀬吉右衛門に社殿を建造させました。


■成瀬正一■ なるせまさかず
家康の命を受けて秩父神社の本殿再建を行った成瀬正一、通称・吉右衛門は、古くから徳川に仕える三河武士。出奔して武田氏に仕えたこともありますが、再び徳川に戻り、数々の有名な合戦で活躍しています。

家康が武田軍に完敗した三方ヶ原の戦いにも参加。この時、兄である成瀬正義は家康本陣を守り、武田軍屈指の武将・馬場信春が迫ると正一に家康の警護を託し、自らは主が逃げる時間を稼ぐために討死。正一は浜松まで逃げ帰る家康に同行し、のちに成瀬の家督を継ぐことになりました。

武田勝頼に奪われた高天神城を家康が奪回した戦(1580年)においては、正一は日下部定好と共に各砦の包囲網強化で勝利に大きく貢献。また、武田滅亡後の信長の『武田狩り』に対しては、旧武田家臣を匿い、のちには家康に働きかけて徳川氏への取り込みを図っています。更には、徳川の軍法を知り尽くした家康の側近中の側近である石川数正が豊臣秀吉の元へ出奔すると、正一には武田式の軍法を取り入れる大きな役割が回ってきます。かなり省略しましたが、いかに家康から信頼されたかご理解頂けるかと思います。

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やがて鉢形城の代官になった成瀬正一は、家康から秩父神社の本殿再建を命じられます。その時に完成したのが、現存する秩父神社の本殿。代官・成瀬正一のなごりです。

ちなみに、一般には正一の長男・正成の方が有名かもしれません。鉄砲隊を率いて活躍し、家康に認められ、やがては犬山城主となります。そう、明治どころか平成まで城主だった(城を私有していたという意味)成瀬氏の祖となった人物です。今回ご紹介の成瀬正一は、息子らが家康から充分過ぎるほど認められていることを理由に、敢えて大名にはならなかったと言われています。

以上です。
見どころ沢山の秩父神社で、家康とその家臣・成瀬正一のことを思い出してくれたら嬉しいです。

■訪問:秩父神社
[埼玉県秩父市番場町]1-1


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2019年05月05日

仙波東照宮 日光へ向かう途上の大法要

今回は川越の東照宮の話です。

<仙波東照宮>
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■仙波東照宮■ せんばとうしょうぐう
言うまでもなく家康を祀る東照宮。神格化された徳川家康、つまり東照大権現を祀る神社のことですね。一時期その数は五百を越えたそうです。凄いですね。大名が将軍家に気を使い、競うように建立したことも影響しているようです。ちなみに、現存は約130社とのこと。それでも多いですね。今回訪問の東照宮もそのうちの一つではありますが、深い歴史があることを、ちょっとだけご紹介させて頂きます。

<随身門>
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ここ仙波東照宮は、喜多院の住職となった天海僧正が家康を祀ったものです。徳川家康は駿府城で亡くなりました。遺言に従い、一旦は久能山(静岡)に葬られましたが、日光山(栃木)に改葬の途中(つまり移送する途上)、天海は家康の遺骸を喜多院(埼玉)に4日間留め、大法要を営んだそうです。そのことから、喜多院の境内に東照宮が祀られることになりました。久能山から日光まで19日を要したようですが、そのうち4日は喜多院に留まっていたということですね。

<石段>
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重要文化財の鳥居を通過すると石段

日光・久能山・仙波を「日本三大東照宮」と呼ぶそうです。まぁ日光と久能山に自社を加えて「三大」とする例は、ほかの東照宮でも見聞きしますが、せっかく来たのだし、歴史の重みも感じたので、しばらくそう思うことにします。

<東照宮拝殿・幣殿>
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更に奥に見えているのが本殿です。

<説明板>
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歴代川越城主が奉納した石灯籠の配置

<平唐門と本殿>
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国指定重要文化財です。1638年(寛永15年)におきた川越の大火災で一旦は消失したものの、3代将軍家光の指示ですぐに再建されました。現在に至るこの社殿は、その時(1640年)に完成したものです。

明治初期の神仏分離令により、仙波東照宮は喜多院から切り離され、川越八幡宮の管理するところとなりました。とはいえ同じ敷地内です。喜多院訪問の際には、家康のブレーン的な存在だった天海が大法要を営んだことなどを思い浮かべながら、そのなごりを感じてみては如何でしょうか。

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■訪問:仙波東照宮
[埼玉県川越市小仙波町] 1-21-1


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2019年02月27日

浦和にもある戦国武将ゆかりの地(廓信寺)浦和郷と高力清長

岩槻や川越と比べると、戦国武将との縁が少ないめの浦和。いわゆる城下町だった訳ではなく、中山道の宿場として発展した町ですからね。今回はそんな浦和で、家康の有力家臣だった高力清長と関係のあるお寺を訪ねました。

<廓信寺>かくしんじ
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北浦和の浄土宗寺院。 由緒ある古い寺として知られています。1609年、浦和郷の代官だった中村弥右衛門吉照により創建されました。

<仁王門>
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<金剛力士像(阿形・吽形)>
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さいたま市の有形文化財です

■高力清長と浦和■こうりき きよなが
高力清長は徳川家康の三河時代からの側近です。活躍を上げたらきりがありませんが、家康最大級のピンチだった伊賀越えに随行していたと言えば、その存在の重みが伝わるのではないでしょうか。更に、かなりの「正直者」だったそうで、家康からの信頼も絶大なものがありました。

浦和と何が関係あるのか?

家康に従って戦乱の世を駆け抜けてきた清長は、小田原北条氏滅亡後、岩槻に2万石の所領を与えられます。この時、浦和郷1万石も預けられました。

預かる?

これは正式な所領とは異なり、幕府の土地(蔵入地)を預かるという意味です。預り地は、実質領地のように扱われ、年貢も管理者が役得としてもらっても問題なかったようですが、浦和郷を預かった清長はこれを良しとせず、年貢は全て江戸へ運ばせたそうです。

戦国武将・高力清長は、役人としても立派だったわけですね。

清長が浦和郷の統治のために代官に任命したのが中村弥右衛門。浦和に陣屋(針ヶ谷陣屋)を構えて、その任務にあたりました。清長を慕っていた中村弥右衛門は、清長が亡くなるとその冥福を祈るため、今回訪問の廓信寺を創建しました。これが江戸初期のお話。廓信寺の長い長い歴史はここから始まります。

<廓信寺山門>
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立派な寺院。そして浦和郷を預かった高力清長のなごりです。

ということで
浦和にもある戦国武将ゆかりの地のご紹介でした。


最後までお読み頂き、ありがとうございます。

■訪問:超勝院 廓信寺
[埼玉県さいたま市浦和区北浦和]3丁目


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2019年01月19日

静御前ゆかりの地 旧静村(久喜市)

JR栗橋駅近くにある『静御前の墓』を訪ねました。
<栗橋駅構内>
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■ 静御前の墓 ■しずかごぜんのはか
<墓所>
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義経の内妻として知られる静御前の墓所です。

<静御前の墓>
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当ブログ、お墓そのものはなるべく載せないようにしていますが今回は失礼させて頂きます。気持ち遠くから撮影。中央が静御前のお墓です。比較的新しいもので、もともとの墓石は保護のために左手の白い厨子に移されています。

それにしても
どうしてここ埼玉に?

静御前は、義経を追って奥州に向かいましたが、義経の死を知り、この地で亡くなったと伝わります(1189年)。そのまま地元の高柳寺(こうりょうじ)の境内に埋葬されたそうです。

義経の兄であり敵であり、時の権力者である源頼朝に命じられ、源氏の氏神である鶴岡八幡宮社前で舞うことになった静御前。ここで堂々と義経を慕う歌に合わせて舞い踊った心意気は見事です。頼朝は激怒しますが、妻の北条政子により命は救われました。

このとき既に義経の子を宿していましたが、生まれた子が男子であったことから、頼朝の命により由比ヶ浜に沈められました。中世といまでは背景となる価値観が異なりますが、それにしてもなんとも惨い措置です。失意の静御前は京に帰されましたが、その後の消息がはっきりしていません。これにより、いろんな説が存在しています。当地で亡くなったという話も、そのうちの一つということになります。

<説明用パネル>
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墓所には義経招魂の碑や歌碑も建てられているほか、見学者用にさまざまな工夫がなされています。

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手前は「まちめぐりスタンプ用」で、一番奥の石碑は「源義経招魂碑」です。

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静女塚碑(左)と坐泉の歌碑(右)

左の石碑には、義経を慕ってこの地で亡くなった静御前の逸話が刻まれています。

また、右の石碑には江戸時代の歌人・坐泉の詩が記されています。
『舞ふ蝶の 果てや夢見る 塚のかげ』


だいたいこんな感じになります。

先述の高柳寺は、のちに現在の古河市へ移転。名を光了寺と改めています。静御前の墓がこの地に残されることになりましたが、墓標がないことを哀れんだ関東郡代が、1803年に建立したと伝わります。

<墓所入口>
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左手の柱に光了寺の文字

■静 村■しずかむら
くりかえしになりますが、静御前の終焉の地については諸説あります。ここもその一つ。かつての村名は「静村」でした。静村は1957年に栗橋町・豊田村と合併した時に消滅し、現在は久喜市となっています。

その静村はもともと6つの別々の村。伊坂村・佐間村・松永村・間鎌村・高柳村・島川村が合併して誕生した村です。思いを込めた「静」の名は消えてしまいましたが、静御前が悲恋の死を遂げた伊坂村の名は、現在の住所表示に見ることができます。

ということで
静御前の墓のご紹介でした。駅から徒歩1分という近さ。栗橋駅をご利用の際に、立ち寄ってみては如何でしょうか。特に「なにかにつけて判官びいき」の方、義経を愛した悲運の姫を訪ねてあげて下さい。静と義経の子の慰霊塔も建てられています

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拙ブログに訪問頂き、ありがとうございました。

■訪問:静御前の墓
[埼玉県久喜市栗橋中央]


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2018年06月24日

反骨の学者 熊沢蕃山ゆかりの地(古河市)

<鮭延寺> けいえんじ
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茨城県古河市の鮭延寺です。

この寺を訪問した理由は、出羽の戦国武将・鮭延秀綱ゆかりの寺だから。それだけでした。

<石碑の文字>
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実際に現地へ行ってみると、石碑には鮭延越前守秀綱と並んで熊沢蕃山の文字が刻まれています。

えっと、どこかで聞いたような・・・
どなたでしたっけ?

こんなブログをやっていますが、私の歴史知識などはその程度です。訪問時は、とにかく鮭延秀綱で頭がいっぱいだったので、後から調べることにしました。

帰宅してネット検索してみると、岡山藩の池田光政、陽明学・・・何となく思い当たるふしもありながら、名前以外はほとんど分かっていないことを実感。初めて知ることばかりでした。そして、なぜ古河市の石碑に名が刻まれているか。これも分かりました。その結果、男としてちょっと惚れました。

鮭延寺訪問そのものは少し前の話ですが、熊沢蕃山にテーマを絞り、改めてご紹介させて頂きます。


■ 熊沢蕃山 ■くまざわ ばんざん
この方は江戸時代初期の陽明学者です。しかも「著名な!」陽明学者ですね。師匠は中江藤樹。個人的に陽明学といえば中江藤樹ですが、歴史に詳しい人に聞いたら、蕃山も同じレベルで有名とのこと。ホントでしょうか。

私が中江藤樹なら知っているというと

その中途半端さがわからない…

とのこと。

まぁいずれにしても「著名な!」陽明学者です。岡山藩主池田光政(あの池田輝政からみて孫)に仕えて藩政に参画。農民の救済や土木事業で業績をあげました。

さてさて、この辺りは言われてみれば「そうでしたか〜」で終り。調べる以前から何となく感じていた「西の方の人」というイメージも外れていません(かなりアバウトですが)。では、何で古河市の寺に名前が?

蕃山は何しに茨城へ?


■ 反骨の学者 ■
朱子学が統治者側に好まれたのに対し、日本における陽明学は反体制的な理論を含むこともあったことから、幕府からは嫌われる傾向にありました。

中江藤樹の門下でその陽明学を学んだ熊沢蕃山。壮絶な生きざまの末に、体制批判が激しすぎて、幕府から蟄居謹慎を命じられました。身柄を預かったのが下総国古河藩でした。なるほど。

熊沢蕃山この時69歳

この年齢であるにも関わらず、幕府は放っておく訳にいかったのですね。

<超コンパクトな年表>
1619年 京都稲荷生まれ
1634年 岡山藩主池田光政に仕える
1639年 20歳の時に京都に戻る
1642年 中江藤樹に陽明学を学ぶ
1645年 池田光政に再び仕える
1654年 備前の飢饉救済に尽力
1657年 藩改革で家老らと対立
1661年 京都に移住し塾を開く
1687年 幕府圧力で追放
1691年 古河で生涯を閉じる


全ては書けませんが、この年表の行間は相当濃いです。強烈な個性と己の意志を貫いて民に尽くすその生涯は、常に逆風に曝されました。


■ 治水事業 ■
蕃山はいわば学者さんです。一方で治水・土木に秀でていた方でした。蕃山の理念は日本固有の気候・地形に根ざした水土[すいど]論、徹底した森林保全主義者であったそうです。

謹慎を命じられたはずの蕃山ですが、その能力を古河藩から見込まれ、晩年の地である古河でも治水・土木の指導をしてまわったようです。

干されてるのに頼りにされる

なんか格好よくないですか!!


■ 蕃山の言葉 ■
いろんな名言を残していますが、一つだけ紹介します。

我は我、人は人にてよく候

いろんな意味に解釈できますが、

自分は自分、人は人で良いのだよ

と受け止めました。いい言葉です。

ということで
戦国武将ゆかりの寺を訪ねたら、「著名な!」陽明学者ゆかりの寺でもあったという内容でした。最後までお読み頂き、ありがとうございます。

<反骨の学者ゆかりの地>
sirononagori244 (1).jpg

■訪問: 鮭延寺
[茨城県古河市大堤]

● 熊沢蕃山
江戸時代初期の陽明学者
1619年〜1691年(9月9日)
師:中江藤樹
[参考・出典:Wikipedia:2018/6/24]


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2018年02月25日

前田慶次ゆかりの地(米沢)一花院

(前田慶次の追記です)

現在の米沢市郊外で晩年を過ごした前田慶次。堂森善光寺には慶次の供養塔がありますが、お墓については、はっきりとしたことは分かっていません。その候補の一つが、同じく米沢の一花院です。

<一花院跡>
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こちらはかつてあった一花院の跡地です。一花院は古くは上杉家臣・千坂家の菩提寺でした。しかし菩提寺が変更され衰退し、江戸時代の終わりころに廃寺となったようです。

<説明板>
ikkain-Yonazawa-explanation-board.JPG
米沢市の説明がありますので、そのまま下記に転記させて頂きます。

『上杉家の重臣千坂家と縁深い臨済宗・一花院があった場所で、現在は虚空蔵菩薩堂が残っている。
千坂家は源平合戦で活躍した弓の名人・那須与市の子孫で、与市の守り本尊であった虚空蔵菩薩像を代々伝えた。千坂対馬守景親の代に上杉家に従い米沢へ移り、この地にお堂を建て祀ったという。堂の前に建つ三層の石塔は、千坂家の遠祖・那須与市と千坂景親の供養塔で、享保4年(一七一九)に建てられたもの。
なお、「米沢地名選」などの江戸期の地誌書には、前田慶次の墓が一花院にあったと記されるが、一花院は幕末頃に廃寺となり、慶次の墓石は現在確認できない。菩薩像は関興庵が管理している。』

千坂家はあの那須与市の子孫なのですね。そして、前田慶次についても記載がありました。ただし墓石は確認できない旨が記されています。跡地の菩薩堂や石塔が、一花院がこの地あったことのなごりということになります。

前田慶次の墓所については、供養塔がある堂森善光寺が有力候補ではありますが、一花院も候補のひとつ。そのなごりを感じることができたので、満足な訪問となりました。あの「花の慶次」にも登場する千坂景親が、那須与市の末裔ということも分かりましたしね。

■訪問:一花院跡
[山形県米沢市中央]
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