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2021年12月04日

身を捨てて藩を守った若き家老 水野元宣 (山形市・豊烈神社)

藩主不在の山形藩で指揮をとり、責任を全て引き受けた家老の話です。

<水野元宣>みずのもとのぶ
Mizuno-Motonobu.JPG
山形城からの帰り道に立ち寄らせて頂きました

<豊烈神社境内>ほうれつじんじゃ
Horetsu-Shrine-Mizuno-Motonobu.JPG
場所は神社の境内です

水野元宣は幕末の山形藩の筆頭家老だった人物です。藩主の不在時に戊辰戦争に巻き込まれ、国元を預かる者として奮闘し、最後は奥羽越列藩同盟に参加した責任を負って処刑されました

<境内の説明板>
Mizuno-Motonobu-Guide-Plate.JPG
こちらに詳細が記されています。私は予備知識もなかったので、現地で非常に助かりました。少し長いので、まず冒頭を抜粋させて頂きます。
『水野三郎右エ門元宣は、天保十四年(1843)、遠州浜松に生れ藩主のお国替えにより弘化三年(1846)、四才のとき山形に移住し、二十二才の若さで家老職を継いだ。文武両道にすぐれ家中藩士の信頼を一身に集めた。』とのこと。
藩主と同族の家系ではありますが、若くして抜擢されたわけですね。当時の22歳ですから今とは覚悟も違うし、家柄からして特別な教育も受けていたとは思いますが、それでも若いですね。

説明文の続きを要約すると、明治維新の際には藩主が京都にいて不在だったため、首席家老となっていた26歳の元宣が、国元を仕切っていたようです。そして慶応4年(1868年)春、官軍が山形に迫ります。山形藩は、官軍の命に従って庄内征伐のため進撃することとなりました。庄内藩は石高でも武器の近代化でも山形藩を大幅に上回る強豪です。敗走となり、戦火は山形市街地の目前にまで迫りました。説明文には、この時元宣が『領民を救うため苦心惨憺身を挺して奔走し山形市民を兵火の災害から救った。』と記されています。また『山形藩は当初官軍についたが、薩長軍の参謀世良修蔵の横暴さに憤慨した仙台、米沢の両藩の呼びかけに応じ、東北各藩とともに奥羽同盟を結成し官軍に反抗することとなった。』とあります。つまり山形藩も東北諸藩の軍事同盟に加わったわけですね。しかし結果は官軍の勝利。明治政府から反逆の罪に問われますが、元宣は『山形藩の責任はすべて自分一人にあり』と申し出て、他の者には寛容の処置を求める嘆願書を提出したそうです。責任を一身に負った水野元宣は、長源寺庭において処刑されることとなりました(明治2年)。

山形藩と聞くと、江戸初期のかなり大きな藩を連想してしまいますが、江戸末期は全盛期の10分の1以下の五万石だったそうです。五万石は決して少ない石高ではないですが、仙台藩・会津他周辺の大きな藩には及びません。つまり発言力も及びません。説明文でも『官軍と隣接大藩との板ばさみにあい山形藩をいかに保全するか元宣の苦悩は大変なものであった』と記されています。自分の思いだけでは方針を決められなかった。しかし、明治政府から突き付けられた罪は一身に背負った。本当のリーダーだったのですね。説明文の後半には『山形市民の大恩人と称すべきである。』と記されています。

<豊烈神社>
Horetsu-Shrine-Yamagata.JPG
旧山形藩士達らが豊烈神社の分霊を勧請したことに始まります(1880年)。

豊烈神社とは、浜松城の城主だった水野忠邦が、城内に祖である水野忠元を祀ったことに始まる神社です。以降水野家の氏神とされてきました。水野家は古くから徳川家に仕えた譜代大名の一つ。そして水野忠邦といえば、老中にまでなった幕府の中核。天保の改革を思い浮かべる方も多いかと思います。この改革の失敗により忠邦は隠居し、家督を継いだ忠精(ただきよ)が藩主の時に、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封となります(1845年)。この際に、豊烈神社も山形城へ移されました。
ちょっと話が長くなりますが、水野家は所領のつながりから下総山川(現在の茨城県結城市)と縁が深く、豊烈神社はその後下総山川に移されることになります。旧山形藩を思う元藩士たちの働きかけで、その分霊が勧請され、山形に再び豊烈神社が建立されました。

<由緒>
Guide-Plate-Horetsu-Shrine.JPG
御祭神として水野忠元、中興の祖・水野忠邦とともに『明治維新殉難者二十四柱』と記されています。そのなかに『水野三郎エ門元宣』も含まれています。身を捨てて藩を守った若き家老の霊は、ここにあると受け止めさせて頂きました。

<水野元宣像>
Watching-over.JPG
山形城跡のすぐ近くです。きっと今も山形城下を見守っているのですね。

■訪問:水野元宣像
(豊烈神社)
[山形県山形市桜町]7番

■参考及び出典
・現地説明板
 水野三郎右衛門像の記
 豊烈神社由緒



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posted by Isuke at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ゆかりの地
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