<精忠神社>せいちゅうじんじゃ
場所は壬生城址公園のお隣です
■壬生藩鳥居家■みぶはん とりいけ
<壬生城跡>
こちらは栃木県壬生町の壬生城跡です。江戸中期から明治になるまで、8代にわたり壬生藩主だった鳥居家の居城です。壬生藩鳥居家の先祖は、徳川家康に仕え、忠義を貫き果てた鳥居元忠です。
■関ヶ原の戦いの前哨戦■
1600年8月26日(慶長5年7月18日)、関ヶ原の戦いに先立ち、鳥居元忠は伏見城を守って石田三成方と戦いました。いわゆる伏見城の戦いです。守る側が2千人強だったのに対し、攻め手は4万とも言われています。伏見城は13日もの攻防戦の末に落城となり、鳥居元忠は討ち取られました(城内で自刃したとする説もあります)。
この戦い、鳥居元忠は石田三成の降伏勧告を断り戦い続けました。玉砕を覚悟した激闘です。のちに家康は、伏見城の血染め畳を江戸城の伏見櫓におき、登場する諸大名の頭上に掲げました。明治維新によって江戸城が明け渡しとなると、血染め畳は壬生の鳥居家に渡り、精忠神社の境内に埋納されました。
■精忠神社■
1712年から壬生城主を務めた鳥居忠英(ただてる)が、城内に鳥居元忠を祀ったのが精忠神社の始まりとされています。忠英は父親の死後、一旦所領を没収された身です。しかし鳥居家の祖である元忠の功績が考慮され、改めて能登に1万石の所領を与えられました。その後の活躍が認められ、壬生3万石の藩主となりました。先祖に感謝する思いは、人一倍強かったでしょうね。
<鳥居>
<唐門>
<由緒>
1799年に神紙菅領吉田家より精忠霊神の神号を受けて精忠神社となったと記されています。また、現在の地に移ったのは江戸時代末期のようです。鳥居元忠については『徳川家康の命を受け伏見城の主将として慶長五年西軍の城攻めを死守して自刃した』と説明されています。
<境内>
<拝殿>
<本殿>
1600年の上杉討伐の際、京から出陣して会津へ向かう徳川家康は、石田三成が挙兵することを充分に予測していたとされています。留守を任される鳥居元忠も、そのことは承知していたようです。
二人は歳も近く、家康が今川家で長らく人質として暮らしていた時も、元忠は近習として仕えていました。そして、家康が関わった数々の戦で戦功を挙げています。そんな元忠に、家康は死に等しい役目を託したことになります。それを引き受ける鳥居元忠。家康の家臣団の結束力を象徴する出来事のひとつと言えるのではないでしょうか。
元忠の跡を継いだ忠政は、関ヶ原の戦いでは家康より江戸城留守居役を命じられています。また、二度の大坂の陣でも、やはり江戸城留守居役を命じられています。留守居役が如何に重要な役割かは父親が証明していますが、元忠の子を最前線に送り込まない家康の配慮もあったのではないでしょうか(ここはあくまで個人的な見解です)。忠政は鳥居元忠の次男ですが、兄は既に亡くなっていたので、そのまま鳥居家の家督を継いでいます。やがては出羽山形22万石の藩主となる忠政の家系が、そのまま壬生藩鳥居家に繋がっています。
鳥居元忠は子孫がたどり着いた壬生の地に祀られています
■訪問:精忠神社
[栃木県壬生町本丸]1-9-13
壬生町城址公園の西側
■参考及び抜粋
・現地説明板(由緒)
・Wikipedia:2021/8/8
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