この名族に従って勢力を拡大し、ついには当主を城から追い出してしまった男がいました。今回はそんな下剋上を下野国で成し得てしまった壬生綱房の話です。
<壬生城跡>みぶじょう
壬生綱房の父・綱重が築いた壬生城跡。現在は城址公園として整備されています。
■壬生氏とは■
壬生氏は朝廷に仕えた壬生家の庶流、あるいは宇都宮氏の庶流という説などがありますが、詳細は分かっていません。現在の栃木県壬生町に館を構えた壬生胤業を始祖として、5代続いた下野国の土豪です。
2代目当主の壬生綱重により壬生城が築かれ、下野国の名族である宇都宮氏に仕えて勢力を拡大していきます。鹿沼を攻略後、綱重本人は居城を鹿沼城へ移し、壬生城には嫡男である綱房が城主として入りました。
<壬生城土塁跡>
■野心家・壬生綱房■みぶつなふさ
壬生氏3代当主の綱房は臨機応変な策略家で、重臣を失脚させるなどして宇都宮家中における地位を盤石なものにしていきます。既に衰退期となっていた宇都宮氏は、家臣の取りまとめにも苦慮していました。そんななか、宿老として宇都宮氏に仕えていた綱房は、20代当主の宇都宮尚綱が、那須氏との戦いに敗れて戦死したのを機に、城を乗っ取ってしまいます。当主の嫡男で、21代当主となるはずの広綱は当時まだ5歳。宇都宮氏家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られ、真岡城に逃れました。
これが
壬生綱房による下剋上
綱房は上手く立ち回って宇都宮氏の重臣たちを従わせ、下野国における勢力拡大を試みました。詳細は省略していますが、概ねこんな感じのお話です。
<参考画像>
現在の宇都宮城跡です
■その後の壬生氏■
下克上で宇都宮城を支配する立場になった壬生綱房ですが、1555年急死。暗殺されたという説もあります。子であり、4代当主の綱雄(つなたけ)は、叔父(綱房の弟)である壬生周長(かねたけ)と方向性を巡って対立し、鹿沼城で暗殺されました (1576年)。その周長は、綱雄の子で、壬生城に立て籠る義雄(よしたけ)を攻めたものの、戦いに敗れて逆に殺害されています。壮絶な身内の争い。これらの背景には、関東の覇者になりつつある小田原の北条氏と、これに抗う宇都宮氏のどちらに味方すべきかという難しい問題がありました。5代当主となった壬生義雄は、北条氏に従う道を選びました。
補足として
これらの大混乱の間に、宇都宮城は宇都宮氏に奪還されています。
<壬生城跡>
家臣間の争いに加えて、上下間の争いもあり、更には身内の争いも凄まじい。まさに戦国時代という感じもしますが、もしかしたら、人の根本はいまでも変わっていないのかもしれませんね。
■訪問:壬生城
[栃木県壬生町本丸]
■参考画像:宇都宮城跡
[栃木県宇都宮市本丸町]
■出典及び参考
・現地説明板
(壬生町教育委員会)
・Wikipedia:2021/8/7
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