<柏崎久伊豆神社>
ここは舌状台地上の神社の境内です。武蔵七党の野与党の一族・柏崎氏が村を開き、この付近に館を構えたと伝わります。『この付近』という情報しかありません。ただ、境内の地形があまりに興味深かったので、ご紹介させて頂きます。
<境内>
愛宕社です(と思われます)。もともと何かの塚があったのでしょうか?城好きが物見台を想像してしまうような盛り土ですね。
これとは別に
<富士塚>
こちらは台地が南側に突き出たところにある富士塚です。
<浅間大神>
明治34年と記されていますので比較的新しい石碑です。最初から富士塚だったのでしょうか?
<高低差>
塚の上から見下ろす低地
<高低差>
逆に下から見上げる台地の斜面
繰り返しになりますが、ここは低地に突き出た舌状台地。地形的にはどこが館跡でも不思議ではありません。
<円福寺の斜面>
こちらは久伊豆神社の台地よりやや西側の台地と低地。円福寺付近です。地形的には興味をそそられる場所です。
<斜面>
麓から見上げる円福寺の斜面
こんな感じで周辺を歩き回りましたが、低層の台地と低地を実感できるだけで、結論はありません。このまま終わるのも中途半端なので、柏崎氏の存在を示すものをご紹介して終わりにしたいと思います。
<久伊豆神社拝殿>
拝殿左手に由緒が掲示されています
<久伊豆神社御由緒>
御縁起の一部を以下に転記させて頂きます。
『柏崎は、武蔵七党野与党の一族である箕勾次郎経光の曾孫柏崎次郎為経という者がこの他に来て開いた村であると伝えられる。当社は、社伝によれば、柏崎氏がこの村の開発に際し村の西方の宮台という所に祠を建て、野与党の守護神である久伊豆大明神を勧請したことに始まるという。』
箕勾次郎経光は『みのわじろうよしみつ』、あと『この他』はこの地ですね。野与党(のよとう)は現在の加須市付近に勢力を誇った武士団ですが、同族は広範囲に進出しています。転記を続けます。
『この話に伝えられる「宮台」は、現在「元産土」と呼ばれている辺りのことで、柏崎の中でも一番の高台に当たり、その側には柏崎氏の館跡もあるが、氏子集落(本田)からは離れていて参詣に不便を来していたため、天明六年(一七八六)に柏崎のほぼ中央に当たる洞照院のあった現在の社地に遷座した。ちなみに、この遷座の際には、村人全員で宮台から本殿を担いで来たと口碑に伝えられる。』
もう少し続きますがここまでにします。
この地を開いた柏崎氏が館を構えたことは確認できますね。現在の元産土と呼ばれるあたり?どこでしょうか。柏崎次郎為経の詳細も分かりませんでしたが、武蔵七党が武蔵国で勢力を拡大した時期から推定して、館は鎌倉時代前後で築かれたと思われます(漠然としたイメージとご理解下さい)。
ということで
遺構もなく場所も分からない探索のお話でした。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:柏崎氏館(比定地)
築城年:鎌倉時代頃?
築城者:柏崎為経
[埼玉県さいたま市岩槻区柏崎]
円福寺・久伊豆神社・柏崎小学校付近
■参考及び出典
・久伊豆神社御由緒
お城巡りランキング
-----------(追 記)-----------
この日は主に「湧き水」を目当てに探索するお仲間二人と、円福寺・柏崎久伊豆神社・柏崎小学校付近を見て回りました。湧水探索そのものは更に広範囲で、お隣の真福寺や浮谷・笹久保といったエリアにまで足を延ばしました。
7月の炎天下ながら、充実した散策となりました。ご案内頂いた『いこ〜』さんと、当ブログに時々コメント頂く『Gori』さんに感謝申し上げます。
下記は「大宮台地の湧水巡り」をテーマにした『いこ〜』さんのブログです。ほんの一例に過ぎませんが、こういう探索を続けている方と同行させて頂きました。湧水にご興味ある方にお勧めです。
さいたま市岩槻区 箕輪の湧水
https://iko.hatenablog.jp/entry/2020/12/06/090344
タグ:埼玉
あの富士塚は、元々あった物見台の転用なのではないか?と本文にはっきり書きたかったのですが、素人なりに遠慮しましたw
訪問当日はいろいろとお世話になりました。埼玉県は8月からまた緊急事態宣言の対象となりますが、様子をみながら、またご一緒させて下さい。コメントありがとうございます。
お疲れ様でした。
「最初から富士塚だったのでしょうか」の一文、現場でISUKEさんのつぶやきを実際に聞いておりました。ブログで拝見して再度思わず微笑んでしまいました。
岩槻は同じさいたま市ですが、私にはちょっと離れた町です。今回ご一緒できて嬉しかったですし、今後もいこ〜さん、ちびすけさん、平帆さんともどもよろしくお願い致します。
埼玉をまた歩きましょうね!