栃木県壬生町の壬生城跡を訪問しました。
<土塁跡>
本丸の土塁跡です。城跡はすっかり公園らしく整備されてしまっていますが、部分的に城のなごりが漂います。
■壬生氏の城■みぶ
この地に城が築かれるきっかけは、壬生氏の始祖である壬生胤業が構えた館と伝わります(1462年)。壬生氏は京の公家の出、あるいは宇都宮氏の庶流という説もありますが、詳細は分かっていません。のちに築城される壬生城に対し、胤業の拠点は俗に壬生古城と呼ばれるそうです。
壬生城は2代目当主の壬生綱重により築かれ、ここを拠点に宇都宮氏の配下で勢力を拡大しました。鹿沼攻略後、綱重は居城を鹿沼城へ移しますが、嫡男の綱房が壬生城の城主となっています。
3代当主の綱房はなかなかの策略家で、重臣を失脚させるなどして宇都宮家中における地位を盤石なものとし、最後は20代当主の宇都宮尚綱が戦死したのを機に、宇都宮城を乗っ取ってしまいます(のちに奪回されています)。こういった家中の争い、あるいは身内の争いなどを経てた結果、5代当主の義雄(よしたけ)の時には小田原の北条氏に従っていました。1590年の秀吉による小田原征伐の際、北条氏に加勢すべく義雄は手勢とともに小田原城に入城します。しかし落城後に現地で病没。男子の跡継ぎがなかったため、義雄が最後の当主となりました。5代続いた壬生氏は断絶となり、所領も没収されました。
■鳥居氏の城■とりい
小田原北条氏の滅亡を境に、関東では多くの城が廃城となりますが、壬生城はそのまま存続します。徳川家康の次男である結城秀康の領地を経て、1602年に日野根氏が1万900石で壬生城主となったのを皮切りに、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏とめまぐるしく城主が変わりました。
1712年に鳥居忠英(ただてる)が3万石で城主となると、以降は鳥居氏8代の居城となり、そのまま明治を迎えます。初代として藩を治めた忠英は名君と称される藩主で、その後につながる藩政の基礎固めをしました。また、6代藩主の鳥居忠挙(ただひろ)は、忠英が設けた学問所を藩校として充実させたり、蘭学を積極的に取り入れるなどして藩の人材育成に尽力しました。壬生藩は決して大きな藩と言えませんが、幕末において、当時の医療の最先端レベルであったようです。徳川家康に仕えて「三河武士の鑑」と称えられた鳥居元忠の子孫が築き上げた藩です。
<復元門>
二の丸への入り口です。雰囲気のあるこの門は、民家に移築されたかつての城門を模して復元されてたそうです。
<平城>
平地に築かれていますが、黒川と思川に挟まれた台地上に位置しています。方形の本丸を堀で囲み、外側へ向かって二の丸・三の丸を堀で仕切って広げる環郭式の平城です。
<本丸堀跡>
かなり綺麗に復元されてしまっていますが、位置的に本丸の堀跡であることは間違いありません。
<城址公園>
本丸跡です。敷地内には歴史民俗資料館があります。
<精忠神社>せいちゅうじんじゃ
城址公園の西側の精忠神社です。鳥居氏の先祖である鳥居元忠が祀られています。
<現地説明板>
まず『約100年もの間、壬生氏の主要な城となっていました』と記されています。つづいて、壬生氏は小田原城の北条氏に味方したことで亡んだこと、以後はめまぐるしく城主が変わったこと、そして『正徳二年(1712)鳥居忠英が近江国水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの160年間、鳥居氏(三万石)が代々城主となりました』とあります。
また、城は『本丸・二の丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭の六つの郭』から成っていたようです。天守などは無かったようですが、郭(くるわ)を念入りに配置した城だったようです。
そして「改修前の城址」と記されたモノクロ写真がなんともいえません。
<改修前の城址>
公園として整備される前の堀跡です。立派な遺構ですね。現在の城跡の姿はちょっと残念ですが、それはいまの時代だから言えることですね。こうして写真として残してもらったことに感謝します。
<つわものどもが夢の跡>
かつてここには城があり、深い歴史が刻まれている。それを実感できたので、満足な訪問となりました。
---------■ 壬生城 ■---------
別 名:馬蹄城
築城主:壬生綱重
築城年:詳細不明
(1469年〜1487年)
城 主:壬生氏 鳥居氏
廃城年:1871年(明治4)
[栃木県壬生町本丸]1丁目
■参考及び抜粋
・現地説明板
(壬生町教育委員会)
・Wikipedia:2021/8/9
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タグ:栃木
下野の壬生氏は、京で官職を世襲する家から出た武人を祖とする。諸説あるようですが、とりあえず『歴史のロマン』を感じる方を受けとめて城跡巡りを終了させました。城跡そのものは、まぁ正直言うと全く城らしさはありません(笑)。ただ近代の歴史ははっきりしています。それなりに満足でした。
拙ブログに訪問頂きありがとうございます。
壬生氏は京都の公家の出自かもしれない。ということは京都と栃木の壬生は繋がっているかもしれないということですね。歴史のロマンを感じてしまいます。
お堀の復元は…痛し痒しですね。