<勝坂>かちざか
こちらです。氏康にちなんで勝坂と呼ばれています。
この地で戦があったのは1530年、小沢原の戦いと呼ばれています。北条氏康は多摩丘陵の山城(小沢城)を拠点にして、南下してくる扇谷上杉の軍を迎え撃ちました。山城の麓での戦いでは敗退し、一旦城に立て籠りますが、夜営のために低地の川沿いに移動した扇谷上杉の陣を襲撃して、見事逆転勝利となりました。夜襲に対応できなかった扇谷上杉勢は総崩れとなり、そのまま敗走したと伝わります。
氏康が「勝った!」と叫ぶのですから、勝坂は戦が終結した後に通った坂ということになりますね。場所は川崎市麻生区千代ケ丘5丁目。石碑などの目印はないので、とりあえず近くの公園を目指して訪問しました。
<千代ヶ丘5丁目公園>
目印にした公園が見えてきました。
<傾斜>
振り返って撮影。長い長い坂でした。
<公園内>
目的地はこの公園の裏手になります。更に坂を登ることになりますが、ここまでくれば着いたようなものです。
そして
<勝坂>
事前にネット検索で見ていたのと同じ景色が現れました。ここで間違いないようです。漏れ聞く話では、むかしは説明板があったようですが、それに類するものは何も見つけられませんでした。氏康がどういうルートでここまで登ってきたかは分かりませんが、とにかくここは通ったのでしょう。
<勝坂からの眺め>
まさに住宅街です。ただ地形は残ります。正確な場所は示せませんが、小沢原の戦いの古戦場ということになります。
ここでちょっとした疑問が・・・
北条氏康が上杉軍と交戦となったのは川が流れる低地です。勝利して小沢城へ戻るだけなら、わざわざこんな丘に駆け上がる必要があったのか?方角は間違いありませんが、小沢城に戻るには、複雑な地形の丘陵地帯を抜けていかなくてはなりません。登ったり降りたりするより、低地を上手く辿った方が楽なのではないか?と
まぁ戦というものは大筋で勝負がついても「はい終了!」という訳にはいきません。勝手な想像になってしまいますが、氏康はほぼ勝ったという状況を見極めた上で、敵の残党を蹴散らしながら自軍を安全な所へ導いたのかもしれません(まったく根拠はありません)。ちょっと疑問は残ったままですが、この戦いには、幼少から氏康を世話してきた指導役の清水吉政、そして地形を知り尽くした地元武士の中島隼人佐らがお供をしています。その状況で、適切な判断だったのでしょう。
<勝坂ハイツ>
勝坂ハイツ。いい名前ですね。ここなら景色も最高です。新百合ヶ丘駅から徒歩で20分くらいかと思いますが、ちょっと坂が厳しいですね。まぁとにかく、現地には石碑も説明板もないので、勝坂という文字が嬉しかったです。
<つわものどもが夢の跡>
敵を敗走させた氏康は、どんな思いでこの景色を眺めたのでしょう。夜襲だったのですから、目にしたのは月明かりが頼りの谷ということになりますね。氏康はこの時まだ16歳。初陣での見事な逆転勝利の夜でした。
■訪問:勝坂
[神奈川県川崎市麻生区千代ケ丘]5丁目
----------( 関連画像 )----------
<小沢城址碑>
[川崎市多摩区菅仙谷]
■参考:Wikipedia:2021/11/5
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