<小沢城址碑>
まだ若武者だった氏康が拠点とした山城です
■小沢原の戦い■おざわはら
この戦は小田原北条氏と扇谷上杉氏の戦いです(1530年7月)。北条早雲の意思を継いで関東進出を果たした第2代当主北条氏綱により、扇谷上杉氏は既に江戸城や岩槻城を奪われている状態でした。当主の上杉朝興は状況打破のために兵を率いて南下。これを迎え撃つべく、氏綱より出陣を命じられた若き氏康が小沢城に布陣しました。
<小沢城>
小沢城は鎌倉時代初頭には既に存在していた古い城です。天然の要害を利用した山城ですが、縄張りは比較的シンプルです。
■小沢城に籠った北条軍■
両軍の最初の激突は小沢城の麓とされています。麓?といっても、正確な場所は分かっていません。北条軍は初戦で敗退し、一旦小沢城に立て籠もりました。
北条氏康といえば、大軍を奇襲で破った河越夜戦などの戦歴から、勇猛果敢な武将というイメージですよね。成長した氏康は実際にそうだったかもしれませんが、もともとはかなり慎重なタイプだったようで、幼少期に至っては臆病で気弱な性格だったそうです。
氏康の初陣となった小沢原の戦いには、小田原北条氏家臣の清水吉政が同行しています。吉政(通称・小太郎)は、当主の嫡男である氏康を少時代から補佐し、教育係のようなこともしてきた人物。気弱だった氏康に、数々の褒め言葉で自信を持たせたことで知られています。今ふうに言えば、コーチングによって自己肯定できる力を身につけさせたわけですね。敵に押し込まれたこの状況で、16歳の氏康にどんな言葉をかけたのでしょうか?
この戦にはいろんな説があり、北条軍は負けたのではなく、城に逃げ戻ったように見せかけたのだというお話もあります。城に相手の注意を引き付け、別動隊で襲撃する策だったとする説です。ちょっと出来すぎのような気もしますが、この戦の結末を見る限り、これはこれで説得力があります。
事実がどうだったのかはか分かりません
■夜営する上杉軍■
北条軍が小沢城に籠ったところで、上杉軍は南西(現在の新百合ヶ丘駅方面)へ兵を移し、陣営を設けて夜を過ごすことになりました。正確な場所は分かっていませんが、川崎市麻生区の金程1丁目付近と推定されています。
<麻生川>あさおがわ
麻生区金程で撮影いた麻生川です。戦にちなんで陣川と呼ばれています。
なぜこの地が野営場として利用されたかは分かりません。現地を歩いた感じでは、交戦中の敵の城とある程度の距離は保ちたいとしても、ちょっと遠すぎるような気もしました。
陣内はどんな雰囲気だったのでしょうか。戦勝に興奮した状態?あるいは、戦に加えて野営の準備にも手間はかかりますので、疲れ果てて静まり返っていたのでしょうか?
いずれにせよ
上杉軍の危機はすぐそこに迫っていました。
■谷戸に隠れて夜襲■
<上麻生隠れ谷公園>かくれやと
氏康が兵を隠した谷とされている場所です。
<上麻生隠れ谷公園石碑>
石碑の奥は浸食によって形成された谷戸になっています。
北条軍は小沢城に籠城するのではなく、野営に対して奇襲を仕掛けました。負けで始まった戦いですが、その後の判断は前向きで、行動は機敏です。決して臆病者では真似できない戦いぶりです。氏康配下には、地形を良く知る地元武士も含まれています。夜の移動を苦としない条件が整っていたわけですね。あるいは、もともとそのつもりだったのでしょうか。
上杉軍は総崩れとなって敗走しました。
■つわものどもが夢の跡■
<勝坂>かちざか
こちらは氏康が「勝った!勝った!」と叫びながら駆け上ったと伝わる坂道です。当主であり父である北条氏綱の命で出陣した戦で大勝利。格別の思いが込み上げた瞬間だったのでしょう。この戦いが1530年、父の隠居により3代目当主となるのが1538年です。氏康の戦いはまだまだ続くわけですね。
■参考:Wikipedia:2021/11/5
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