埼玉県新座市に『島原の乱』の供養塔があります。まず天草四郎の名が思い浮かばれるこの乱、制圧した側(幕府側)の総大将が松平伊豆守ということはあまり知られてません。供養塔は伊豆守の菩提寺である平林寺境内。今回はそのご紹介です。
<島原の乱 供養塔>
<説明板>
こちらに『島原・天草の一揆供養塔』というタイトルで詳細が記されていますので、以下に抜粋します。
『寛永十四年から十五年(1637〜38)にかけて肥後国天草 の農民が、キリシタン信者と結合して起こした大反乱(島原・天草の一揆)を、大河内松平家の祖である松平伊豆守信綱が収めたことに由来する供養塔です。
この戦いによって亡くなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大鳴左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。』
[出典:現地説明板]
島原の乱は江戸時代初期に起こった一揆ですね。内戦といっていいこの戦いには、幕府軍が十万人以上動員されています。反乱の背景については、過酷な年貢の取立てとか、宗教的な意味合いなど、まだ議論が続いていながらも、かなり世間の知るところとなっています。ただ、幕府を相手に戦った3万を越える者たちが、単なる百姓の集まりではなく、職を失った武士たちが多く含まれていたことはあまり知られていません。もともと武士だった者が指揮することで、組織だった戦いをしていたようです。
幕府側の当初の総大将は板倉重昌でしたが、九州の諸藩の統率がとれず苦戦(大大名が多いため板倉重昌では束ねられなかったようです)。長期化で幕府の権威が揺らぐことを避けるべく、討伐の切り札として次に送り込まれたのが、三代将軍家光公の信任の厚かった松平伊豆守信綱でした。
この内戦、幕府軍の死者は8千人とも言われています。一方制圧された側ですが、3万7千人が戦いに参加し、全滅と伝わります。
<平林寺>へいりんじ
ここは老中であり、川越藩主だった松平伊豆守の菩提寺です。
その境内にある島原の乱の供養塔。現地説明板の通り、松平伊豆守が収めた内戦によって『亡くなった人たちの霊をなぐさめるため』の供養塔です。
■訪問:平林寺
[埼玉県新座市野火止]
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2020年10月10日
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