■犬伏の別れ■ いぬぶし
犬伏?これは地名です。場所は現在の栃木県佐野市南部。
徳川家康の号令に従って出陣した真田昌幸は、この地で息子二人と今後の身の振り方について話し合いをしました。その結果、長男である信幸は徳川軍と合流、逆に昌幸と次男の幸村は徳川に従わない道を選択。そのままこの地で分れました。地名から、この真田親子及び兄弟の決別は「犬伏の別れ」と呼ばれています。
<新町薬師堂>
石田三成挙兵の知らせが届き、ここ下野犬伏にて密談。まぁ家族会議ですね。
<密談の場所>
密議の場所と伝承されている佐野市の薬師堂です。真田昌幸は人払いをした上で息子二人と話し合いました。その後の行動は史実ですが、話し合いの内容は分かっていません。ただ相当長い話し合いだったようです。
[逸話]あまりの長さに、心配した家臣(河原綱家)が言いつけに背いて中をのぞきに行きました。しかし激怒した昌幸にゲタを投げつけられ、前歯が欠けてしまった。この逸話、大河ドラマ「真田丸」でもしっかり描かれていましたね。
<米山古墳の石碑>
薬師堂は周辺よりやや高台となっています。大河ドラマ「真田丸」に便乗してのぼりが沢山。石碑には「米山古墳」の文字が見えます。佐野市内には遺跡が多く、薬師堂の裏手もただの山かと思いきや、有名な古墳でした。現地へ行かれる方は、新町薬師堂より米山古墳で検索する方が場所が分りやすいですね。
<真田父子犬伏密談図>
以前上田市の博物館で見た「真田父子犬伏密談図」。忘れられない絵です。右が昌幸(父)、その正面(左手前)に座っているのが長男信幸。真ん中が幸村になります。一般的に、昌幸はどちらの勢力が勝っても真田の家が残るように考えていたとされています。また、兄弟それぞれの事情としては、兄の信幸は家康の側近・本多忠勝の娘(形としては家康の養女)を妻にしており、弟の幸村は石田三成の親友と言っていい大谷吉継の妹(娘という説もあり)を妻にしています。
[幸村という呼び名]今回に限らず、このブログでは幸村の名で通しています。これは後世の別称で、本名は信繁です。真田昌幸は、次男坊に武田信玄の弟の名をつけました。
<真田兄弟の別れ橋>
薬師堂の傍にはかつて川が流れており、そこに架かっていた橋は真田兄弟の「別れ橋」として語り継がれています。現地案内を参考に、その推定地まで行ってみました。
<別れ橋の推定値>
石碑があるわけでもなく、川の姿もありません。せっかく犬伏まで来たのですから「ここで真田兄弟は分れたのだなぁ」と実感したいところですが、ちょっとそれも難しい状況ですね。案内文も「別れ橋があったと云われる場所」……とても奥ゆかしい言い回しです。川跡とか暗渠(あんきょ)には多少敏感な方ですが、この側溝だけで、昔は川だったと信じるのはちょっと厳しい……ですね。まぁあくまで推定ということで。
ただ、この画像の右手は丘・古墳ですので、高低差からして水が流れていても不思議ではない場所です。正確な場所はともかく、真田兄弟はこの付近に架かる橋で分かれ、長男はそのまま東(小山市方面)へ、次男は父とともに逆戻りして西(群馬県方面)へ向かった。そういうことですね。
■そもそもの話■上杉征伐
秀吉亡き後、天下の主導権は家康に移りつつありました。もう一人の実力者だった前田利家が亡くなると、家康の動きはますます活発になります。半ばいいがかりに近い話で上杉景勝に因縁をつけ、諸大名を招集して上杉征伐(会津征伐)へと動き出しました。真田親子の話し合いは、この途上での出来事です。
■三成の挙兵■
やや話が逸れますが、実は石田三成の挙兵を促すために、家康は会津へ向かったという説もあります。だとすると、上杉家が言い掛かりに対して「ああ、それはどうも失礼しました」などと真田昌幸なみの柔軟な対応をとっていたら、三成の挙兵もなかったかも知れませんね。ただ名門にして義を重んじる上杉家に、そんな対応はありません。この時の筋を通した反論として有名なのが、重臣である直江兼続が家康に送った書状(直江状)。最大権力者に対して、内容はほぼ「是非に及ばず(話にならんわ)」。この気質、人質として上杉家で過ごしてた真田幸村に影響を与えたかも知れませんね。
また、三成挙兵を聞いて真田昌幸は態度を変えたのですから、三成が「やっぱり俺も大人しくしておくか」というタイプだったら、犬伏の別れもありません。何かが一つ違うだけで、その後の話が成り立たない。人の思惑まで想像すると、歴史は奥が深いですね。
■小松姫の逸話■
先述の通り、長男・真田信幸の妻は徳川四天王に名を連ねる本多忠勝の娘・小松姫。「真田丸」では内田羊さんが演じていました。ドラマでも描かれていた通り、下野国犬伏で息子と別れた昌幸は、上田への帰り道に「孫に会いたい」を理由に沼田城を訪れます。これに対し、夫の留守を守る小松姫は「敵である」ことを理由にこれを拒否。武装した姿で現れ、城門を開けず昌幸と幸村を追い返しました。さすがは三河武士最強と言われた男の娘ですね。
大河ドラマではここまででしたが、小松姫は自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、その期待に応えたそうです。与えられた立場での筋を通し、人情もある。素晴らしいですね。おんな城主が務まるのではないでしょうか。
<現在の沼田城>
■昌幸の夢の続きは・・・■
真田昌幸は、徳川家康の三男・秀忠が率いる三万八千の軍を上田城で迎え撃ちます。真田軍の兵は僅か三千。しかし結果は真田軍の勝利。昌幸はここでも負けませんでした。ただ、肝心の関ヶ原にて石田三成が敗北。上田城は徳川からの開城要請に応じました。
東軍についた長男信幸や義父の本多忠勝の嘆願により何とか助命されますが、昌幸は紀州九度山に蟄居させられ、その地で生涯を終えました。武田滅亡後の波乱万丈の人生。晩年はやや残念ですが、父から受け継ぎ、先に死んだ兄達の代わりに守り続けた真田の家は、長男である信幸へと引き継がれました(真田家は明治まで続きます)。そしてもう一つ、果たせなかった昌幸本人の思いは、同じく九度山に幽閉されていた次男幸村へと引き継がれます。
■昌幸にとっての主■
真田昌幸。タテにして書けば左右対称、真ん中に筋が通ってバランスのとれた良い名前ですね。表裏比興の者と呼ばれたこの人、私は長らく嫌いでした。主をめまぐるしく代えることに、嫌悪感すらありました。ただまぁ自分も多少は人生経験を重ねて、歴史をちょっとは深読みできるようになったせいでしょうか、最近はその行動が分かる気がします。
真田昌幸にとって
おやかた様は武田信玄のみだった
そう仮定すると、全ての行動が納得できます。心から御館様と思える信玄公以外は、昌幸にしてみればどうでも良く、都合で頭を下げてるだけ。むしろ一本筋が通っており、内面に隠されたその思いこそが、本当の意味で武士たる者の「忠義」なのではないでしょうか。そう思えます。真田昌幸、今では好きな戦国武将の一人です。
<つわものどもが夢の跡>
■訪問:新町薬師堂
[栃木県佐野市犬伏新町]2060
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