つわものどもが評定の跡
です。
■ 小山評定 ■おやまひょうじょう
関ヶ原合戦の直前、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議のことです。会津の上杉征伐 に向かった家康は、この地で石田三成挙兵の知らせ受け、諸将を集めて急遽話し合いの場を設けました(1600年9月1日)。
<小山評定跡>
小山市役所を目指して頂ければ到着できます。小山駅から徒歩10分以内。石碑は市役所正面のやや左側に設置されています。
■そもそも・・・■
関ヶ原の戦いにおいて、何で家康が率いる東軍に秀吉の遺臣たちが沢山いるのでしょうか
■ 朝鮮出兵の頃からの遺恨 ■
秀吉の死後、豊臣政権内でもともとあった不和が一気に表面化します。よくいわれる表現だと、下記の通りです。昔からの知り合いなんだし、こんな簡単な問題ではないと思いますが、説明できないのでシンプルな構造にさせてもらいます。三成さん、正則さん、勘弁して下さい。
A【文治派】 石田三成、大谷吉継ら
B【武断派】 加藤清正、福島正則ら
文治派っていうと冷たいエリートみたいだし、武断派っていうと物騒な感じが漂うので、朝鮮出兵における管理・監督チームがAチーム、実際に闘ったチームがBチームとしましょう。野球でもサッカーでも会社でも、どっちかだけでは駄目。両方大切です。
ただ、どうしても対立関係になる場面がありますね。
「実際に闘ってるのは俺達なんだぞ!」
「なんで勝手な真似すんだ!」
とかとか。こういうことって良くありますね。
それがかなり深刻になってしまった状況ということではないでしょうか?
■仲裁役の前田利家■
Aチーム、Bチームとは別に、勢力拡大中のチームがありました。
C【家康軍団】 徳川家康と三河武士の皆様
ただ亡き秀吉と盟友だった前田利家(豊臣秀頼の後見人でもあり、五大老の一人でもある)の存在感は大きく、AチームもBチームも、そしてCチームですら何とか収まっていました。
[五大老]
@徳川家康:関東支配・五大老筆頭
A前田利家:北陸支配・秀吉の盟友
B上杉景勝:東北南部・謙信後継者 (越後から会津へ)
C毛利輝元:中国西部・毛利元就の孫
D宇喜多秀家:中国東部(小早川隆景死去後)
しかし利家は既に高齢。1599年3月3日、この世を去ります。これで仲裁する者がいなくなりました。ここから一気に歴史が動きます。
Bチーム(武断派)はCチーム(家康軍団)に接近し、現場知らずのAチーム(文治派)に対抗しようとします。AチームはBチームと敵対するつもりはありませんが、とにかく豊臣家を脅かすCチームに危機感を持って焦り始めていました。
■ AとBの対立を利用した家康 ■
石田三成襲撃事件 (七将襲撃事件)
3月4日未明、Bチームの七将(加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、蜂須賀家政、藤堂高虎)が手勢を連れてAチーム筆頭石田三成を襲撃する事件がおきました(三成はなんとか難を逃れました)。家康はこの仲裁に乗じて石田三成を隠居させる事に成功。七将には朝鮮出兵時(蔚山[ウルサン]城の戦い)の査定などでの査定のやり直しを約束しました。まだ緊張状態のなか、三成は家康の次男である結城秀康に護送されながら佐和山城へ移ります。
家康は三成を失脚させた上で、加藤清正や福島正則にも恩を売ったことになります。AチームもBチームも秀吉の遺臣なのですが、その対立構造を上手く利用されてしまいました。
■ 石田三成挙兵 ■
佐和山城に隠居していた三成ですが、上杉征伐のために徳川家康が江戸に下ると、西国大名とともに家康を討つために動き始めます。この動きが家康の元に届き、小山評定が始まりました。
(上記の五大老BCDは三成方の西軍となります)
■ 家康によるベクトル合わせ ■
徳川家康はしっかりとした手続きを経た上で挙兵しているので、上杉征伐の大軍は、あくまで豊臣家の命令で動いていました。ところがこの小山の地で方針が変わります。軍議の参加者は家康と秀忠、そして本多忠勝、本多正信、井伊直政といった徳川家臣団、更には三成に遺恨を持つ七将の姿もあります。
そもそも上杉征伐そのものが「言い掛かり」に近いもの。加藤清正や福島正則にしてみれば上杉景勝に恨みなど無く、むしろ売られたケンカを真っ向から買う姿勢に武士としての潔さすら感じていたのではないでしょうか。それに引き換え、三成は今でも憎い。ならば身内の人質問題等のリスクはあっても、引き返して潰してやりたいと思って当然ではないでしょうか。もっと言えば、この地で決断する以前に、そうなる土壌が出来上がっていたのだと思います。
■つわものどもが夢の跡■
各武将はここ下野小山で、家康に従うことを誓約します。そして関ケ原の合戦に臨むことに。根回しなども含め、秀吉の遺臣たちを含む「つわものども」のベクトルを合わせた徳川家康。恐ろしい人ですね。今回訪問の小山評定跡は、そんな深いドラマが繰り広げられた場所です。
以上
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
■訪問:小山評定跡
[栃木県小山市中央町]1丁目
お城巡りランキング
------------( 追 記 )------------
■Dチーム■
追記として、家康に従わなかったつわものどもを簡単にご紹介します。
■田丸忠昌■ たまるなおまさ
美濃岩村城主です。この方は小山評定に参加した上で、家康には従わず帰ってしまいました。創作された逸話という説もありますが、そう語り継がれています。
<岩村城跡>
[岐阜県恵那市岩村町城山]
田丸忠昌が関ヶ原の戦いで西軍に与したことは事実で、戦後は助命されたものの家はお取り潰し。越後へ流罪となりました。
■真田昌幸■ さなだまさゆき
参陣を表明しながら途中で引き返したのは真田昌幸・幸村親子だけです。遠征途中の下野犬伏で離脱。引き返してしまいました。代わりに昌幸の長男で沼田城主の真田信幸が参陣しました。
<犬伏薬師堂>
[栃木県佐野市犬伏新町]
真田父子が話し合ったとされる場所
<沼田城跡>
[群馬県沼田市西倉内町]
沼田城主・真田信幸、さぞ肩身が狭かったでしょうね。関ヶ原の後、父から受け継いだ「幸」の字を捨て、真田信之と改名します。
以上です。
-----------(周辺の史跡 )-----------
小山評定跡は石碑のみですので、実際に訪問される方は下記もどうぞ。全て駅から徒歩圏内です。
<祇園城跡>
[栃木県小山市城山町]
小山城です。城の守り神として祇園社を祀ったことから 祇園城と呼ばれています。遺構も充実しています。ただ歴史が長いせいか、私にはどの時代のものか特定が難しい(混乱してしまいます)。目利きの城マニアの方はチャレンジしてみて下さい。
※当ブログの訪問記→祇園城記事へ移動
<小山御殿跡>
小山評定よりずっと後の話になりますが、ここ小山宿には、将軍家の日光社参のための休憩所がありました。1622年に秀忠が日光社参を行った際に、関ヶ原の戦いの勝利へと繋がった小山評定を吉例とし、この地に休憩所を設けたとされています(つまり縁起の良い場所ということですね。あくまで徳川にとってですが)。
場所は小山評定跡のすぐそば。市役所の北側になります。
<小山御殿の案内図>
休憩所といっても将軍様の施設。周囲に堀を廻らし、土塁が二重に築かれる厳重な造りだったと伝わります。図を見る限り、ちょっとした館のようですね。
↓
小山御殿跡へ2019年2月再訪したところ、再整備されていましたので、画像だけ貼っておきます。
<小山御殿跡>
<小山御殿の説明板>
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