名門小山氏の居城『祇園城』を訪問しました。
<祇園城跡>ぎおんじょう
祇園と言っても京都にあるわけではなく、場所は栃木県小山市。下野国小山城です。祇園城の名は、城の守り神として祇園社を祀ったことに由来します。
<城山公園入口付近>
かつての城郭の一部が、現在の城山公園。画像は公園の南側の曲輪です。本丸と考えられています。ここから北へ向かって二の丸、三の丸と続きます。
■小山氏の居城■
歴史はそうとう長く、その中身も濃い城跡です。まず始まりは平安時代。この地の豪族、小山氏によって築かれたと推定されています。
小山氏の先祖は、将門討伐の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)。俵藤太(たわらのとうた)という呼び名の方が有名でしょうか。平将門が関東地方でおこした反乱を鎮圧し、一躍出世した武将ですね。その子孫は北関東・奥羽の各地に広まりました。〇〇の末裔といった話は、けっこう疑う余地があるケースもありますが、小山氏は初代までの明確な系図が残る名族。藤原秀郷の直系子孫(藤原秀郷流太田氏)の太田政光がこの地に移り住み、小山氏を名乗ったのが始まりです(1150年頃)。その小山政光の後妻は源頼朝の乳母。この関係もあり、息子達と共に頼朝の御家人となり活躍します。
当時においては
下野国最大の武士団
この地はそんな名族の城跡です。
■関東八屋形■かんとうはちやかた
宇都宮氏・小田氏・小山氏・佐竹氏・千葉氏・長沼氏・那須氏・結城氏
鎌倉公方に認められた名族の八家です。鎌倉公方を支える一方で、各々の国の守護を出す家柄と定められました。
このうち、長沼氏は小山氏の祖である小山政光の次男、結城氏は三男を祖とします。
つまり八家のなかでも、小山氏・長沼氏・結城氏は同系。深い関係というわけですね。
<公園内>
良く整備されていて、説明も丁寧です。予習しないで訪問しても充分楽しめます。
<土塁>
土塁跡は公園内のあちらこちらで見ることができます。画像は一番目立った(高かった)土塁です。
<祗園橋>
橋の下は深い堀切になっています。
<堀切の底から撮影>
ここは本丸と二の丸の間の堀切跡です。現在は道となっています。
道の行き先は思川(川原に出ます)。そこにはかつては舟付場があったとされています。それはこの地が城として機能していた時からなのか、それとも廃城後の堀切跡が「結城道」と呼ばれて街道として機能していた時からなのか、はっきりしません。
<縄張り図>
連郭式の縄張りです。これは江戸に入って拡張された状態ですね。説明だと東西約300m、南北約700mに及ぶ城郭。 思川に面した丘に縦長に曲輪が配置されているのが分かります。その思川ですが、水量のある大きな川です。太古の昔には、本流のまま東京湾へ流れ出る川でした。現在では渡良瀬川支流。利根川へと繋がります。祇園城にとって、この川は天然の堀であると同時に、人や物資の輸送手段だったことでしょう。
それにして「おもいがわ」とは何とも素敵な響きですね。「人の思いが川の流れのように・・」などと勝手に想像してしまいました。実際には、漢字で田心川と書かれたのが、田+心=思で思川となったようです(女神の田心姫(たごりひめ)に由来)。
■小山義政の乱■
鎌倉時代から代々下野守護を務めてきた小山氏ですが、下野国は宇都宮氏ほか競合が多く、統治は不安定でした。やがて11代目当主の義政の時に、鎌倉公方と争うことに(小山義政の乱:1386年〜)。結果、鎌倉幕府軍に滅ぼされてしまいます。
■若犬丸の話■わかいぬまる
小山若犬丸は小山義政の息子。なにごと無ければ小山氏12代目当主となっていた男です。義政が戦いに敗れた後、父の遺志を継いで鎌倉公方足利氏満に反抗し、ここ祇園城に立て籠もりました。しかし討伐軍に敗れ逃亡。十年の時を経て再び鎌倉公方を相手に挙兵しますが、やはり大軍を前に敗れました。
若犬丸にはまだ幼い息子が二人(宮犬丸と久犬丸)いましたが、捕えられて鎌倉へ送られたのち、海に沈められました。若犬丸については、逃れた先で自害したとする説、あるいは蝦夷に逃れたという説もありますが、はっきりしていません。いずれにせよ、長く続いた名門小山氏の嫡流はこの時に途絶えました。
(ここでちょっと・・・)
小山氏栄枯盛衰の負の部分ばかり説明していますが、栄えて盛んなゆえに11代も続くわけです。滅ぼされた小山義政も、一旦は勢力拡大に成功しています。しかし鎌倉公方に疎まれる結果となりました。城跡ブログなので、城が最後はどうなったか早足で説明すると、どうしても悪い事を説明せざるを得ません。
■小山氏の再興■
氏族の直系の血筋は途切れましたが、小山氏は同系の結城氏より養子を迎えて存続します。ただ戦国時代に突入した関東では争いが絶えず、地理的にいざこざに巻き込まれやすい小山氏は、その後も危機にさらされ続けます。
■小田原北条氏配下の城へ■小山氏支配はここまで
1575年には北条氏照に攻められ、小山秀綱が追放されてしまい、またも滅ぼされてしまいます。この頃には、かつての関東八屋形による支配は既に崩壊しており、小田原北条氏が関東を支配しつつありました。北条氏照は祇園城に手を加えて、北条の城として拡張工事を行います。この支配は、秀吉の小田原征伐(1590年)によって北条氏が滅亡するまで続きます。
■徳川配下から廃城■
江戸幕府成立後は、本多正純が3万石で城主(下野国小山藩主)となります。家康の側近中の側近、あの智将・本多正信の長男ですね。ここでまた城に手が加えられましたが、本多正純は宇都宮に移封となってしまいます。小山藩は廃藩となり、所領は古河藩が吸収。祇園城の役割は終わりました。
■つわものどもが夢の跡■
<堀切のなごり>
長くて深い、そして複雑な歴史が刻まれた城跡には、いつのものか分からない遺構がたくさん残されていました。
--------■ 祇園城 ■--------
別 名:小山城
築城年:1148年(久安4)
築城者:小山政光
改修者:北条氏
支 配:小山氏
北条氏・本多氏
廃 城:1619年(元和5)
現 況:城山公園
[ 栃木県小山市城山町 ]
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------ 追 記 ------
別な日に再訪したので、画像だけ追加しておきます。
<本丸跡の土塁>
<祇園橋>
<曲輪と堀切>
<思川と祇園城>
タグ:栃木