場所は出丸跡とされる大宮第二公園です。梅林付近と聞いて足を運びましたが、それらしきものと出会えず、近くの日本庭園付近まで歩いたところで起伏をみつけました。
こちらです。まぁ段違いにはなっている様子ですが「塁」と呼べるのか微妙
雰囲気だけは漂いますが…
土塁跡と思って良いのか、何とも言えないというのが正直な感想です。直接登ってみれば、もっと実感を得られたのかもしれませんが、柵の内側なのでやめておきました。
まぁ具体的な成果も魅力的ですが、消えてなお残る余韻を「探すこと」が趣味の始まりだったので、初心に立ち返れば、訪問できて良かったです。本当に土塁跡であることをやんわりと期待して、現地を去りました。
寿能城の出丸は、かつてあった巨大沼(見沼)に突き出るよう地形だったため、三方を沼に囲まれていました。現在は大宮第二公園となっています。第二公園の全てではなく、一部(西側)です。
こちらは大宮第二公園内の菖蒲田。ご覧の通り、多少高低差があります。手前は出丸跡、奥へ向かって広がる菖蒲田は見沼の跡です。劇的な高低差ではありませんが、出丸は沼の中の微高地だったことが伝わってくるようです。公園として整備されていなければ、もう少し分かり安い地形だったのかもしれませんね。
こちらはかつての見沼を縁どるように掘削された見沼代用水西縁と、寿能城主の名を冠する潮田橋です。大筋では、この水路より東側はかつての巨大沼となりますが、微高地だった出丸だけは例外です。説明板の地図を以下に拡大させてもらいます。
潮田橋が現在位置。広大な大宮第二公園はすぐそばですね。この地図だと、梅林と表示されている付近を目指して歩いていけば、そのすぐ近くが日本庭園で、庭園の裏の敷地に土塁跡かもしれない起伏を見ることができます。
ちょっと雑ですみませんが以上です。
最後に
出丸の範囲については諸説あります。今回は大宮第二公園の西側とさせて頂きましたが、これは一般的に言われている情報を参考に、現地の高低差などを考慮して私が推定したものです。城跡好きの会社員のブログに過ぎませんので、そのヘンはご理解下さい。
ただ、現地で似た感想を持たれる方がいれば嬉しいです。
■訪問:大宮第二公園
(日本庭園付近)
[埼玉県さいたま市大宮区寿能町]2丁目
■ 寿能城について ■
<潮田資忠墓碑>うしおだすけただ
寿能城は岩槻城主である太田資正の四男・潮田資忠により築かれました。1590年に廃城。本丸跡が寿能公園として整備されています。当ブログで、過去に何度かご紹介させて頂いておりますので、良かったら覗いてみて下さい。
過去記事(クリックで記事に移動します)
2018年01月17日
『消えた見沼の浮き城 寿能城』
2018年08月01日
『寿能城主・潮田資忠の末裔』
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