<空堀の跡>
スケールも雰囲気もにいい感じです。市街地化された場所で、こういう遺構と出会う(そして一人でニヤっと笑う)。城跡巡りの基本に戻ったような気分でした。やはり大きな城とは別の魅力がありますね。
■足利政氏館■あしかがまさうじ
県指定史跡。別名「久喜の館」。詳細は明らかではないものの、足利政氏によって築かれたと伝えられています。足利政氏は足利成氏の嫡男。そして二代目古河公方です。室町幕府第8代将軍の足利義政より偏諱を賜り「政氏」と名乗りました。
■埼玉県久喜市■なんで古河市じゃないの
古河公方、つまり関東の足利氏。武家の棟梁ですね。その歴史は、五代目鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、関東管領山内上杉氏と抗争ののち、本拠地を鎌倉から古河(現在の茨城県古河市)に移して初代古河公方となったことに始まります。政氏はその嫡子。1489年に父・成氏から家督を譲られました。
立派な地位のお方。では、そのやんごとなきお方のお住まいがなぜこの場所なのでしょう・・・
■経緯■ちょっとラフですが
太田道灌亡きあとの関東では、勢力バランスが崩れて混迷の時期が続きました。二代目足利政氏は古河公方の権威の維持に努めますが、ご本人の身内ですらまとめられず、息子と対立した結果、引退を余儀なくされました。ただの親子喧嘩ならまぁいいですが、双方に支持者がいたわけですから、それはそれは壮大な親子喧嘩。要するに、親子以外の人達の思惑が混じり合った権力争いです。あげくの果てに、二代目古河公方は息子に敗れました。関東における古河公方の権威どころか、親の権威も維持できなかったことになります。
こんなことをしている間に、関東地方では小田原の北条氏が着々と勢力を拡大していきます。後の関東覇者ですね。小田原北条氏は関東で権威のあった古河公方に接近し、血縁関係を含めてその内部にまで入り込み、やがて体制を崩壊させました。古河公方は結果としては130年続きましたが、第五代目で絶えました。
(成氏⇒政氏⇒高基⇒晴氏⇒義氏)
<甘棠院の惣門>
入口です。甘棠院は鎌倉にある臨済宗円覚寺派の寺院。風格が漂います。
<山門>
更に奥の門。この先に更に遺構があるらしいのですが、入れませんでした。しばらく塀の隙間から中の様子をうかがっていましたが、非常に厳格な雰囲気のある場所のため、撮影は遠慮しました。
<空堀>
空堀です。ただ久喜市内も、大昔は今では想像できないような湿地帯だったと思われますので、周辺の豊富な水を引き込んでいても何ら不思議ではありません。まぁそういうのを勝手に想像するのも城跡巡りの楽しみです。境内を囲むように、東側を除く三方に堀跡があります。
■夢破れて隠居■
ここ甘棠院は、二代目古河公方の政氏が、晩年を過ごした場所ということになります。現地の説明文にも記載がありましたが、政氏は古河城を出て下野国(栃木県)の小山氏を頼り、小山城に滞在していた期間があったようです。つまり、落ち延びながらも諦めず、反撃の機会を待っていたのでしょう。しかし小山氏も息子の高基を支持するようになり、結局は隠居を余儀なくされ、この「久喜の館」へ移りました。館は政氏が築かせたという説のほかに、もともとあった豪族の館を政氏が寺院に変えたという説もあります。いずれにせよ、二代目古河公方はこの地で生涯を閉じ、墓もこの地に残ります。
つわものどもが夢の跡
名門足利氏の家紋が刻まれていました
■訪問:足利政氏館跡
[埼玉県久喜市本町]7丁目
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