千葉県君津市の山城を訪問しました。
<久留里城>くるりじょう
本丸跡の模擬天守です。
■久留里城の歴史■
私は漠然と「里見氏の居城」というイメージのまま訪問しましたが、歴史はかなり長く、廃城も明治になってからということを現地で知りました。
<久留里城址資料館>
こちらは二の丸跡の資料館です。予習していなくてもここへ立ち寄れば大丈夫
<久留里城の歴史>
分かり安い!助かります。こちらを補足しながら、久留里城の歴史をご紹介させて頂きます。
武田信長 房総侵入
久留里城にその一族を配する
武田信長は上総武田氏の祖となった人物。名の示す通り甲斐源氏の支族です。普通の感覚だと、武田(信玄)と(織田)信長は宿敵なので、ちょっと違和感がありますが、逆に覚えやすい名前ですね。久留里城には、平将門の三男が築城者という伝承もありますが、史実としては、武田信長の築城が城の始まりとされています(1455年)。城は武田信長の子孫の真理谷(まりやつ)氏が支配することとなりますが、戦国時代に突入すると身内の争いもあって勢力を失い、安房国を拠点に勢力を拡大していった里見氏に実権を奪われました。
里見義堯、久留里に登場!
房総経略の拠点とする
里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)は、久留里を本拠とし、城の改修を行いました。峰続きの別の場所に再構築したという言い方の方が正しいのかもしれません。
<資料館のジオラマ>
久留里城は比高100mほどの丘陵地帯に築かれた山城です。里見義堯の改修以降は、右上の山頂付近が本丸・二の丸など城の中核部となりました。初期の久留里城(古久留里城)も含めるとかなり大きな城です。
里見氏は関東で勢力を拡大する小田原北条氏と争うこととなり、幾度となく激突します。久留里城は一時的に北条氏に奪われていますが、里見氏は奪い返しています。北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐で大名としては滅びますが、この際に、里見氏(この時の当主は義康)は参陣に積極的ではなかったことから、上総国の所領は没収となり、久留里城も手放すことになります。安房国の領有はゆるされています。
徳川家康 関東入国
・大須賀忠政、近江横須賀より3万石で転封【12年】
・土屋忠直、2万石で入封【3代78年】
※前橋藩主酒井忠清の加増地となり廃城
・上野国沼田より黒田直純、3万石で転封
※久留里藩復興
以降、黒田氏の政治となる【9代130年】
北条氏に代わって徳川家康が関東を治めることになると、久留里城には大須賀忠政が3万石を与えられ入城しました。大須賀氏は古くからの徳川家臣ですが、忠政は養子で、実父は徳川四天王に名を連ねる榊原康政です。忠政が久留里城主の時に、城下町の基盤が出来たようです。
<ジオラマ(山麓)>
地形を利用した山城は戦闘には有利ですが、何事無い時は不便です。整備された山麓が平時の場所であり、城下との接点として機能したわけですね。
関ヶ原の戦いの後、忠政に代わって久留里を任された土屋忠直は、親の代から徳川に仕えた家柄ではなく、ルーツは武田氏家臣です。忠直の父は「片手千人斬り」で有名な猛将・土屋昌恒で、天目山の戦いで武田勝頼に殉じました。忠直から始まる久留米藩主・土屋氏は3代続きましたが、1679年に改易となり廃藩。久留里城は一旦廃城となります。しかし時を経た1742年、上野国沼田より譜代大名の黒田直純が3万石で転封となり再び立藩。久留里城はこの時に再建されました。天守が建てられたのはこの時と考えられます。黒田氏の統治は9代130年続き、そのまま明治維新を迎えました。
■ 登城記録 ■
<駐車場>
無料駐車場があります。ここからは歩きです
<城山の高さ>
久留里城の築かれた山は「城山」と呼ばれています。これによると先ほどの駐車場の海抜が55mで本丸は145m。引き算した数字の高低差を登ることになりますが、あとちょっとの所で、意外と大変なことだと思い知ります。私は甘くみて利用しませんでしたが、坂道用に杖が用意されています。
<雨城>うじょう
久留里城の別名は雨城。築城後、三日に一度雨が降ったことに由来するようです。
<坂の途中の説明板>
坂道は長いので、ついでに足を止めて読むことをお勧めします。すべてご紹介できませんが、安房の里見義堯が上総に進出して本拠地を久留里城に移したこと、小田原北条氏に敗北して城を一時奪われたこと、その2年後に奪還したことなどが記されています。
<登山道>
見た目より急な坂が続きます。勾配より長さが効きます。
<堀切跡の標柱>
城として山に手を加えたなごりということですね
<堀切跡>
絵として地味ですがここも堀切跡ですね。尾根を断ち切り、敵の侵入を妨害するための仕掛けです。二の丸へ向かう途中で撮影しました。
<お玉ヶ池>
二の丸下の池です。その名は城将の娘「お玉」に由来します。悲話の伝承があり、背景に山頂付近が水の確保に苦労していたことが伺えます。里見氏の時代に掘られたようです。
<薬師曲輪>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(=主たる曲輪を補強する区画)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
<雨城八幡神社>
薬師曲輪跡に鎮座しています
<里見北条古戦史碑>
里見氏が迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<新井白石像>あらいはくせき
二の丸の久留里城址資料館近くで撮影しました。新井白石像がなぜここに?江戸時代の儒学者として有名ですが、土屋家二代目の利直に仕えて、青年期をここ久留里の地で過ごしたそうです
<久留里曲輪>
ここも二の丸の腰曲輪
<天神曲輪>
こちらは本丸の腰曲輪
<男井戸・女井戸>
本丸下の井戸です。籠城する城兵は、この井戸にいく度となく救われたことでしょう
<波多野曲輪>
こちらも本丸の腰曲輪。本丸の天守のすぐ近くです
<尾根を削った曲輪>
波多野曲輪を本丸側から撮影するとこんな感じです。区画の奥が突き出ていますね。本丸へ続く尾根を削って曲輪としたことがよく分かります。久留里城はこういった小規模な腰曲輪が多いです。山の特徴として、尾根の幅が比較的狭いということも影響しているのかもしれません。
そして
<模擬天守>
立派です。模擬といっても、久留里城に天守は実在していました。ただ、文献などから2層2階と推定されているものの詳細は不確かなようです。再建された天守は2層3階ですので、実在のものとはちょっと異なるようです。再建は1979年(昭和54年)。浜松城の模擬天守をモデルとしたそうです。
<天守台跡>
こちらは天守の遺構です。実際の天守はこの天守台の上に築かれていました。
<天守台跡と模擬天守>
天守台の遺構と再建された模擬天守が並んでいる構図となっています。
<丹生廟遺跡>たんしょうびょういせき
本丸の北側には高台があります。城好きならまず物見櫓の跡を想像することでしょう。こちらには藩主となった黒田家のルーツである丹党(秩父丹党)の祖神が祀られています。現在は石碑と説明板のみ。高台は「剣の峯」と呼ばれているそうです。
<剣の峯>
登ってみました。土を盛ったのかもしれませんが、起伏からして、もともとの地形のような気もします。本丸を平らに造成する際に、削らずに残したのかもしれないと勝手に思いました。
登城記録は以上です。
地形から私が勝手に想像したコメントも含まれていますので、その点はご容赦下さい。
■つわものどもが夢の跡■
今回の訪問を機に、久留里城の築城から廃城まで、大まかではありますが知ることができました。長い長い歴史が刻まれた城ですね。ただ、やはり里見氏の居城というイメージに変わりはありません。
<城山からの眺め>
新田の流れを汲む名門とはいえ小大名に過ぎなかった安房国の里見氏が、勢力を拡大し、関東覇者・小田原北条氏を迎え撃った城跡です。
---------■ 久留里城 ■---------
別 名:雨城 霧降城
築城年:1456年頃
築城者:武田信長
改修者:里見義堯
黒田直純
城 主:上総武田氏 安房里見氏
北条氏 黒田氏 他
廃城年:1872年(明治5)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・久留里城址資料館
(展示資料・小冊子・城内説明板)
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
・Wikipedia:2023/5/31
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