安房国(千葉県南部)から始まり、徐々に房総半島全体に勢力を拡大した里見氏が、迫りくる小田原北条氏の軍を二度に渡って退けたことが記されています。
<薬師曲輪からの眺め>
こちらは久留里城二の丸の腰曲輪(薬師曲輪と呼ばれています)からの眺めです。久留里城は房総半島の中央部に位置する山城。低地に面しているため、遠くまで見渡せます。かつて里見氏が、攻め寄せる小田原北条軍を迎え撃った古戦場も見渡せます。
どのヘンか?
<古戦場>
ちょっと雑ですが、現地の案内板によればこの付近(赤〇)ということになります。
冒頭の石碑によれば『戦国時代の天文二十三年(一五五四)晩秋 北條綱成は二万余騎の軍兵を従えて向郷に陣屋を構え 里見義堯 義弘の守る久留里城を攻撃して来た』
北条綱成は小田原北条氏の家臣で、主力部隊を任される大将格の武将です。北条氏綱に気に入られ、他家から北条一門に迎えられました。その綱成率いる大軍を、安房里見氏の第5代当主・義堯(よしたか)と嫡男・義弘が迎え撃ったわけですね。
つづきを要約させて頂くと、知将・里見義堯の戦略により、湯名城主山本左馬允、一宮城主須田将監 鳴戸城主忍足美作守、大多喜城正木時茂、周西城主茂木与茂九郎らの武将が馳せ参じ、小櫃川を挟んで数十日間あまりの攻防戦を展開して、北条軍を撃退したとのこと。このあと字が読めませんでしたが、若干16歳の少年武将だった茂木与茂九郎の奮戦ぶりが記されています。また、翌年の弘治元年に、再び北条軍の攻撃を受けて激戦となりながら、久留里城が落ちることはなく、難攻不落の名を坂東に知らしめたという内容でしめくくられています。
戦国時代に入った関東では、北条氏が小田原に進出し、やがて三浦半島にまで勢力を伸ばしました。このことは、江戸湾を挟んだ安房国を拠点に勢力拡大を成していった里見氏にも大きく影響します。里見氏と小田原北条氏の関係は、周辺の勢力との兼ね合いも含めてかなり複雑なものとなり、やがて幾度となく戦うことになります。このうち、久留里城付近を舞台とした1554年・1555年の激突に関しては、里見軍が北条軍を退けました。
強敵を退けた里見氏の雄姿をたたえる石碑ということですね
■訪問:里見北条古戦史碑
(久留里城薬師曲輪跡)
[千葉県君津市久留里]字内山
■参考及び出典
・里見北条古戦史碑
(上総ライオンズクラブ)
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