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2021年12月25日

赤山街道 八丁堤のなごり

今回は台地と台地の谷間を通過する赤山街道の話です。
<附島氷川女体神社>つきしまひかわにょたい
Tsukishima-Hikawa-Nyotai-shrine.jpg
盛られた土の上に鎮座する神社です。この日の探索を象徴する景色でした。

■東浦和駅から川口市まで■
まずは
東浦和駅付近を通過する赤山街道です。

<東浦和駅前>
akayamakaido-downhill.jpg
向こうへ進むほど谷になっています。赤山街道はここまでは台地の上でしたが、この先で低地へ向かいます。むかしは沼あるいは湿地帯だった場所です。どうやって道を通したのでしょうか

<低い場所>
Canal-and-bamboo-grove.jpg
しばらく進むと、進行方向左手にこんな景色がひろがりました。道路よりかなり低くなっています。手前の水路は見沼代用水、奥の竹林の向こう側は見沼通船堀になっています。道からちょっと逸れますが、戻って立ち寄ってみることにしました。

<見沼代用水>みぬまだいようすい
Minumadaiyosui.jpg
ここは見沼代用水の西縁

<見沼通船堀>みぬまつうせんぼり
Minumatsusebori.jpg
こちらは日本最古の木造の閘門式運河

そして
<説明板>
Minumatsusebori-information.jpg
見沼通船堀公園に設置されている説明板です。図解が分かりやすいです

<溜井の時代>徳川家光の時代
Illustrated-reservoir.jpg
農業用水の貯水量確保のために、伊奈忠治が築いた見沼溜井です(1629年)。見沼の南端に堤を築き、流入してくる水を堰き止めました。まぁいわばダムですね。堤の長さは約870m(八町)。これにより八丁堤と呼ばれました。
この図からも見てとれますが、見沼は台地と台地の間の谷間です。伊奈忠治は両岸の台地の距離が最も狭くなるところに堤を築きました。もう少し具体的に言うと、複数の支台に分かれている大宮台地のうち、大宮浦和支台(図解の左側)と鳩ヶ谷支台(右側)の間を土の塁でつなぎました。赤山街道は、この区間では堤の上を利用したそうです。つまり、灌漑用水池を作るために築かれた堤は、陣屋へつながる赤山街道の一部でもあったわけです。治水と道の確保のダブルプレーだったわけですね。

<田んぼの時代>徳川吉宗の時代
Illustrated-Minumatsusebori.jpg
のちの時代に堤は破られ、低地は全て田んぼになりました。中央の川は芝川です。平地を縁取るような水路が見沼代用水の東縁と西縁。そして東西の舟の行き来を可能にしたのが見沼通船堀です。幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛による治水事業です。

そうと分かれば、それらを実感すべく歩くだけです。

<赤山街道>
Road-to-Akayama1.jpg
現在の吉場安行東京線

<堤のなごり>
Road-to-Akayama2.jpg
左手の土を盛ってあるところに鳥居が見えました

<附島氷川女体社>
Road-to-Akayama2-shrine.jpg
Tsukishima-Hikawa-Nyotai.jpg
Tsukishima-Hikawa-Nyotai-J.jpg
見沼溜井の造成による水没から逃れるため、三室村から附島村に移ったと伝わります。附島はこの付近のかつての地名です(現住所だと大間木)

<八丁堤のなごり>
On-the-earthworks.jpg
八丁堤により水没した神社が今では八丁堤の上に祀られている。この付近には、見沼通船堀公園内を含め、堤のなごりがあちらこちらに残っていますが、ここは最も歴史の深みを感じる場所でした。


<再び赤山街道>
Road-to-Akayama3.jpg
右手がかつての八丁堤の南側です

<大間木稲荷社>
Road-to-Akayama3-shrine.jpg
Road-to-Akayama3-Koshinto.jpg
街道沿いは神社が多いです。新田開発で移り住んだ人々により創建されました

つづいて

<八丁観音堂>
Road-to-Akayama4-.jpg
見沼通船堀の開通と同時期の創建と推定されています

<大聖不動尊>だいしょうふどうそん
Road-to-Akayama4-Fudo.jpg
八丁観音堂の境内不動堂。武州足立百不動尊霊場20番です。

<赤山街道>
Road-to-Akayama5.jpg
古くからの街道にはありがちなことですが、車がすれ違うにはちょっと道幅が狭いです

<屋敷>
Road-to-Akayama6.jpg
立派な屋敷が見えてきました

<鈴木家住宅>
Cultural-property-Suzuki.jpg
Cultural-property.jpg
こちらのお屋敷は、井沢弥惣兵衛のもとで干拓事業に加わり、見沼通船堀完成後は幕府から差配役(船割り役を担う)を任された鈴木家の邸宅です。

<まもなく芝川>
Road-to-Akayama7.jpg
橋が見えました

<芝川と八丁橋>
Road-to-Akayama7-Bridge-.jpg
Hacchyo-Bridge.jpg
伊奈忠治が築いた八丁堤が破られ、見沼田んぼの開発が始まったことを象徴する場所です

<説明板>
Hacchyotsutsumi-Explanation-board.jpg
芝川沿いに八丁堤に関する説明板が設置されていました

さて
更に川口方面へ

<大間木水神社>
Road-to-Akayama8.jpg
Road-to-Akayama8-Suijinshya.jpg
こちらも見沼通船堀の開通と同時期の創建と伝わります

更にすすむ

<赤山街道>
Road-to-Akayama9.jpg
Road-to-Akayama10.jpg
取り壊された八丁堤とこの道路の位置が完全に一致しているとは思っていませんが、大筋は同じはず。それを意識をしながら歩き続けました

<鳥居>
Road-to-Akayama11.jpg
また鳥居が見えました

<市境>
Road-to-Akayama12-Kawaguchi.jpg
どうやら市境まで来たようです。赤山陣屋はまだまだ先ですが、一応この先は川口市です。

<下山口新田稲荷社>
Road-to-Akayama12-Torii.jpg
Road-to-Akayama12-shrine.jpg
新田開拓に60年を要した江戸小田原町鯉屋藤左衛門の姓「山口」がそのまま地名となっています。難工事が完成した時(1791)に勧請された稲荷社とのこと

<見沼代用水東縁>
Road-to-Akayama12-2.jpg
稲荷社の東側は見沼代用水の東縁です。もう少し歩きたかったのですが、陽が傾いてしまったので、この日はここまでとしました。

ということで
陣屋へつながる赤山街道のうち、かつての八丁堤付近を歩いてみたというお話でした。

■参考及び出典
見沼通船堀公園案内板
(さいたま市教育委員会)
神社御由緒
・附島氷川女体神社
・大間木水神社
・下山口新田稲荷社
鈴木家住宅説明板(さいたま市)
八丁堀説明板(さいたま市)



------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]

<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]


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2021年12月18日

赤山陣屋への道(東浦和)赤山街道沿いの大間木氷川神社

今回は東浦和付近で赤山街道を歩いてみた時の記録です。

<大間木氷川神社>おおまぎ
Omagi-Hikawajinja-Akayama-Kaido.jpg
こちらは東浦和の大間木氷川神社です。

<参道>
Omagi-Hikawajinja-Sando.jpg
凛とした雰囲気

<御由緒>
Hikawajinja-History.jpg
創建年代は不詳ながら室町期までさかのぼると推測されているようです。

<拝殿>
Higashiurawa-Haiden.jpg

<本殿>
Higashiurawa-Honden.jpg
本殿は市指定有形文化財です。寛文7年(1667年)に、本社である武蔵一宮氷川神社の旧本殿を譲り受けたものとのこと。平成になって火災で損傷したものの、修復されて現在に至っています。素敵な神社ですね。

そして

<説明板と道路>
Akayama-Kaido-Higashiurawa.jpg
こちらは冒頭の鳥居近くに設置されている説明板、そして境内をかすめるような車道。お察しの通り、一見すると普通の道としか思えないこの道筋が赤山街道です。

<埼玉県による説明板>
Akayama-Kaido-information.jpg
赤山街道に関する説明が記されています。この説明だと、旧浦和市内の赤山街道は『木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って』現在の川口市赤山に繋がるルートとのこと。ここ大間木(=尾間木)もルート上の通過点ということですね。

ちなみに
八丁堤とは、赤山街道と同じく伊奈忠治が築いた人工の堤のことです。灌漑用の貯水沼(見沼の溜め井)を造り出すために築かれました。大間木(=尾間木)を通過した赤山街道は、八丁堤の上を経由して赤山陣屋へ向かう道のりだったようです。

<赤山街道>
Akayama-Kaido-Omiyado-Higashiurawa.jpg
同じ景色も、意味を知ると違ったふうに映りませんかね。当ブログに来て頂いた方と、そんな感覚を共有できれば幸いです。

■訪問:大間木氷川神社
[さいたま市緑区東浦和]5丁目

------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]

<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]


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2021年12月14日

赤山街道の景色(浦和区上木崎・領家)

今回は浦和区の上木崎・領家付近を通過する赤山街道の記録です。

<上木崎大けやき公園>
Akayamakado-Urawa.JPG
右手は公園、歩道と道路、そして住宅。ごく当たり前の景色です

<説明板>
Akayamakado-Kamikizaki-Park.JPG
公園の敷地に説明板が設置されています

<赤山街道>
Akayamakado-Urawa-information.JPG
この道が赤山街道である旨の説明がなされています。赤山陣屋へつながる赤山街道は坂がなく、これが年貢などを運ぶのに都合が良かったようです。地形を吟味して道筋を選び、物資の運搬に無理のない道を作ったわけですね。

Akayama-road-Urawa.JPG
そう言われてみれば平らな道が続いています

<赤山街道のなごり>
Akayamakado-narrow-road.JPG
今では地元の人しか通らない小径ですが、かつては関東の開発において重要な役割を担った社会インフラだったわけですね。

■訪問:
上木崎大けやき公園付近
[さいたま市浦和区領家]7丁目
[  〃 浦和区上木崎]4丁目

■参考
・現地説明板
(浦和区文化の小径づくの推進委員会)



------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]

<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]


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2021年12月13日

六国見(浦和区上木崎)赤山街道と中山道が出会う場所

さいたま市内の「赤山陣屋への道」を訪ねてみた記録です。

<六国見>ろっこくみ
Rokkokumi.JPG
JR与野駅の近くに『中山道と六国見』と題した説明板が設置されています。住所だと浦和区上木崎になります。

<説明板>
Rokkokumi-information.JPG
説明文によれば『中山道と赤山道が交差するこのあたりには立場茶屋があり、文化二年(1805年)刊の「木曽路名所図会」には「富士・浅間・甲斐・武蔵・下野日光・上州伊香保などがあざやかに見えたり」とあり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしの良い名所としてしられ「六国見」と呼ばれていた。』とのこと。『』内は説明板からの抜粋です。浦和区文化の小径づくの推進委員会さん、ありがとうございます。

<説明板拡大>
Kisokaido-Urawa-Eisen-Rokkokumi-Information.JPG
掲載されている英泉の浮世絵を拡大させて頂きました。「木曽街道六十九次 浦和宿」です。浦和の景色で浅間山も描かれています。

確かにこの付近は周辺よりは小高くなっていますが、都市化が進んであまり意識されません。いまでは高いビルに囲まれてお隣の町内も見通せませんが、かつては景勝地だったのでしょう。

さて
説明文では『中山道と赤山道が交差する』とありました。中山道(厳密には旧中山道)は説明板のすぐ後ろ側の道路。これは一目瞭然ですが、赤山道(赤山街道)はどこでしょう。

<脇道が合流>
Rokkokumi-Nakasendo-Akayamakaido.JPG
説明板のすぐ後ろがむかしの中山道。そこへ奥から脇道が合流していますね。赤い進入禁止が目印。あれが昔の赤山道(赤山街道)です。そんなことを知ってしまうと、ありきたりの脇道が違ったふうに映りませんかね。当ブログに来て頂いた方と、そんな感覚を共有できれば幸いです。

■訪問:六国見
中山道と六国見 説明板
[さいたま市浦和区上木崎]1丁目

■参考及び出典
・現地説明板
(浦和区文化の小径づくの推進委員会)


------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]

<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]


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---------追 記---------
追記として「脇道」を進んで行った時の画像を貼っておきます
Akayamakaido-1-entrance.JPG
旧中山道をそれて赤山街道へ

Akayamakaido-2.JPG
左が赤山街道。昔の街道ですからね。道幅はありません

Akayamakaido-3-Kamikizaki-Park.JPG
児童公園(上木崎大けやき公園)

Akayamakaido-4.JPG
公園隅には赤山街道に関する説明板あり

Akayamakaido-5.JPG
しばらく進むと産業道路と合流

Akayamakaido-6-industrial-road.JPG
車の往来が激しい道をそのまま進みます

Akayamakaido-7.JPG
木崎小学校が見えたら産業道路とはお別れ。学校の北側の細い道が赤山街道です

ここからはしばらくは道なりに進むだけです。要所要所で、赤山街道が周囲より高い位置であることを実感します。むかしの街道は低地を避け、できるだけ台地を通過するようにできています。

そして
Akayamakaido-Daito-Children's-Park.JPG
公園に到着。浦和区大東2丁目の大東北児童公園です。古墳のような盛り土が見えますね

Akayamakaido-9-Daitojidokoen.JPG
江戸時代に造られた富士塚です(大東の富士塚)

Akayamakaido-Daito-Fujitsuka.JPG
塚の頂上には庚申塔。普通は道沿いにありますが?経緯はわかりません

Daito-Fujitsuka.JPG
街道沿いで暮らしたひとたちの思いが形として残っています

赤山陣屋への道はまだまだ続きますが、今回はここまでにします。
タグ:赤山街道
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与野を通過する赤山街道(中央区本町東から下落合)

赤山街道がさいたま市内を流れる鴻沼川を渡り、更に東へ向かう道のりを歩いてみました。

<赤山街道>
Akayama-Kaido.JPG
Akayamabashi.JPG
[中央区本町東4丁目]
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、自らの拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。今回の訪問地は、現在のさいたま市西区と川口市赤山をつなぐ「大宮道」と呼ばれる区間の一部で、さいたま市中央区(旧与野市)付近です。赤山橋を渡り、そのまままっすぐ進んで与野中央通りを通過すると、JR埼京線の高架下に到着します。

<埼京線高架下>
Akayama-Kaido-Kitayono.JPG
[中央区上落合2丁目]
北与野駅はもうちょっと北になりますが、ほぼ駅に着いたようなものです。

<与野の歴史>
Yono-History-Kitayono.JPG
与野の歴史に関する説明板が設置されていました。一部ご紹介します。

正和3年(1314)に作られた融通念佛縁起絵巻という絵巻に与野郷とあることから、当時既に与野の名は遠い京都にまで知られていたとあります。そして、与野の『「本町通り」は甲州街道から中山道、日光街道に抜ける要路として旅人や物資の輸送に重要な役割を果たし繁栄しました』とのこと(『』内は転記です)。古くからの賑わいが伝わってきますね。途中省略しますが、かつてあった鴻沼が八代将軍吉宗の新田開発政策により新田が開かれ、鴻沼用水路(鴻沼川)が与野の水田を潤したことも記されています。勉強になりました。

更に東へ向かいます

Akayama-Kaido-Kitayono2.JPG
[中央区下落合4丁目]

Yono-Akayama-Kaido (5).JPG
[中央区下落合4丁目]

Yono-Akayama-Kaido (6).JPG
現在の中山道と赤山街道が交差する地点まできました。更に東へ進みます

Yono-Akayama-Kaido (7).JPG
中山道を横断しながら南(巣鴨・戸田)方面を撮影

Yono-Akayama-Kaido (8).JPG
[中央区下落合3丁目]
道幅が急に狭くなりました。古道らしい雰囲気が漂う道です

Yono-Akayama-Kaido (9).JPG
[中央区下落合3丁目]
(左手は上落合1丁目)

Yono-Akayama-Kaido (10).JPG
[浦和区上木崎1丁目]
上木崎まできました。旧与野市を通過して旧浦和市に入りました

Yono-Akayama-Kaido (11).JPG
赤山街道はこの先で京浜東北線を越える橋を渡り切ったところで旧中山道と合流します。

ということで
赤山街道大宮道のうち、中央区(旧与野市)付近を歩いてみた時の記録でした。

訪問:赤山街道大宮道
さいたま市中央区
本町東4丁目〜下落合3丁目



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赤山橋と石橋供養塔 鴻沼川を渡る赤山街道

赤山街道がさいたま市内を流れる鴻沼川を渡る地点を訪問しました。

<川沿いの石橋供養塔>
Stone-bridge-Memorial-tower-Yono.JPG
今回の訪問地

赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、自らの拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。今回の訪問地は、現在のさいたま市西区と川口市赤山をつなぐ「大宮道」と呼ばれる区間の一部で、台地上の道が川に差し掛かる地点です。

<赤山街道>
Akayama-Kaido-Chuoku.JPG
ここはさいたま市中央区。西区から始まり、大宮区を経由して南下してきた赤山街道が、東に向きを変えて、さいたま新都心方面に向かう通りです

<更に東へ>
Akayama-Kaido.JPG
手前に橋が見えてきました

<鴻沼川>こうぬまがわ
Akayamabashi.JPG
市内を北から南へ向かって流れる鴻沼川です

<赤山橋>
Akayama-Bridge.JPG
赤山街道の橋だから赤山橋。分かり安い

<石碑>
foot-of-bridge.JPG
橋のたもとには石造りの碑が建てられています

<石橋供養塔>
Hashinonagori.JPG
石橋供養塔と記されています。ここにかつて石の橋が架かけられていたということですね。橋の供養塔には何らかの信仰や、道しるべを兼ねたものもありますね。こちらの供養塔は文字が主体で、純粋に橋への思い・感謝などを込めて建てられたもののようです。供養塔には建立の年月日とともに、多くの村の名や個人名が刻まれています。いかに重要で、多くの人に感謝される橋だったかが伝わってきます。


ところで
石橋供養塔が建てられたのは享保11(1726)年とのこと。ほぼ同時期まで、下流には大きな沼が存在していました。沼は徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛によって干拓され、田畑に姿を変えました(享保13年)。赤山街道の石橋がこの付近に架かっていたことに変わりはありませんが、川は現在のような流路ではなく、沼へと注いでいたようです。

干拓された沼の名は鴻沼といいます。これが一筋の流れに変更され、鴻沼川となりました。鴻沼川の上流部分、つまり今回訪問した付近を霧敷川(きりしきがわ)という別名で呼ぶには、そんな歴史の違いがあったわけですね。

ということで
赤山街道が鴻沼川(霧敷川)を渡る地点の橋のご紹介でした。当ブログがきっかけで、石橋供養塔に足を止める人がいたら嬉しいです。


■訪問:赤山橋
 石橋供養塔
[さいたま市本町東] 4丁目
JR北与野駅から約500m

■参考
さいたま市ホームページ
与野郷土資料館展示web解説(その2)

https://www.city.saitama.jp/004/005/004/005/yono/yonokyodo_tenjikaisetsu/p073585.html



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2021年12月12日

伊奈氏の街道を勉強させて頂いた川口市のイベント「“みち”との出会い〜赤山街道〜」

2020年12月12日
川口市立文化財センター分館 郷土資料館で開催されていた「“みち”との出会い〜赤山街道〜」にお邪魔させて頂きました。川口市教育委員会主催のイベントです。
<入口>
Event-Akayamakaido.JPG
新型コロナウィルス対策で手の消毒は勿論、体温検査もしっかり行ってもらいました。

<冊子と地図>
Akayamakaido-map.JPG
入場料は100円です。たった100円で冊子と地図まで頂きました。ありがたいです。

<イベント会場>
Event-Michitonodeai.JPG
会議室の入口のようですね。なかが充実しています。

<展示室>
Michitonodeai.JPG
係りの人のお話では、文書以外は撮影可ということでしたので、まずは全体を撮影。展示物の全てはご紹介できませんが、関東代官の伊奈忠治が拠点とした赤山陣屋、そしてそこに至る道として整備された赤山道赤山街道)をテーマとした『教材』が展示されていました。パネルやジオラマで丁寧な説明がなされており、とても勉強になりました。

<ジオラマ>
Diorama-Michitonodeai.JPG
Diorama-Hatogaya.JPG
城でもそうですが、地図で見れば分かるといっても、立体的なジオラマはやはり実感が湧いていいですね。

<鳩ヶ谷宿と本陣>
Hatogaya-Map.JPG
Honjin-Model.JPG
私は、治水で名を馳せた伊奈忠治と赤山街道を意識して訪問しました。ただ、こういった展示によって日光御成道や宿場にも興味を持ちました。この日の思いが、のちの日光御成道の宿場跡訪問につながっています。

■赤山街道について■
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈氏が、拠点である陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道越谷道千住道の3つに分類されます。このうち大宮道は、現在の川口市の赤山陣屋からさいたま市西区の永田陣屋までを指します。陣屋跡として赤山陣屋も永田陣屋も訪問したことはありますが、それらをつなぐ『みち』を強く意識するに至りました。

伊奈氏は幕領を管轄する関東郡代を代々継承する一族で、未開発地の多い関東のインフラ整備で徳川幕府を下支え続けました。

<イベントのポスター>
Inaway-Akayamakaido.JPG
赤山陣屋を中心に三方へ広がる道。とても素晴らしい企画展でした。

川口市教育委員会さん
そしてこのイベントに関わった全ての皆さん
ありがとうございました。

■企画展
“みち”との出会い〜赤山街道〜
2020年10月20日〜12月20日
※終了しています

■訪問:
川口市立文化財センター分館
郷土資料館
[埼玉県川口市鳩ヶ谷本町]


------■参考画像■-------
(当ブログの過去記事より)
<赤山陣屋跡>
Akayama-Jinya.jpg
[埼玉県川口市赤山]

<永田陣屋跡>
shirononagori289 (3).JPG
[さいたま市西区土屋]


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2021年09月13日

街道沿いの将軍御休所跡(野木町)友沼八幡神社

将軍が日光東照宮参拝時に休憩所とした栃木県野木町の神社を訪問しました。

<友沼八幡神社>ともぬま
Hachiman-Shrine-Gate.JPG
日光街道沿いのこちらの神社です。

<説明板>
Tomonuma-Hachiman.JPG
入口付近に『将軍御休所跡』と題して、詳しい説明が記されています。ありがたいですね。ただちょっと長いので、当ブログ用に要約しながら一部抜粋させて頂きます。

冒頭は徳川家康の亡骸がいったんは駿河の久能山に葬られ、一周忌に日光へと改葬されたことが記されています。その続きとして『東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。』とあります。更に、秀忠から始まる社参が、十二代将軍の家慶の社参まで19回に及んだと記されています。

なるほど
徳川に従う諸大名などに限らず、庶民も参詣した。街道沿いが賑わうわけですね。

興味深いのが将軍ご一行の旅のスケジュール。これについては『四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。』とのこと。

東京から日光までは150q以上あります。日光御成道から始まる日光街道の旅は、3泊4日がスタンダードだったのですね。そして将軍本人の宿泊は岩槻城・古河城・宇都宮城。他に休憩する宿や寺社なども決められており、今回訪問の八幡神社は、将軍が二泊目の古河城を出発して最初に休憩する場所だったようです。

旅と表現してしまいましたが、弥次さん喜多さんの身軽な旅とは異なり、かなり厳格なイベントだったのでしょうね。付き添う人たちの気苦労を思うと、ちょっと複雑な思いがします。あと、おカネもかかりますね。

説明文はまだまだ続きますがこのへんで。野木町教育委員会さん、ありがとうございました。


せっかくですので境内の様子を少しだけ

<二の鳥居>
Next-Gate.JPG

<拝殿>
Tomonuma-Hachiman-Shrine.JPG

<本殿>
Main-Shrine.JPG

そして

<大木と説明板>
Hachiman-Shrine-Keyaki.JPG
大木の前に説明板が設置されています

<説明板>
Explanatory-Text.JPG
ここ友沼八幡神社が将軍御休所であったことと、ケヤキの説明が記されています。推定樹齢550年とのこと。

<大ケヤキ>
Shogun's-rest-area.JPG
大きすぎてちょっと撮影が困難でした

ということで
将軍が古河城を出て次の宿泊先である宇都宮城までの道中で小休止をとった神社のご紹介でした。いまも語り継がれていることが、そのまま将軍の残した足跡ということですね。宿泊場所なら分かりますが、将軍の旅は小休止の場所すらきっちり決められたのですね。付き添った家臣たちの苦労まで考えさせられる訪問となりました。

<説明板の絵図>
Picture.JPG
説明文によると友沼八幡神社は『「日光道中略記」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている』とのこと。眺めの良いところだったようです。


■訪問:友沼八幡神社
(将軍御休所跡)
[栃木県野木町友沼]

■参考及び出典
現地説明板
(野木町教育委員会)



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タグ:日光街道
posted by Isuke at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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