今回は日光街道沿いに設けられた将軍専用の休憩所跡の話です。ただの休憩所ではありません。敷地には堀や土塁を廻らされ、ちょっとした城のような造りだったようです。
<小山御殿跡>おやまごてん
現在は広場として整備され、小山御殿に関する説明板が設置されています。
■日光街道小山宿■おやましゅく
日光街道の小山宿は、日本橋から数えて12番目の宿場です。江戸時代後期には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠が74軒あったとのこと(出典元ːwikipedia)。
日光街道と周辺の主要な街道が交わる小山は、古くから交通の要所であり、宿場も比較的規模の大きな規模した。宿場の本陣とは、大名や幕府の役人など身分が高い人が利用する幕府公認の旅のことですね。これとは別に、宿内には将軍専用の休憩所が設けられていました。これが今回訪問の小山御殿です。
■縁起の良い場所■
小山御殿は二代将軍の徳川秀忠が、1622年に日光社参を行った際に設けられたとされています。小山と言えば、上杉征伐のために会津へ向かう家康が、石田三成挙兵の報告を受け、諸将を集めて軍議(いわゆる小山評定ですね)を開いた場所です。その後の関ヶ原の戦いの結果は言うまでもありません。その起点となった小山評定を吉例として、この地に休憩所が設けられました。
<現地説明板>
左側は地元の豪族・小山氏とその居城の説明。右側が小山御殿の説明になります。『小山評定の吉例にならったもの』と記されています。小山は徳川家にとって縁起の良い場所ということですね。周囲に堀を設け、土塁も二重土塁にするなど、そうとう厳重な警備体制だったようです。
<復元図>
左の土塁の向こう側の小屋は見張り用でしょうか。説明板によれば『16ケ所に御番所が設けられて』いたようですので、その一つですかね。
<土塁>
遺構?と言ってよいか分かりませんが、かつて土塁に囲まれていたことを意識して整備した広場です
<説明板>
別の説明板です。こちらには発掘調査の結果なども記されています。
<航空写真>
調査で解った建物の配置をもとに、屋敷跡がコンクリート舗装されているわけですね。なるほど。ではそういう目で見てみますかね。
屋敷の一番奥へ移動
<将軍用の部屋の跡>
ここに将軍用の部屋があったようです。
<プレート>
畳90畳敷きの建物で、風呂とトイレも併設され、屋根は杮葺きであったようです。
なるほど
建物はありませんが、広さは実感できましたので、あとは勝手に想像させて頂きました。
ここ小山には、古くから城があり、江戸時代初期には家康の重臣である本多正純の居城となっていました。しかし本多正純が宇都宮城へ移ることになり、1619年に廃城。小山御殿が築かれたのはその約3年後です。城が健在であれば、将軍は城に立ち寄ったのかもしれませんね。
<将軍の休憩所>
将軍家の日光社参は、幕府の財政難により1663年以降しばらく途切れることになります。1682年、出番のない小山御殿は管轄している古河藩により解体されました。
■訪問:小山御殿跡
1622年〜1682年
(現況:小山御殿広場)
[栃木県小山市中央町]1-3
■参考及び抜粋
・Wikipedia:2021/9/11
・現地説明板
お城巡りランキング
2021年09月11日
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