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2022年06月30日

梅澤太郎右衛門の墓(久喜市)将軍の渡河を助け、やがて関東郡代の家臣となった男

日光街道で第二代将軍・徳川秀忠の渡河を助け、やがては関東郡代・伊奈忠治の家臣となった男の話です。

その名も
梅澤太郎右衛門

といっても
訪問先で初めて知った名ですので、恒例により現地の説明板を頼りました。
<浄信寺>
Kukishi-Kuruhashi-Josinji.JPG
埼玉県久喜市の浄信寺です。境内に設置してある「梅澤太郎右衛門の墓」に関する説明板で概要を理解しました。
<説明板>
Bunkazai-Umezawa-Tarouemon-no-Haka.JPG
久喜市教育委員会さんの説明を以下に転記させて頂きます。

『梅澤氏の祖先は菅原氏である。その後、北条氏の客臣となり、塚原氏と改め太郎則武と名のった。
小田原城没落後、相模国梅澤村に住み、姓を梅澤氏と改めた。その子太郎右衛門の時、慶弔五年(一六〇〇年)に栗橋(栗餅下)に移住し開墾に従事した。
元和元年(一六二二年)四月、徳川二代将軍秀忠公日光東照宮社参の折、暴風雨のため利根川が満水となり、将軍の渡る船橋が危なくなった。太郎右衛門は人夫を率いて水中に入り、いのちがけでこの橋の安全を守り、災難を救った。将軍はこれを賞して、関東郡代伊奈十郎忠治を通じて貞宗の名刀・金字に日の丸の軍扇及びお墨付をくだされた。この折梅澤氏は、名字、帯刀を許されたという。』


ご先祖は相模国の武士だったようですね。関東覇者だった小田原北条氏が滅びると名を改め、太郎右衛門の代で栗橋へ移り、原野に挑んで耕地の開拓に従事。将軍の渡河に際して、『人夫を率いて水中に入り』とあるので、この時には既にリーダー的な存在だったのでしょう。それにしても、防衛上の理由で利根川に橋がなかったことは承知していましたが、将軍が通る時に船を繋いで橋としたことは初めて知りました。この船橋に、天候に起因して降りかかりそうになった災難を、身を挺して防いだことで、幕臣である伊奈忠治を通じて褒美を授かった。納得です。

文中の貞宗は刀工として名高い正宗の子ですので、さぞ高価なものなのでしょう。まぁこの場合は値段より名誉の問題ですね。

そして、関東郡代の伊奈忠治この人は関八州の幕府直轄領(約30万石)を任された代官です。関東の治水事業と新田開発で幕府の財政を下支えしたことで、後世に語り継がれる存在となりました。説明文には記載がありませんが、久喜市のホームページによれば、梅澤太郎右衛門はやがて伊奈忠治の家臣となり、その子孫は代々栗橋宿の名主を勤めました。伊奈忠治との出会いにより、その子孫も宿場内の指導者的役割を果たしたということですね。

<梅澤太郎右衛門の墓>
Umezawa-Tarouemon-Grave-Stone.JPG
当ブログではなるべく墓石は避けるようにしていますが、久喜市指定の文化財ということで掲載させて頂きます。

ところで
文献などを読んで感じるのは、伊奈忠治の活躍が治水や新田開発だけでなく、かなり広範囲に及んでいるということです。そんなに何でも一人でできるのか?ここからはかなり主観が入りますが、伊奈忠治という人は、それぞれの領域で、人を育てることが上手だったように思えます。なんでも手取り足取り指導するというのではなく、その現場を任せられるようなリーダーを作り上げることが上手かったような印象があります。事情を知る者を抜擢するからこそ、領民からの評判も良かったのだと思っています。

こまかな事情はわかりませんが、梅澤太郎右衛門もそんな伊奈忠治の目にかなった人物だったのではないでしょうか?

ということで
将軍の渡河を助け、やがては関東郡代の家臣となった男の話でした。

最後に簡単ではありますが、梅澤太郎右衛門が建てたとも伝わる浄信寺さんの境内をご紹介して終わりにします。

<山門>
Kurihashi-Josinji-Gate.JPG
左手には八福神の幟が見えます。八福神?久喜市栗橋地区では通常の七福神に吉祥天を加えて八福神と呼びます。ここ浄信寺には寿老人が祀られています。

<境内>
Josinji-Main.JPG
Josinji-Hall.JPG
緑に囲まれた重厚な本堂

<扁額>
Josinji-Hengaku.JPG
無量山帰命院浄信寺と号します

<墓所入口>
Josinji-Cemetery.JPG
梅澤太郎右衛門の墓に関する説明板は墓所の入り口に設置されています

■訪問:浄信寺
(梅澤太郎右衛門の墓)
[埼玉県久喜市栗橋東]3丁目

■参考及び出典
現地説明板(久喜市教育委員会)
久喜市ホームページ
・梅澤太郎右衛門の墓

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi26.html


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深廣寺の六角名号塔(日光街道)栗橋宿の名刹

今回は旧日光街道栗橋宿を訪ねた時に知った深廣寺の話です。

<深廣寺>じんこうじ
Kurihashi-Jinkoji-Hall.JPG
重厚な佇まいです。栗橋宿の開拓に尽力した並木五良平光盛が開基し、無涯閑栄(むがいかんえい)上人が開山しました。

<無涯山>
Jinkoji-Hengaku.JPG
無涯山単信院深廣寺と号する栗橋を代表する寺院です。

さて
歴史ある寺院をこんな拙ブログで解説することはできませんが、誰が見ても驚くであろう石塔に話を絞ってご紹介させて頂きます。

<六角名号塔>
Cultural-property-Jinkoji.JPG
こちらが久喜市の文化財に指定されている六角名号塔

<南無阿弥陀仏>
Cultural-property-Jinkoji-Rokkaku.JPG
南無阿弥陀仏の文字が刻まれています

深廣寺二代目住職の単信(たんしん)上人により建立されました。生ける者が迷いの世界から解放されることを願い、近隣の村々の豊作と繁栄を祈り、数年掛かりで建立した千人供養塔です。高さが約3.6mあるそうです。

言い伝えによれば、単信上人は幕府の許可を得て、実際に石材の産地として知られる伊豆に渡ったそうです。伊豆から内陸地の栗橋までは相当な距離ですが、巨大な石は舟で運ばれ、海を経由して利根川をさかのぼり、栗橋まで運ばれたそうです。これは1654年から1657年頃の話。むかしの日本人は凄いことをしますね。

ということで
栗橋を代表する深廣寺の石塔のご紹介でした。下記に記します久喜市さんのホームページを記しておきますので、ご興味のある方はそちらを参考にして下さい。

Kurihashi-Jinkoji.JPG

■訪問:深廣寺
(六角名号塔)
[埼玉県久喜市栗橋東]3丁目

■参考及び出典
久喜氏ホームページ
>美術広報連載久喜歴史だより>単信上人の祈りが込められた六角名号塔

https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/rekishi33.html
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2022年06月26日

関所番士屋敷跡(日光街道)栗橋関所の番人たち

(栗橋関所址の追記です)
<関所番士屋敷跡>せきしょばんしやしきあと
Sekisyobanshiyashikiato.JPG
Explanation- board-Sekisyobanshiyashikiato.JPG
栗橋関所の番人たちが住んだ屋敷に関する説明板です。文面によれば、関所の番人は4名による交代制であったようです。

栗橋の関は伊奈忠次の管轄でした。関東の治水事業他で徳川幕府を下支えした家康の家臣ですね。のちに老中の管轄下となったあと、忠次の子で、幕府内での役割を継承した伊奈忠治が支配することとなりました。

実は、正式に幕府の「関所」となった時期は不明です。ただこの説明板にもある通り、1624年に関東郡代である伊奈忠治が番人4名を召し抱えたことだけははっきりしています。根拠が明らかなことから、関所創設をこの時と定義する文献も見受けられます。

Kurihashi-Sekisyo-Banshi-Yashikiato.JPG
実際の屋敷跡はここより更に利根川の堤防よりのようですが、この付近であったことは間違いなさそうです。

当時は画像のようなダイナミックな堤防はありません。川に近い番屋敷は何度も水の被害にあったようです。冒頭の説明板から抜粋させて頂くと『各家敷地とも高く盛土』されていたとのこと。屋敷跡はもう残されていませんが、発掘調査で明らかになっています。

伊奈忠治の召し抱えた冨田・新井・佐々木・森の4家から始まり、基本的には家が役割を代々継承しました。江戸時代は長いので交代などもあり、明治になって関所が廃止された時点では、冨田家・島田家・足立家・加藤家が番人を勤めていました。

江戸時代を通じて、日光街道の役割はどんどん大きくなり、人や物資の通行量はあきらかに増えたと思いますが、4名体制は変わらなかったのですね。

仕事が増えたんだから人増やせ!

私ならいいそうですが、言わなかったのでしょうね。それどころか、幕末になって政情が不安定になると、関所番の4家では剣術を習い始める人もいたそうです。己の役割を全うしようという心意気のようなものが伝わってくるようです。

ということで
栗橋関所の番人たちと、その屋敷跡のご紹介でした。わかりやすく番人と言わせて頂きましたが、最後に江戸の北を守った「関所番士」と呼ばせて頂きます。

■訪問:関所番士屋敷跡
(2022年5月現在)
[埼玉県久喜市栗橋北]

■参考
現地説明板(久喜市教育委員会)
久喜市ホームページ
・関所番士と神道無念流

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/dai121kai.html

■関所番士に関するお勧めサイト
久喜市図書館
(久喜市デジタルアーカイブ)
・島田家文書

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1123215100/1123215100200010/ht000010


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栗橋関所址(日光街道)入鉄砲に出女を監視した利根川渡しの関所

日光街道利根川に差し掛かる地点に設けられた関所跡を訪ねました。

<栗橋関所址>
Kurihashi-Sekisho- Monument.JPG
立派な石碑です。

<記念碑と説明板>
Kurihashi-Sekishoato.JPG
説明板によれば、石碑に刻まれた文字は徳川宗家16代当主の徳川家達の書とのこと。関所そのものの姿はもうありませんが、ここ栗橋の地にかつて関所があったなごりです。後ろに見えている堤防の向こう側は利根川です。

栗橋に関所が設けられたのは江戸時代初期。よく「入鉄砲に出女」という言葉を耳にしますが、これは江戸時代の関所の役割を端的に表していると思います。江戸に鉄砲を持ち込まないか、あるいは人質である諸大名の妻子が江戸から国元へ逃げないか。行き交う人を厳重に取り締まりました。

関所というと、税の徴収などもやっているようなイメージがありますが、江戸時代に設けられた関所はあくまで警備が目的。人や馬、運搬される物資を念入りに調べたようです。

<利根川橋>
Tone-River-Bridge.JPG
いまはこの橋で川を渡れますが、防衛の観点から、江戸時代には橋は架けられませんでした

橋がない
船で渡るしかありませんね

日光街道の宿場となった栗橋と対岸の中田(茨城県古河市)の間に渡船場が設けられました。栗橋の関所は渡船場の前に設置されましたので、避けて通るわけにはいきませんね。この渡船場の名から、関所は房川渡中田御関所と呼ばれていました。房川とはこの区間の利根川のことです。


さて
せっかくここまで来たので、宿場跡も散策してきました。その一部をご紹介させて頂きます。

<栗橋宿>くりはしじゅく
kurihashi-syuku.JPG
日光街道栗橋宿。江戸時代以前に北へ向かう主要街道は別ルート(奥州街道)だったので、日光街道の整備とともに成立した(いわば移転してきた)宿場です。日本橋から数えて7番目の宿で、対岸の中田宿と合宿の形態をとっていました(セットで交代交代に役割を果たすという意味です)。

<現在の栗橋>
Kurihashi-Post-Station.JPG
街道が利根川と交差する地点の宿場跡。この通りそのものが宿場町のなごりですね

<ちょっと立ち寄り>
twitter220528-Isuke.jpg
Ishikura-Kurihashi.JPG
こちらはあまりに立派だったので足を止めた石の蔵。本陣跡は工事中で近づけませんでしたが、その近くで良い景色と出会えました。表札からして、栗橋宿の開拓者に名を連ねた方のご子孫かとも思いましたが、あくまで個人宅なのでこのヘンでやめておきます。

<深廣寺>じんこうじ
Old-temple-Kurihashi.JPG
こちらは宿場と深い関りのある深廣寺さん

<無涯山單信院> むがいさんたんしんいん
Kurihashi-Jinkoji.JPG
無涯山単信院深廣寺と号する栗橋を代表する名刹です。小田原北条氏の元家臣で、栗橋宿の開拓に尽力した並木五良平光盛が開基とされています。

<深廣寺六角名号塔>
Cultural-property-Jinkoji.JPG
南無阿弥陀仏と彫られた21基の六角形の石塔。かなり大きいです。石は江戸時代に伊豆から船で運ばれたそうです。久喜市の指定有形文化財です。


<栗橋の町並み>
Post-town-on-Nikkokaido.JPG
関所と宿場があった栗橋。いろんな人がいろんな思いで行き交った通りということですね


ところで
<記念碑の設置場所>
Temporary- Place-Kurihashi-Sekisho.JPG
記念碑そのものは立派ですが、周辺が若干寂しい光景です。これには訳があります。ここは旧栗橋町商工会館跡地で、もともと別のところに設置されていた記念碑が、利根川堤防強化事業の影響でこの地に移されたとのことです(久喜市ホームページより)。ここはいわば仮の場所ということですね(2022年5月現在)。

<碑建立記念写真>
Old-photograph-Kurihashi-Sekisho-Kinenhi.JPG
説明板に掲載されている古い写真。利根川橋が開通した大正13年に碑が建てられたので、その時のものです。関所そのものの遺構が残っているわけではないので、この記念碑が設置される場所が旧跡となります。堤防工事が終了すれば、別な場所に移されることとなりそうですが、とりあえず、旧跡の象徴たる記念碑を訪ねることができたので満足な訪問となりました。


最後に

<関所番士屋敷跡>せきしょばんしやしきあと
Sekisyobanshiyashikiato.JPG
こちらは関所の番人たちが住んだ屋敷跡です。人と物の往来を監視することが仕事と言ってしまえばそれまでですが、栗橋は数ある関所の中でも重要地点です。更に、大名や幕府のお偉いさんの送迎などにも気を使ったことでしょう。屋敷そのものは残っていませんが、この説明板がかつて任務を全うした人たちのなごりとなっています。

ということで
利根川沿いの栗橋関所のご紹介でした。

■訪問:栗橋関所址記念碑
(2022年5月現在)
[埼玉県久喜市栗橋北2丁目]5-19


■参考
現地説明板(久喜市教育委員会)
・栗橋関所址記念碑
・関所番士屋敷跡
久喜市ホームページ
・県指定栗橋関跡

https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/shiseki/kurihashiseki.html


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2022年05月26日

新田義貞の軍勢が通った坂道(府中市)旧鎌倉街道の光明院坂

府中市の古戦場を訪問した際に、こんな坂道と出会いました。

<光明院坂>こうみょういんざか
fuchu-koumyouinzaka.JPG
ごく普通の坂道です。しかし現地に設置されている標識に足が止まりました。

<光明院坂標識>
Sign-koumyouinzaka.JPG
なにか書いてあるな

小さいながらしっかりとした標識です。これが無ければ、素通りしていたと思います。以下に抜粋させて頂きます。

『この坂道は,普通分梅道あるいは鎌倉街道と呼ばれる古街道です。
沿道には浅間神社,八雲神社,光明院といった由緒ある古社寺が点在しています。坂の名も真言宗光明院に由来します。別名を「根っ子坂」ともいわれますが,これは以前道が荒れていたころ,道の両側に木の根がわだかまっていたことによると言われます。
この坂下に広がる平地一帯は,元弘三年(一三三三)五月に新田義貞と北条泰家が合戦した分倍河原の古戦場として有名です。
昭和六十年三月 府中市』


その古戦場へ向かう途中だったので、ちょっと感動しました。よく読み返せば、どこにも『新田義貞が通った坂』とは書いてありません。しかし、新田義貞が北の方から鎌倉街道沿いに進軍してきたことを意識した上で訪問しているので、ここを『通過しないわけない』と勝手に思い込み、ひとりで満足してしまいました。

<光明院山門>
fuchu-koumyouin-temple.JPG
坂の名はこちらの寺院に由来するわけですね。鎌倉時代に北条家の家臣が建立した祈願所に始まる寺院とのこと。本堂は近代的な建物となっていますが、風格のあるこの山門が遠くからも目をひきます。

<梅花山光明院>
fuchu-koumyouin-baikazan.JPG
梅花山と号する真言宗豊山派寺院です

今回出会った道は『陣街道』として江戸名所図会に描かれています。その呼び名は、中世に軍勢が陣立てして通ったことに由来するとのこと。鎌倉街道は主要な街道であるため、名だたる武将が軍を率いて通っても何ら不思議ではありませんが、新田義貞もそのひとりと受け止めることにしました。

ちなみに
鎌倉街道には上道(かみつみち)・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)とそれぞれ呼ばれる3本の道筋があります。今回訪問の分倍河原付近の鎌倉街道は、3本の中では一番西側の上道となります。もともと鎌倉幕府の御家人が、いざという時に鎌倉へ駆けつけるための道。新田義貞も御家人のひとりですが、攻め込むために利用することとなりました。

<台地と低地の境>
koumyouin-zaka-Fuchu.JPG
武蔵野台地と多摩川の氾濫低地の境目に位置する坂道です

ということで
歴史認識に間違い等あるかもしれませんが、現地を訪ね歩いては、勝手に想像している会社員ブログということでご容赦下さい。拙ブログに最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:光明院坂
( 根っ子坂 )
[東京都府中市分梅町]1丁目

■参考
現地標識説明文(府中市)
Wikipedia:2022/5/26
猫の足あと
・梅花山光明院

https://tesshow.jp/tama/fuchukunitachi/temple_vbai_komyo.html



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2022年04月29日

宿場の市の守護神(市神社)日光御成道 鳩ヶ谷宿

日光御成道の宿場だった鳩ヶ谷には市(いち)の神様を祀る祠があります。
<市神社>いちがみしゃ
Guardian-Deity-Ichi.JPG
小さいですが川口市の有形民俗文化財に指定されています。

<市神社の説明板>
Ichigamisya-Hatogaya-Explanation-Board.JPG
鳩ヶ谷宿では毎月三と八がつく日に「市」が開かれていました。その名も三八市(さんぱちいち)。市神社には盛んだった三八市の守り神が祀られています。

Ichigamisya-Hatogaya.JPG
社殿は1838年頃の建造とのこと


<市場杭跡の説明板>いちばくい
Ichigamisya-Information-Statement.JPG
こちらの説明板にも三八市のことが紹介されています

<説明板拡大>
Ichigamisya-Info-photo.JPG
昭和10年頃の市神社とのこと

江戸時代に始まる三八市は、昭和まで続いていたそうです。やがて姿を消しましたが、市神社保存会のご尽力により、こうしてそのなごりを感じることができます。それはそのまま鳩ヶ谷宿の賑いのなごり。昔の人たちの活気に満ちた息づかいまで伝わってくるような気がしました。

■訪問:市神社
[埼玉県川口市鳩ヶ谷本町]2丁目

■参考
・現地説明板
(川口市教育委員会)



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2022年04月25日

鳩ヶ谷宿本陣のなごり(真光寺本堂)

鳩ヶ谷宿の本陣の建物が移築され現存していると聞き訪問してきました。
<真光寺本堂>
Saitama-kawaguchi-Shinkoji-temple.JPG
こちらです。川口市里の真光寺さんの本堂です。

<比較参考>
Honjin-Model.JPG
[撮影:2020年12月]
これは鳩ケ谷の郷土資料館(川口市立文化財センター分館)で撮影した鳩ヶ谷宿本陣の模型です

鳩ヶ谷宿の旧本陣建物は、昭和になって真光寺へ移築され、本堂として再生されたそうです。全国の宿場跡では「本陣跡」と記された標柱や説明板をよくみかけますが、実際の場所から離れたとはいえ、こうしてそのなごりを味わうことができるのは貴重です。本陣は船戸家が務めていたとのこと。鳩ヶ谷宿本陣船戸家のなごりでもあるわけですね

hatogaya-shinkoji.JPG
真光寺さんは龍淵山と号する曹洞宗寺院。本堂が宿場の本陣の移築というのは大変興味深いですが、普通のお寺さんですので、見学には配慮が必要です

temple-gate-shinkoji.JPG
私はこの個性的な門を目印に訪問しました。こちらは閉ざされていますが、入り口は向かって左手の道をすすめばすぐです。

temple-hatogaya-shinkoji.JPG
こちらが正面です

■訪問:真光寺
[埼玉県川口市里]1306
( 旧鳩ヶ谷市 )

■参考
・Wikipedia:2022/4/25
・猫の足あと
真光寺 川口市里にある曹洞宗寺院

https://tesshow.jp/saitama/kawaguchi/temple_hatogaya_shinko.html
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2022年04月23日

鳩ヶ谷宿のなごり(日光御成道)

今回はかつて日光御成道の宿場だった鳩ヶ谷宿のなごりです。

<鳩ヶ谷宿石碑>
Hatogayasyuku-Stone-monument.JPG
かつての鳩ヶ谷宿入口

■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿や川口宿を経て日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。今回ご紹介の鳩ヶ谷もその宿場の一つでした。

■鳩ヶ谷宿■はとがやしゅく
鳩ヶ谷宿は川口宿と大門宿の間に位置する宿場です。川口宿からほぼまっすぐ北へ向かって延びる日光御成道は、冒頭の石碑付近で鳩ヶ谷宿に入ります。
<日光御成道>
Stone-monument-Hatogoya.JPG
ここから北→日光御成道は右手奥へ向かって直進

<保坂家古民家>
Onarimichi-Hatogaya.JPG
しばらく進むと右手に古い造りの建物が現れます。いい感じですね。この建物の脇の道(信号を右折した道)は日光街道の千住宿へつながる古道です。

<千住道>せんじゅみち
senju-michi.JPG
こんな感じです。主要な街道と街道を結ぶ外環道路ですね。いい雰囲気の細い道ですが、今回は鳩ヶ谷宿を訪ねているのでこのまま北へ進みます。


<説明板>
Hatogaya-Direction-Board.JPG
次にこんな説明板を見つけました。進行方向左手です

<白黒写真>
Old-Photo-Hatogaya.JPG
むかしの雰囲気を感じることができる貴重な写真ですね

そして

<御成坂>おなりざか
Hatogaya-shyuku-Onari.JPG
橋が見えてきました。その先はゆるやかな坂道となっています。ここは街道が低地から台地に登るポイントですね。鳩ヶ谷宿は大宮台地の鳩ヶ谷支台と呼ばれる台地上にあります

<吹上橋>ふきあげばし
Hatogaya-shyuku-.JPG
水路に架けられた吹上橋。古い絵図などみると坂下橋という名になっています

<見沼代用水(東縁)>(ひがしべり)
Minumadaiyosui-Hatogaya.JPG
いまでこそ無機質なコンクリ水路ですが、江戸時代に造られた灌漑用水路です。農業用水としてだけでなく、船運としても利用されました。街道と並んで、物資の流通機能が宿場の繁栄に貢献したことは言うまでもありません

<一里塚跡>
Hatogaya- (14).JPG
吹上橋のたもとには一里塚跡の標柱があります。ここに到着するまでの御成道の一里塚は本郷追分(文京区向丘)・西ヶ原(北区西ヶ原)・稲付(北区赤羽西)・元郷(川口市末広)。鳩ヶ谷で5つ目になります。この地点で出発地点からざっと20kmということですね。


<御成坂公園>
Onarizaka-Park.JPG
進行方向左手にこんな区画がありました。時計はからくり時計になっています

<壁画>
Onarizaka-Park-2.JPG
日光御成道だったなごり

<千手院跡>
Hatogaya-Senjuinato.JPG
次にこんな説明板に足が止まりました。ここに千手院という寺院があったようです。昭和45年に『鳩ヶ谷市坂下町』に移転。説明文の一部をそのまま抜粋させて頂くと『山号は鳩井山(はといさん)、宗派は曹洞宗(そうどうしゅう)』『戦国時代の永禄3年(1560)に市内の里にある法性寺(ほうしょうじ)の4世が開山として創建されました。』とのこと。将軍も通る道沿いに、歴史ある寺院があったわけですね。

つづいて

<本陣跡地>
Hatogayasyuku-Honjinato.JPG
ここのはずだが?

左手のオレンジカラーの洋服店さんの付近が本陣跡と聞いていたのですが、特に説明板や標柱といったものはありませんでした。実は鳩ヶ谷を訪問するのは初めてではなく、本陣跡の痕跡を見落としたという思いで再訪したのですが、ちょっと空振りに終わりました。

<参考画像>
Honjin-Model.JPG
[撮影:2020年12月]
これは鳩ケ谷の郷土資料館(川口市立文化財センター分館)で撮影した鳩ヶ谷宿本陣の模型です。他の宿場同様、鳩ヶ谷宿にも本陣と脇本陣がありました。この日は立ち寄れませんでしたが、本陣の建物は鳩ヶ谷駅近くの真光寺に移築され、本堂として使われています。

さて
本陣跡は諦めて更に北へ

<酒屋と蔵>
Hatogaya-Old-Building.JPG
古い建築の『十一屋北西商店』さん。左手は蔵ですね。宿場的な景色です

<高札場跡>
Hatogayasyuku-Direction-Board.JPG
こちらは先ほどの鳩ヶ谷宿本陣の模型を撮影させてもらった郷土資料館のすぐ近く。高札場跡です。

<高札場>こうさつば
Kousatsuba-Photo.JPG
宿場の人通り多いところでよく見かける高札場跡。法令などの重要連絡事項を書き記した木の札を掲示しておく施設です。こんな感じだったようです。

<現在位置>
Hatogayasyuku-Picture.JPG
現在位置が赤で記されています。ここまで、この地図だと右から左方向へ移動してきました。水路を渡り、緩やかな坂を上って本陣を通り過ぎ、ちょうど宿場の真ん中あたりにいることになります。もう少しだけ北に、かつての宿場の繁栄をいまに伝える神社があります。

<市神社>いちがみしゃ
Guardian-Deity-Ichi.JPG
こちらです。鳩ヶ谷宿で毎月三と八がつく日に開かれていた「市」の守護神です。見た目は小さいですが、社殿は1838年頃の建造。川口市の有形民俗文化財に指定されています。

<小谷三志屋敷跡>こだにさんし
Kotani-Sanshi-Yashiki-Ato.JPG
宗教家・小谷三志の屋敷跡。小谷三志は鳩ヶ谷の出身で、宿場の年寄・問屋役を務める一方、富士講の指導者となりました。

<探索終了>
Onarimichi-Hatogaya-Oku.JPG
鳩ヶ谷宿はまだ続きますがこの辺りで探索終了としました

最後に
冒頭の石碑の裏側に備えつけてある説明板をご紹介します

<石碑裏側の説明板>
Hatogaya-Information-Statement.JPG
こちらに『鳩ヶ谷宿案内板の設置にあたり』と題して鳩ヶ谷宿の説明がなされています。全てはご紹介できませんが、一部を下記に抜粋させて頂きます。
『鳩ヶ谷宿は、江戸から四里三十町(約十九km)の距離にあり、その規模は、北から上・中・下に別れた家並みは四町二十間(四七〇m)、天明六年(一七八六)での家数は百九十八軒、人口は八百二十一人程でした。鳩ヶ谷宿は、当時から周辺の商業・交通、そして、文化の中心地でしたが特に、江戸時代中頃から始まる三八市は多くの出店が並び賑わい、市の神を祀る市神社は、今も宿の中心に鎮座し当時の面影を伝えています。
 ここから、五百m程北に進んだ鳩ヶ谷宿の中心地は、今も当時の町割りを多く残していますが、昨今の時流により、商家も、徐々にマンションに変わりつつあります。このような状況に鑑み、当時の様子を今後に伝えようと、鳩ヶ谷宿の案内板を設置いたしました。歴史ある街・鳩ヶ谷の一端に触れていただければ幸いです。』


いいですね!
もはや私の下手な補足説明は不要です。

ということで
鳩ヶ谷の一端に触れただけですが、満足な街探索となりました。

■訪問:鳩ヶ谷地区
[埼玉県川口市鳩ヶ谷本町]他

■参考及び出典
・鳩ヶ谷宿案内板(各種)
・Wikipedia:2022/4/23
・石碑裏側説明板
(鳩ヶ谷市長 木下達則)



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-----------(追 記)-----------
別な日に訪問した時の氷川神社の画像を貼っておきます。御成道からやや西側の高台に鎮座する鳩ケ谷宿の鎮守です。創立は1394年(応永元年)と伝わります

<一ノ鳥居>
Hatogaya-Hikawajinja-Gate.JPG
こちらは高台の麓付近

<ニノ鳥居・三ノ鳥居>
Hatogaya-Hikawajinja-Torii.JPG
高台を登ったところ

<神門・廻廊>
Hatogaya-Hikawajinja-Shinmon.JPG

<拝殿>
Hatogaya-Hikawajinja-Haiden2.JPG

<本殿>
Hatogaya-Hikawajinja-Honden.JPG
鳩ヶ谷宿に限らず、周辺一帯の総鎮守でした
posted by Isuke at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道
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