今回はかつて日光御成道の宿場だった鳩ヶ谷宿のなごりです。
<鳩ヶ谷宿石碑>
かつての鳩ヶ谷宿入口
■日光御成道とは■にっこうおなりみち
日光御成道とは、将軍の日光社参のために整備された街道を指します。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿や川口宿を経て日光街道に合流するまでの2里30町(約48km)の道のりです。今回ご紹介の鳩ヶ谷もその宿場の一つでした。
■鳩ヶ谷宿■はとがやしゅく
鳩ヶ谷宿は川口宿と大門宿の間に位置する宿場です。川口宿からほぼまっすぐ北へ向かって延びる日光御成道は、冒頭の石碑付近で鳩ヶ谷宿に入ります。
<日光御成道>
ここから北→日光御成道は右手奥へ向かって直進
<保坂家古民家>
しばらく進むと右手に古い造りの建物が現れます。いい感じですね。この建物の脇の道(信号を右折した道)は日光街道の千住宿へつながる古道です。
<千住道>せんじゅみち
こんな感じです。主要な街道と街道を結ぶ外環道路ですね。いい雰囲気の細い道ですが、今回は鳩ヶ谷宿を訪ねているのでこのまま北へ進みます。
<説明板>
次にこんな説明板を見つけました。進行方向左手です
<白黒写真>
むかしの雰囲気を感じることができる貴重な写真ですね
そして
<御成坂>おなりざか
橋が見えてきました。その先はゆるやかな坂道となっています。ここは街道が低地から台地に登るポイントですね。鳩ヶ谷宿は大宮台地の鳩ヶ谷支台と呼ばれる台地上にあります
<吹上橋>ふきあげばし
水路に架けられた吹上橋。古い絵図などみると坂下橋という名になっています
<見沼代用水(東縁)>(ひがしべり)
いまでこそ無機質なコンクリ水路ですが、江戸時代に造られた灌漑用水路です。農業用水としてだけでなく、船運としても利用されました。街道と並んで、物資の流通機能が宿場の繁栄に貢献したことは言うまでもありません
<一里塚跡>
吹上橋のたもとには一里塚跡の標柱があります。ここに到着するまでの御成道の一里塚は本郷追分(文京区向丘)・西ヶ原(北区西ヶ原)・稲付(北区赤羽西)・元郷(川口市末広)。鳩ヶ谷で5つ目になります。この地点で出発地点からざっと20kmということですね。
<御成坂公園>
進行方向左手にこんな区画がありました。時計はからくり時計になっています
<壁画>
日光御成道だったなごり
<千手院跡>
次にこんな説明板に足が止まりました。ここに千手院という寺院があったようです。昭和45年に『鳩ヶ谷市坂下町』に移転。説明文の一部をそのまま抜粋させて頂くと『山号は鳩井山(はといさん)、宗派は曹洞宗(そうどうしゅう)』で『戦国時代の永禄3年(1560)に市内の里にある法性寺(ほうしょうじ)の4世が開山として創建されました。』とのこと。将軍も通る道沿いに、歴史ある寺院があったわけですね。
つづいて
<本陣跡地>
ここのはずだが?
左手のオレンジカラーの洋服店さんの付近が本陣跡と聞いていたのですが、特に説明板や標柱といったものはありませんでした。実は鳩ヶ谷を訪問するのは初めてではなく、本陣跡の痕跡を見落としたという思いで再訪したのですが、ちょっと空振りに終わりました。
<参考画像>
[撮影:2020年12月]
これは鳩ケ谷の郷土資料館(川口市立文化財センター分館)で撮影した鳩ヶ谷宿本陣の模型です。他の宿場同様、鳩ヶ谷宿にも本陣と脇本陣がありました。この日は立ち寄れませんでしたが、本陣の建物は鳩ヶ谷駅近くの真光寺に移築され、本堂として使われています。
さて
本陣跡は諦めて更に北へ
<酒屋と蔵>
古い建築の『十一屋北西商店』さん。左手は蔵ですね。宿場的な景色です
<高札場跡>
こちらは先ほどの鳩ヶ谷宿本陣の模型を撮影させてもらった郷土資料館のすぐ近く。高札場跡です。
<高札場>こうさつば
宿場の人通り多いところでよく見かける高札場跡。法令などの重要連絡事項を書き記した木の札を掲示しておく施設です。こんな感じだったようです。
<現在位置>
現在位置が赤で記されています。ここまで、この地図だと右から左方向へ移動してきました。水路を渡り、緩やかな坂を上って本陣を通り過ぎ、ちょうど宿場の真ん中あたりにいることになります。もう少しだけ北に、かつての宿場の繁栄をいまに伝える神社があります。
<市神社>いちがみしゃ
こちらです。鳩ヶ谷宿で毎月三と八がつく日に開かれていた「市」の守護神です。見た目は小さいですが、社殿は1838年頃の建造。川口市の有形民俗文化財に指定されています。
<小谷三志屋敷跡>こだにさんし
宗教家・小谷三志の屋敷跡。小谷三志は鳩ヶ谷の出身で、宿場の年寄・問屋役を務める一方、富士講の指導者となりました。
<探索終了>
鳩ヶ谷宿はまだ続きますがこの辺りで探索終了としました
最後に
冒頭の石碑の裏側に備えつけてある説明板をご紹介します
<石碑裏側の説明板>
こちらに『鳩ヶ谷宿案内板の設置にあたり』と題して鳩ヶ谷宿の説明がなされています。全てはご紹介できませんが、一部を下記に抜粋させて頂きます。
『鳩ヶ谷宿は、江戸から四里三十町(約十九km)の距離にあり、その規模は、北から上・中・下に別れた家並みは四町二十間(四七〇m)、天明六年(一七八六)での家数は百九十八軒、人口は八百二十一人程でした。鳩ヶ谷宿は、当時から周辺の商業・交通、そして、文化の中心地でしたが特に、江戸時代中頃から始まる三八市は多くの出店が並び賑わい、市の神を祀る市神社は、今も宿の中心に鎮座し当時の面影を伝えています。
ここから、五百m程北に進んだ鳩ヶ谷宿の中心地は、今も当時の町割りを多く残していますが、昨今の時流により、商家も、徐々にマンションに変わりつつあります。このような状況に鑑み、当時の様子を今後に伝えようと、鳩ヶ谷宿の案内板を設置いたしました。歴史ある街・鳩ヶ谷の一端に触れていただければ幸いです。』
いいですね!
もはや私の下手な補足説明は不要です。
ということで
鳩ヶ谷の一端に触れただけですが、満足な街探索となりました。
■訪問:鳩ヶ谷地区
[埼玉県川口市鳩ヶ谷本町]他
■参考及び出典
・鳩ヶ谷宿案内板(各種)
・Wikipedia:2022/4/23
・石碑裏側説明板
(鳩ヶ谷市長 木下達則)
お城巡りランキング
-----------(追 記)-----------
別な日に訪問した時の氷川神社の画像を貼っておきます。御成道からやや西側の高台に鎮座する鳩ケ谷宿の鎮守です。創立は1394年(応永元年)と伝わります
<一ノ鳥居>
こちらは高台の麓付近
<ニノ鳥居・三ノ鳥居>
高台を登ったところ
<神門・廻廊>
<拝殿>
<本殿>
鳩ヶ谷宿に限らず、周辺一帯の総鎮守でした
2022年04月23日
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