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2021年07月03日

旧街道沿いの高台(北区中十条)八幡山と若宮八幡神社

今回は北区の清水坂を訪問した時に知った八幡山、そしてそこに鎮座する神社の話です。

<若宮八幡神社>わかみやはちまん
Hachimanyama-Shrine.JPG
つい先ほどまで交通量の多い道にいたので、秘境に足を踏み入れた気分でした。

<八幡山児童遊園>
Children's-park.JPG
場所は清水坂沿いの公園の裏手。高台になっていてます。この公園は崖状の台地を削って造られたそうです。

<階段>
Stairs.JPG
公園の脇の階段です。かつてはこの丘から通り側へと水が湧き出ていたわけですね。そして、それが清水坂の名の由来。麓の街道を行き交う人が、清い水で喉を潤した場所だったのかもしれません(あくまで想像です)。

<説明板>
Shrine-Guide-Plate.JPG
階段を登りきると、とても丁寧な説明板が出迎えてくれました。以下に転記させて頂きます。
『ここは八幡山と呼ばれております。古老から聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(1716-1736)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して、創建したとのことです。(現存の記録は明治18年6月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来地元の有志が代々お祀りをして参りましたが、平成8年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」として、その周辺を含めて、護持、整備を行っております。多くの方々にご賛同戴いて、当会への入会、ご寄付等ご協力下さいますよう、御願い申し上げます。』
八幡山の会さん、ありがとうございます。最後に八幡山の会代表世話人の方と思われるお名前と電話番号が記されていましたが、当ブログがご迷惑にならないよう伏せさせて頂きます。

高台は地元の皆さんから『八幡山』と呼ばれているようです。そしてその頂上には、鶴岡八幡宮から分祀して創建された神社が鎮座している。文中に『それで若宮八幡神社と言います』とありますが、分霊を勧請した社を、本宮に対して若宮と呼んだりしますので、そういう意味ですね。

<鳥居>
Shrine-Gate-Torii.JPG
では失礼致します

<イチョウ>
Big-Tree.JPG
まずは大きくて立派なイチョウ。ご神木でしょうか。北区保護樹木と記されています。指定132号。紅葉の時季はさぞかし見事でしょうね。

<若宮八幡神社本殿>
Main-shrin-Hachiman.JPG
そして八幡神が祀られた本殿です。三方が崖となっているため、まるでこの本殿のためだけに存在する空間のようです。

<境内>
Small-Mountain-Top.JPG
ここは東京都北区の住宅地。街の秘境という感じがしました。

凛とした空気が漂う素敵な場所です。地元民ではありませんが、また是非お邪魔させて頂きたいです。

Two-Gods.JPG
境内の隅の大黒天と恵比寿さんにも会えますしね。

ということで
街道沿いの八幡山を登ったら素敵な神社と出会えたというお話でした。

<清水坂>
Shimizuzaka.JPG
麓は旧岩槻街道、あるいは旧日光御成道と呼ばれる道です。この清水坂を通り過ぎれば、岩淵の宿場(現在の北区岩淵町)は目と鼻の先です。

■訪問:
十条若宮八幡神社

[東京都北区中十条]4丁目

■参考及出典
現地説明板(八幡山の会)


-----------(追 記)-----------

ご紹介した階段を登って更に西へ進むと、広々とした公園に出ます。住所だと中十条のお隣の十条仲原4丁目になります。
<清水坂公園>
Shimizuzaka-Park.JPG
清水坂の名を冠する公園です。といっても、清水坂からちょっと離れています。ちょっとだけ

<湧き水>
Shimizuzaka-Park-Spring- water.JPG
造りは人工的ですがこれは湧水です。訪問した清水坂では、その名の由来となっている湧き水とは出会えませんでしたが、坂の名を冠する公園で出会うことができました。地下水脈のことまでは分かりませんが、何となく満足しました。
posted by Isuke at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2021年06月30日

将軍も通った北区の坂道(清水坂)

今回は東京都北区の坂の話です。

<清水坂>
Shimizu-Slope-plate.JPG
ちょっと光の関係で見えにくいですが清水坂と刻まれています。

<ゆるやかな坂道>
Shimizuzaka.JPG
比較的ゆるやかで長い坂道。かつてはもっと急な坂だったそうです。画面左手は児童公園となっていますが、もともとは崖。そこから水が湧き出ていたことが坂の名の由来です。

ただの坂ではないか?

まぁそうなんですが、この道そのものが深い歴史の刻まれた旧街道。かつて将軍が日光へ向かう時に通った『日光御成道』なのです。

<プレート>
Onarimuchi-plate.JPG
八幡山児童遊園の入り口付近にこの道に関する立派なプレートが設置されています。ちょっと見てみますかね

<現在位置>
Onarimichi-Map.JPG
清水坂が現在位置。You are hereですね。ここから赤羽駅方面へ続く道が、そのままかつての日光御成道ということのようです。地形の高低差でいうと、十条の台地から赤羽西の低地に下り、普門院や稲付城跡のある台地には登らず麓を北上するルートです。同じことを昔の村で言うと、十条村から稲付村を通って赤羽根村方面へ向かう道のりです。そして現在の赤羽駅前を通過した辺りで東側へ右折。少し行って左折して、再び北へ向かう・・・

<日光御成道>にっこうおなりみち
Nikko-Onarimichi.JPG
そして正光寺さん付近を経由して岩淵方面へ。なるほど。日光御成道は岩淵宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿を経て日光街道に出る道です。今回訪問の清水坂は通過点に過ぎませんが、全体が分ると興味が湧いてきますね。

プレートには日光御成道に関する説明がなされていますので、冒頭を抜粋させて頂きます。
『日光御成道は、王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(日光)道中の街道として重要な道でした。特にこの道が五街道についで重要視されていたのは、将軍日光社参の時に将軍一行の通る御成街道であったためでした。』
とのこと。将軍が徳川家康を祀った日光東照宮を参詣するための街道だったということですね。だから『御成道』。以降省略しますが、将軍の行列はとても華やかだった反面、一度社参すると財政を圧迫するほどであったと記されています。また、沿道の名主や村民も、役割を勤めることがかなり負担だったとのこと。一大行事だったわけですね。

ということで
日光御成道の一部である清水坂のご紹介でした。帰路は将軍も通った道を歩いて赤羽駅へ

<普門院>
Temple-along-Onarimichi.JPG
地図にあった普門院さん

そして

<稲付城跡>
Castle-ruins.JPG
こちらは当ブログで何度かご紹介させて頂いている稲付城跡

ともに通りから見える高台に位置しています


最後に
日光御成道は、もともとあった岩槻街道を整備し直したものと言われています。ということは、家康を祀った日光東照宮へ向かう将軍たちのみならず、徳川家康本人も通った道ということになります。何度も通ったと思われますが、一番大掛かりだったのは、会津の上杉討伐に出陣した時ではないでしょうか。

History-culture-walkway.JPG
やがて征夷大将軍となる家康は、どんな思いで清水坂付近を通過したのでしょうね

■訪問:清水坂
(八幡山児童遊園付近)
[東京都北区中十条]4丁目

■参考:現地プレート
「歴史と文化の散歩道」



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posted by Isuke at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2021年06月26日

石畳の下に眠る障子堀(箱根旧街道)

<箱根旧街道>
Hakone-kaido.jpg
箱根旧街道とは小田原から三島にいたる街道。山を含めた箱根八里の道には、石田畳が敷かれ、険しいながら人気の道となっています。

<山中城>
Yamanakajo-shojibori.JPG
その途上に位置する山中城は「障子堀」で有名な城です。かつて豊臣秀吉率いる天下軍の前に立ち塞がった小田原北条氏の城でした。

平成の発掘調査(三島市教育委員会による調査)より、山中城の岱崎出丸付近の石畳の下から、障子堀跡が発見されたそうです。

<岱崎出丸>だいさき
Yamanaka-Castle.jpg
山中城の三の丸より更に外側の位置する曲輪です。

<現地説明板>
shirononagori538.JPG
こちらは城全体の縄張り図

<拡大>
shirononagori538 map.JPG
岱崎出丸は街道を挟んだ外側の防衛施設。北条氏康が豊臣軍に備えて急遽築いたいわば出城のような区画です。山中城の落城は1590年。のちの時代にこの付近の堀が埋め立てられ、街道の一部となったわけですね。

長い道のりの箱根旧街道には、沢山の見どころがありますが、山中城付近を訪れる機会があったら、障子堀のことも思いでてくれたら嬉しいですね。天下軍に立ち向かった北条軍の思いが、いまも地中に眠っています。

Hakone-Cobblestone.jpg

■訪問:箱根旧街道
山 中 城 (三島市山中新田)
岱崎出丸 (函南町桑原)


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posted by Isuke at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2020年07月17日

中山道関元屋のお助け井戸(旧浦和市)震災の避難民の喉を潤した水 

今回の訪問は旧浦和市内の中山道沿い。関元屋さんの井戸の話です。
<関元屋商店>せきもとやしょうてん
sn449 (3)p.jpg
関元屋はお米屋さんです。かつて中山道の宿場町として栄えた浦和には、街道沿いに多くの老舗が軒を連ねていました。関元屋さんもそのひとつで、古き良き中山道沿いのなごりをいまに留めています。屋敷は中山道側より奥に向かって長細い造りになっていて、いかにも街道沿いの商家らしい構造。左手奥に空が見えていますが、実は2011年の震災前には敷地内に同様の建物がありました。関元屋さんの倉庫と思われます。

sn449URAWA (5).jpg
現地の説明文によると、関元屋さんは元々は材木商だったようです。この建物自体は大正時代の建築らしいので、そうとう古いですね。

さて
ご紹介するのはその関元屋さんにいまも形を残すこの井戸です

<井戸>
sn449 (2).jpg
古い建屋に昔の井戸。それだけでいい雰囲気ですが、説明板に心惹かれるものがありました。

<説明板>
sn449 (1).jpg
浦和文化の小径として紹介されています。説明の後半部分だけ抜粋させて頂きます。
『店先の井戸は「お助け井戸」と呼ばれ、関東大震災や東京大空襲で逃げ延びた人々の喉を潤しました』

お助け井戸とはそういうことだったのですね。中山道の宿場でいうと、浦和は板橋・蕨に続いて3番目。東京から遠すぎるということはありません。関東大震災が広範囲に被害をもたらしたことは言うまでもありませんが、東京よりは被害が少ない埼玉へ、中山道や奥州街道などを経由して避難民が移動した話は耳にしたことがあります。大惨事から逃れた人たちが、中山道沿いのこの店で喉を潤したことがあったのですね。

浦和というと平らな土地をイメージする方も多いかもしれませんが、実際には低地と台地が複雑に入り組んでいて、あちらこちらに坂があります。関元屋さんの付近は高台となっており、東京方面からくる場合は、ちょっとした坂道(焼米坂)を上らなければなりません。つまり低地から台地の上へ登る必要があります。長い道のりを歩き、更に坂を上ったところでようやく飲む井戸の水。さぞ喜ばれたことでしょう。

むかしむかし、傷ついたり疲れ切った人たちを癒したであろう井戸。それがいまでも形として残っていることが嬉しかったですね。

■訪問:
関元屋の井戸
( お助け井戸 )
[埼玉県さいたま市浦和区岸町]


-----------(追 記)-----------
この日は地元のお仲間と浦和区を中心に街探索。以下は同じ日に撮影したものです。本日ご紹介の関元屋さんを通過して、中山道を更に北へ向かうと、地元では有名な調神社が見えてきます。

<調神社>つきじんじゃ
sn449URAWA (2).jpg
sn449URAWA (4).jpg
sn449urawa (3).jpg
狛犬ならぬ狛ウサギが出迎えてくれます。

神社の詳細は省略しますが、関元屋さんと同じく台地上です。この付近は大宮台地が南に突き出た部分。浦和の宿場は、低地から高台に上ったところに設けられたわけですね。そんなことを肌で感じるための探索でした。

<低地>
AnkyoJinmei202006 (3).jpg
AnkyoJinmei202006 (2).jpg
AnkyoJinmei202006 (1).jpg
逆に低地の小川や暗渠を訪ねたり

<古道>
sn449urawa (6).jpg
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街道とは一味違う魅力の古道(らしき道)を訪ねたり

<湧き水>
sn449urawa (8).jpg
造成地から水が湧き出ていることに感動したり

ざっとそんな感じの探索でした。

2020年は日本中が遠出を自粛する雰囲気にあります。
我々も地元から出ない方法で休日を楽しみました。

同じくさいたま市在住の方の参考になれば嬉しいです。
タグ:中山道 埼玉
posted by Isuke at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 街道・古道

2020年01月05日

樹齢千年の道しるべ 与野の大カヤ

今回は旧与野市の巨木の話です。

<与野の大カヤ>よののおおかや
shirononagori408 (5).JPG
国の天然記念物に指定されいます。住宅地のこじんまりとした敷地内であることから、全体を撮影するのも一苦労です。

<説明板>
shirononagori408 (6).JPG
高さは21.5mです。根回りは13mもあります。そして推定樹齢1000年。風雪にさらされながら、ずっとこの地で生きてきたわけですね。凄い生命力です。

<妙行寺金毘羅堂>
shirononagori408 (1).JPG
ここは妙行寺金毘羅堂の境内です。

■旅人の道しるべ■
今回訪問の妙行寺金毘羅堂は、むかしなら低湿地がひろがっていたであろうエリアの台地上に位置しています。簡単に言えば目立つ場所です。そこに更に高々とそびえ立つカヤの木。さいたま市のホームページからそのまま転記させて頂くと『旅人のよき道標であったと伝えられています。』とのこと。なんとなく納得できる話です。現地の説明板にも記されていますが、平安時代中期植えられ『室町時代の応永年間(1394年から1427年)には、既に関東随一の巨木として知られいました』とのこと。[情報:さいたま市ホームページ]

長い間、旅人の道しるべだったということですね。

shirononagori408 (2).JPG
周辺は関東平野の低地です。天に伸びた巨木は遥か遠くからも見えたことでしょう

道しるべはただ方角を示すためだけでなく、歩んできた道が間違いでないことを知らせてくれるもの。この巨木を見て、どれだけたくさんの旅人が安堵したしょうか。自分が方向音痴なためか、とても頼もしく感じました。

shirononagori408 (3).JPG
■訪問:与野の大カヤ
(妙行寺金毘羅堂)
[埼玉県さいたま市中央区鈴谷]4
タグ:埼玉
posted by Isuke at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2020年01月04日

江戸へ繋がる塩の道 平井の渡し跡

今回は中川の渡し場の話です。

<平井の渡しの説明板>
shiononagori407 (2).jpg
冒頭だけ抜粋すると『平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。』とのこと。

<江戸名所図会>
shiononagori407 (3).jpg
平井聖天宮(正式名は燈明寺)とともに中川、そして平井の渡しも描かれています。

■平井の渡し■
中川(現在の旧中川)を船で渡るための渡し場です。江戸と下総(千葉県)の行徳を繋ぐ道筋が中川と交差する地点に設けられました。平井の渡しから東南に下り、今井の渡しで江戸川を渡ることで行徳へと繋がっていたようです。 この道筋は行徳道と呼ばれ、人の往来もさることながら、物資輸送の重要なインフラでした。特に江戸初期においては、行徳塩の重要な輸送路だったと考えられています。

■行徳の塩■
行徳は関東屈指の塩の産地。行徳の塩田で作られる塩は行徳塩と呼ばれ、小田原北条氏が関東覇者の時代には既に製塩が行なわれていました。北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は行徳を自身の所領(天領)に組み込みます。当時は当然のようにまだ戦国時代の緊張感が続いています。この雰囲気を背景に、家康は自力で塩を調達できることに拘ったのでしょう。塩は軍用第一の品とまで言っています。新たな居城・江戸城での籠城戦をも想定し、領内での塩の確保のため、行徳の塩業を保護しました。その大切な塩を、江戸まで運ぶ輸送路が平井の渡しを含む行徳道だったわけです。いわば塩の道でもあったわけです。

■塩の道■
海から内陸へ塩が運ばれる道のことを「塩の道」と呼んだりしますね。塩作りを海辺の塩田に頼っていた時代には、海と山を結ぶ塩の道は重要な役割を担っていました。全国各地にあるなかで、有名なところでは新潟の糸魚川と長野の松本をつなぐ千国街道(ちくにかいどう)でしょう。上杉謙信の「敵に塩を送る」は、まさにこの道筋を経由して武田信玄に塩を送った逸話です。『義』を重んじる謙信らしい美談で、好きな逸話です。

逸話と言ってしまってからなんですが、内陸の武田が、駿河の今川と相模の北条の同盟で海側から遮断されていたことは事実です。謙信が塩を送ったことが逸話だとしても、今川・北条が武田にとっての塩の道を断つことはありえなくはない話です。人質として今川で過ごした経験のある徳川家康が、この時期に「塩の道」の大切さを肌で感じたなんてこともありえますよね?更には、家康は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣していますので、兵糧が断たれる北条側の痛みも思い知ったことでしょう。そういう意味で、行徳と江戸を繋ぐ行徳道、そして川を渡るための平井の渡しも、関東へ入ったばかりの家康が強く意識するインフラだったのではないでしょうか?!(ちょっと私個人の主観が入っています)

■その後■
やがて江戸城下には水路が整備され、行徳・江戸間には航路も開かれたそうです。そうなってくると、塩の道も多様化しますね。平井の渡しが、いつくらいまで塩の道として重宝されたのか、ちょっとわかりません。それでも、川がある限り、渡しを経由した人や物資の行き来は続きます。当時はまだ、中川や江戸川に橋を架けることは許されていませんでした。やがて明治になり、渡し場の東側に平井橋が架けられたことで、平井の渡しは役割を終えたそうです。

<現在の様子>
shiononagori407 (1).jpg

現地で出会ったのは、冒頭の説明板と現在の中川だけです。それでも、歴史の一部に触れることができ、更には勝手に想像して楽しむこともできました。塩の道ほかについて、素人の個人的な見解が入っていますので、その点はご了承ください。 ただ、当ブログがヒントになって、似たような感覚で川を眺める人がいたら嬉しいです。

■訪問:平井の渡し跡
[東京都江戸川区平井]
タグ:23区 行徳道
posted by Isuke at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 街道・古道

2019年06月09日

涙橋の先へ 鈴ヶ森刑場跡

品川区東大井の史跡巡りをしていたら、かねてから存在だけは知っていた橋を渡ることになった。今回はそんな内容です。

■涙 橋■ なみだばし
なみだ橋というと荒川区の泪橋が良く知られていますね。そこと同じく、ここでも刑場へ向かう途中に渡る橋が、なみだ橋の名で呼ばれていました。

<涙橋>
sn343 (4).JPG
現在の橋の姿です。

<浜川橋>
sn343 (2).JPG
正式には浜川橋。立会川に架かる橋です。

<立会川>
sn343 (1).JPG
品川区の南部から東京湾へ流れ出ます。

<説明板>
sn343 (3).JPG
慶安4年(1651)にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送され、その時、親族らが密かに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れた。このことから「涙橋」と呼ばれるようになった。そんな説明書きです。

荒川区の場合は、川そのものが埋められてしまったことから橋も存在せず、もはや名が残るだけです。こちらは今でも現役の橋です。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたものだそうです。

さて
刑場跡まで足を延ばすか考えました。あまり気が進まなかったというのが本音です。荒川区の泪橋を訪問した時も、小塚原刑場跡は場所だけ確認して立ち寄りませんでした。霊感とは無縁の男ですが、軽々しく行ってはいけない気がして。

ただまぁ
ここまで来たのだから

大井村の東海道沿いに開設された鈴ヶ森刑場。その名は隣村にあった鈴森八幡宮(現在の磐井神社)に由来するそうです。本来の目的地だった沿岸の史跡を訪ねたあと、現在の東海道をてくてくと歩きました。


■鈴ヶ森刑場跡■ すずがもり
涙橋からすぐ近くと思いきや、予想よりは遠く(600mくらい?)、方向はあっているのかと思い始めた頃、目の前に現れました。

<鈴ヶ森刑場跡>
sn343 (5).JPG
東京都史蹟となっています。車の音が絶え間ない通り沿い。人気も少なく、なにやら神妙な気分にならざるを得ません。

<説明板>
sn343 (7).JPG

<首洗いの井戸>
sn343 (6).JPG
敷地内には処刑時に使用した台石や首洗いの井戸、供養塔などがあります。

ここは東海道で江戸を目指す人たちが必ず通る場所。見せしめ的な意味もあったのでしょうか。天一坊事件の首謀者も、この地で処刑されたとのこと。説明書きに他の名も挙げられていましたが、ひとつひとつの事件に詳しくもない私が名指しするのも気が引けるので、ここまでにしておきます。

罪びとに何らかの刑があるのは今も昔も同じです。こんなブログで、それについてどうこう言うつもりもありません。ただ、どうしても冤罪が含まれていたであろうことを想像してしまい、辛い気持ちになりました。

sn343ad.JPG

去り際に手を合わせざるを得ない。そんな場所でした。


■訪問:鈴ヶ森刑場跡
[東京都品川区南大井]2-5-6


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タグ:23区 東海道
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2018年03月15日

中山道 戸田の渡し (板橋区舟渡)

つわものどもが夢の跡
今回は城跡でも古戦場でもありません。ただ、かつて多くの武士たちの思いが通り過ぎて行ったところです。

■ 板橋区舟渡 ■ふなど
3月としては暖かい日曜日。JR埼京線の浮間舟渡駅で下車して、荒川に掛かる戸田橋の方へ向かいました。荒川の土手が見えたら、もう目的地はすぐそばです。

<石碑>
Todanowatashi (8).JPG
これです。戸田の渡し跡。やや窮屈なところにありますが立派な石碑です。戸田橋から100mくらいですかね。土手の中腹にあります。

今回訪問の場所は、中山道の宿場で言えば蕨宿と板橋宿の間。街道を進むためには、ここで荒川(当時の呼び名だと戸田川)を渡る必要があります。

<説明板>
Todanowatashi (7).JPG
まぁこんな感じですかね

■橋は無いのか?■
それにしても、中山道と言えば五街道の一つ。そんなメジャーな街道なのに橋は無かったのですかね?

<現在の戸田橋>
Todanowatashi (5).JPG
Todanowatashi (2).JPG
現在の様子。戸田橋です。

実は幕府の命により、荒川に橋を架けることは禁止されていました。さすが徳川家。用心深いですね。そう安々とは江戸に入れないということですね。

<川と堤防と橋>
Todanowatashi (4).JPG

かつてはこんな堤防もありません。荒川に面したこの地には、長さ70間・幅8間の「渡し場」が設けられていたそうです(江戸後期の話として)。1間は6尺で約182pですので、かなり大掛かりな施設ですね。

まぁ普通の旅人から大名行列まで、身分やスケールと関係なくここを通過した訳ですから、それなりの施設が必要になりますね。あの加賀百万石・前田家の参勤交代も、ここを通過。前田家は金沢から北国街道を抜け、中山道で江戸を目指しました。同じ板橋区内に前田家の下屋敷跡がありますが、わかる気がします。それにしても、もうその日の『戸田の渡し』は前田家の貸し切り状態だったことでしょう。相手は大名の中の大名。一般人は待つしかありませんね。


■ つわものどもが夢の跡 ■
Todanowatashi (6).JPG
前田家に限らず、諸国の大名行列が通った中山道。『戸田の渡し』はその道中の要所、そして江戸の入口でした。希望に満ち溢れた人。憂鬱な気分の人。いろんな思いが一旦ここに集まり、向こうの岸を目指したわけですね。

■訪問:戸田の渡し石碑
[東京都板橋区舟渡]2
※土手の途中です
タグ:中山道 23区
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