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中山道桶川宿のなごり [2024/03/03 21:55]
今回は中山道の宿場町として栄えた桶川宿の話です。いまも昔の名残を留める宿場跡を訪ねました。
<中山道桶川宿>おけがわじゅく
中山道桶川宿は、日本橋から数えて6番目の宿場です(板橋→蕨→浦和→大宮→上尾→桶川)。日本橋からの距離は10里14町(約40.8 km)。マラソンとほぼ同じくらいですね。日本橋を出た旅人が街道を1日かけて歩き通し、夕方になるのが桶川付近と言われています。よって、宿場町として絶妙の位置にあったことになります。
江戸初期の桶川宿は、宿内の家..
中山道鴻巣宿 将軍ゆかりの宿場町 [2023/12/24 21:00]
<鴻巣本陣跡>こうのすほんじんあと
鴻巣宿の本陣跡です。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて7番目の宿場でした。
WIKIさんによれば、江戸末期(1843年)の調べで、宿場内の人口は2千人以上、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒とのこと。69ある中山道の宿場のなかで、比較的大きい方だったようです。
<旧中山道>
この街並みは宿場として栄えたなごりです。鴻巣宿はもともと北本市にあり、中山道が整備された時に、北本宿を鴻巣宿として移設してできたとのこと。
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板橋宿のなごり(中山道) [2022/11/05 06:30]
中山道六十九次のうち日本橋から数えて最初の宿場である板橋宿を訪ねました。
■ 板橋宿 ■いたばししゅく
板橋宿という呼び名は実は総称で、上宿・中宿・下宿の3つの宿場で構成されていました。かなり大雑把に位置を説明すると、JR板橋駅付近から都営三田線の板橋本町駅付近までがかつての板橋宿です。一番北側が上宿となりますが、これは中山道の経路で最も京に近いからです。
<JR板橋駅西口>
板橋駅の西口駅前広場で撮影。この日のスタート地点です。
<国道..
地名の由来となった橋(板橋)距日本橋二里二十五町三十三間 [2022/11/03 21:00]
<旧中山道の橋>
こちらは旧中山道と石神井川が交差する地点に架けられている橋です。
<板橋>
橋の名は板橋。地名の由来となったとされる橋です。
板橋という地名は古い軍記にも登場していることから、かなり昔からの呼び名と言えます。板の橋?もともとは石神井川を何とか渡れる程度の簡素な橋だったのでしょう。江戸時代になると、板橋は中山道の宿場町として栄えました。その頃には、長さ9間・幅3間(約16m×5m強)の立派な橋が架かけられていたようです。
<石神井..
加賀藩前田家ゆかりの赤門(板橋区)観明寺山門 [2022/11/03 20:47]
赤門と言えば本郷の東京大学。本郷キャンパスの敷地には、かつて加賀藩前田家の上屋敷がありました。赤門はそのなごりです。今回ご紹介の赤門も、加賀藩前田家ゆかりの門です。
<観明寺山門>かんみょうじ
こちらです。場所は板橋区板橋。観明寺さんの山門です。この地はかつ中山道の宿場として栄えました。そして、宿場のすぐお隣が、広大な加賀藩前田家の下屋敷でした。屋敷は明治になって取り壊されましたが、通用門として使われていた門が、ここに移設されたそうです。
ちなみに
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中山道関元屋のお助け井戸(旧浦和市)震災の避難民の喉を潤した水 [2020/07/17 23:41]
今回の訪問は旧浦和市内の中山道沿い。関元屋さんの井戸の話です。
<関元屋商店>せきもとやしょうてん
関元屋はお米屋さんです。かつて中山道の宿場町として栄えた浦和には、街道沿いに多くの老舗が軒を連ねていました。関元屋さんもそのひとつで、古き良き中山道沿いのなごりをいまに留めています。屋敷は中山道側より奥に向かって長細い造りになっていて、いかにも街道沿いの商家らしい構造。左手奥に空が見えていますが、実は2011年の震災前には敷地内に同様の建物がありました。関元屋さんの倉庫..
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