今回は中川の渡し場の話です。
<平井の渡しの説明板>
冒頭だけ抜粋すると『平井の渡しは、行徳道が下平井村で中川を渡る渡船場でした。対岸は葛西川村でした。』とのこと。
<江戸名所図会>
平井聖天宮(正式名は燈明寺)とともに中川、そして平井の渡しも描かれています。
■平井の渡し■
中川(現在の旧中川)を船で渡るための渡し場です。江戸と下総(千葉県)の行徳を繋ぐ道筋が中川と交差する地点に設けられました。平井の渡しから東南に下り、今井の渡しで江戸川を渡ることで行徳へと繋がっていたようです。 この道筋は行徳道と呼ばれ、人の往来もさることながら、物資輸送の重要なインフラでした。特に江戸初期においては、行徳塩の重要な輸送路だったと考えられています。
■行徳の塩■
行徳は関東屈指の塩の産地。行徳の塩田で作られる塩は行徳塩と呼ばれ、小田原北条氏が関東覇者の時代には既に製塩が行なわれていました。北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は行徳を自身の所領(天領)に組み込みます。当時は当然のようにまだ戦国時代の緊張感が続いています。この雰囲気を背景に、家康は自力で塩を調達できることに拘ったのでしょう。塩は軍用第一の品とまで言っています。新たな居城・江戸城での籠城戦をも想定し、領内での塩の確保のため、行徳の塩業を保護しました。その大切な塩を、江戸まで運ぶ輸送路が平井の渡しを含む行徳道だったわけです。いわば塩の道でもあったわけです。
■塩の道■
海から内陸へ塩が運ばれる道のことを「塩の道」と呼んだりしますね。塩作りを海辺の塩田に頼っていた時代には、海と山を結ぶ塩の道は重要な役割を担っていました。全国各地にあるなかで、有名なところでは新潟の糸魚川と長野の松本をつなぐ千国街道(ちくにかいどう)でしょう。上杉謙信の「敵に塩を送る」は、まさにこの道筋を経由して武田信玄に塩を送った逸話です。『義』を重んじる謙信らしい美談で、好きな逸話です。
逸話と言ってしまってからなんですが、内陸の武田が、駿河の今川と相模の北条の同盟で海側から遮断されていたことは事実です。謙信が塩を送ったことが逸話だとしても、今川・北条が武田にとっての塩の道を断つことはありえなくはない話です。人質として今川で過ごした経験のある徳川家康が、この時期に「塩の道」の大切さを肌で感じたなんてこともありえますよね?更には、家康は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣していますので、兵糧が断たれる北条側の痛みも思い知ったことでしょう。そういう意味で、行徳と江戸を繋ぐ行徳道、そして川を渡るための平井の渡しも、関東へ入ったばかりの家康が強く意識するインフラだったのではないでしょうか?!(ちょっと私個人の主観が入っています)
■その後■
やがて江戸城下には水路が整備され、行徳・江戸間には航路も開かれたそうです。そうなってくると、塩の道も多様化しますね。平井の渡しが、いつくらいまで塩の道として重宝されたのか、ちょっとわかりません。それでも、川がある限り、渡しを経由した人や物資の行き来は続きます。当時はまだ、中川や江戸川に橋を架けることは許されていませんでした。やがて明治になり、渡し場の東側に平井橋が架けられたことで、平井の渡しは役割を終えたそうです。
<現在の様子>
現地で出会ったのは、冒頭の説明板と現在の中川だけです。それでも、歴史の一部に触れることができ、更には勝手に想像して楽しむこともできました。塩の道ほかについて、素人の個人的な見解が入っていますので、その点はご了承ください。 ただ、当ブログがヒントになって、似たような感覚で川を眺める人がいたら嬉しいです。
■訪問:平井の渡し跡
[東京都江戸川区平井]
2020年01月04日
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