(栗橋関所址の追記です)
<関所番士屋敷跡>せきしょばんしやしきあと
栗橋関所の番人たちが住んだ屋敷に関する説明板です。文面によれば、関所の番人は4名による交代制であったようです。
栗橋の関は伊奈忠次の管轄でした。関東の治水事業他で徳川幕府を下支えした家康の家臣ですね。のちに老中の管轄下となったあと、忠次の子で、幕府内での役割を継承した伊奈忠治が支配することとなりました。
実は、正式に幕府の「関所」となった時期は不明です。ただこの説明板にもある通り、1624年に関東郡代である伊奈忠治が番人4名を召し抱えたことだけははっきりしています。根拠が明らかなことから、関所創設をこの時と定義する文献も見受けられます。
実際の屋敷跡はここより更に利根川の堤防よりのようですが、この付近であったことは間違いなさそうです。
当時は画像のようなダイナミックな堤防はありません。川に近い番屋敷は何度も水の被害にあったようです。冒頭の説明板から抜粋させて頂くと『各家敷地とも高く盛土』されていたとのこと。屋敷跡はもう残されていませんが、発掘調査で明らかになっています。
伊奈忠治の召し抱えた冨田・新井・佐々木・森の4家から始まり、基本的には家が役割を代々継承しました。江戸時代は長いので交代などもあり、明治になって関所が廃止された時点では、冨田家・島田家・足立家・加藤家が番人を勤めていました。
江戸時代を通じて、日光街道の役割はどんどん大きくなり、人や物資の通行量はあきらかに増えたと思いますが、4名体制は変わらなかったのですね。
仕事が増えたんだから人増やせ!
私ならいいそうですが、言わなかったのでしょうね。それどころか、幕末になって政情が不安定になると、関所番の4家では剣術を習い始める人もいたそうです。己の役割を全うしようという心意気のようなものが伝わってくるようです。
ということで
栗橋関所の番人たちと、その屋敷跡のご紹介でした。わかりやすく番人と言わせて頂きましたが、最後に江戸の北を守った「関所番士」と呼ばせて頂きます。
■訪問:関所番士屋敷跡
(2022年5月現在)
[埼玉県久喜市栗橋北]
■参考
現地説明板(久喜市教育委員会)
久喜市ホームページ
・関所番士と神道無念流
https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/rekishi_dayori/dai121kai.html
■関所番士に関するお勧めサイト
久喜市図書館
(久喜市デジタルアーカイブ)
・島田家文書
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1123215100/1123215100200010/ht000010
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2022年06月26日
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