かつての赤山街道を探索中に立ち寄らせて頂いた附島氷川女体神社について、追記させて頂きます。
<附島氷川女体神社>つきしま
現在の県道103号線に面した高台に鎮座する附島氷川女体神社
<鳥居>
<覆屋と本殿>
小規模な社殿とこじんまりとした境内。覆屋内部の本殿は市指定有形文化財となっています
<奇稲田姫命>くしなだひめ
御祭神は奇稲田姫命。稲田の女神です。ヤマタノオロチ(八岐大蛇)の生贄になるところをスサノオノミコト(素戔嗚尊)に救われ妻となりました。
<氷川女体社御由緒>
以下に転記させて頂きます(『』内)
□ 御縁起(歴史)
『 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。附島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
この附島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、附島村内に与えられたのは寛永六年(一六九二)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。附島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四−七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。』
崖の下は入り江。そんな地形が附島という地名の由来となったのですね。やがて海の水が引いて、残された沼地の南端に位置するこの地には、吉田一族により集落が形成された。人の営みの始まりは吉田家ということですね。氷川女体神社が祀られたのは、見沼溜井が造成された(1629年)以降。水を堰き止める八丁堤が築かれることで水没する三室村内の氷川女体神社が、附島村へと移されたことに始まる。
ちょっと大まかではありますが、そう受けとめさせて頂きました。
<末社>
本殿脇の末社の向こう側は見沼通船堀となっています。
<八丁堤のなごり>
盛られた土は八丁堤のなごり。すなわち、新田開発のために堤を築いた関東郡代・伊奈忠治のなごりです。
■訪問:附島氷川女体神社
(つきしまひかわにょたいじんしゃ)
[埼玉県さいたま市緑区大間木]1522
■参考及び出典
現地説明板(御由緒)
2021年12月25日
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