今回は台地と台地の谷間を通過する赤山街道の話です。
<附島氷川女体神社>つきしまひかわにょたい
盛られた土の上に鎮座する神社です。この日の探索を象徴する景色でした。
■東浦和駅から川口市まで■
この日のスタートは東浦和駅付近の赤山街道。
<東浦和駅前>
向こうへ進むほど谷になっています。赤山街道はここまで台地の上でしたが、この先で低地へ向かいます。むかしは沼あるいは湿地帯だった場所です。どうやって道を通したのでしょうか
<低い場所>
しばらく進むと、進行方向左手にこんな景色がひろがりました。道路よりかなり低くなっています。手前の水路は見沼代用水、奥の竹林の向こう側は見沼通船堀になっています。赤山街道からちょっと逸れますが、戻って立ち寄ってみることにしました。
<見沼代用水>みぬまだいようすい
ここは見沼代用水の西縁
<見沼通船堀>みぬまつうせんぼり
こちらは日本最古の木造の閘門式運河
そして
<説明板>
見沼通船堀公園の説明板です。図解が分かりやすいです
<溜井の時代>徳川家光時代
農業用水の貯水量確保のために、伊奈忠治が築いた見沼溜井です(1629年)。見沼の南端に堤を築き、流入してくる水を堰き止めました。まぁいわばダムですね。堤の長さは約870m(八町)。これにより八丁堤と呼ばれました。
この図からも見てとれますが、見沼は台地と台地の間の谷間です。伊奈忠治は両岸の台地の距離が最も狭くなるところに堤を築きました。もう少し具体的に言うと、複数の支台に分かれている大宮台地のうち、大宮浦和支台(図解の左側)と鳩ヶ谷支台(右側)の間を土の塁でつなぎました。赤山街道は、この区間では堤の上を利用したそうです。つまり、灌漑用水池を作るために築かれた堤は、陣屋へつながる赤山街道の一部でもあったわけです。治水と道の確保のダブルプレーだったわけですね。
<田んぼの時代>徳川吉宗時代
のちの時代に堤は破られ、低地は全て田んぼになりました。中央の川は芝川です。平地を縁取るような水路が見沼代用水の東縁と西縁。そして東西の舟の行き来を可能にしたのが見沼通船堀です。幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛による治水事業です。
そうと分かれば、それらを実感すべく歩くだけです。
<赤山街道>
現在の吉場安行東京線
<堤のなごり>
左手の土を盛ってあるところに鳥居が見えました
<附島氷川女体社>
見沼溜井の造成による水没から逃れるため、三室村から附島村に移ったと伝わります。附島はこの付近のかつての地名です(現住所だと大間木)
<八丁堤のなごり>
八丁堤により水没した神社が今では八丁堤の上に祀られている。この付近には、見沼通船堀公園内を含め、堤のなごりがあちらこちらに残っていますが、ここは最も歴史の深みを感じる場所でした。
<再び赤山街道>
右側がかつての八丁堤の南側
<大間木稲荷社>
街道沿いには神社が多いです。新田開発で移り住んだ人々により創建されました
つづいて
<八丁観音堂>
見沼通船堀の開通と同時期の創建と推定されています
<大聖不動尊>だいしょうふどうそん
八丁観音堂の境内不動堂。武州足立百不動尊霊場20番です。
<赤山街道>
古くからの街道にはありがちなことですが、車がすれ違うにはちょっと道幅が狭いです
<屋敷>
立派な屋敷が見えてきました
<鈴木家住宅>
こちらのお屋敷は、井沢弥惣兵衛のもとで干拓事業に加わり、見沼通船堀完成後は幕府から差配役(船割り役を担う)を任された鈴木家の邸宅です。
<まもなく芝川>
橋が見えました
<芝川と八丁橋>
伊奈忠治が築いた八丁堤が破られ、見沼田んぼの開発が始まったことを象徴する場所です
<説明板>
芝川沿いに八丁堤に関する説明板が設置されていました
さて
更に川口方面へ
<大間木水神社>
こちらも見沼通船堀の開通と同時期の創建と伝わります
更にすすむ
<赤山街道>
取り壊された八丁堤とこの道路の位置が完全に一致しているとは思っていませんが、大筋は同じはず。それを意識をしながら歩き続けました
<鳥居>
また鳥居が見えました
<市境>
どうやら市境まで来たようです。赤山陣屋はまだまだ先ですが、一応この先は川口市です。
<下山口新田稲荷社>
新田開拓に60年を要した江戸小田原町鯉屋藤左衛門の姓「山口」がそのまま地名となっています。難工事が完成した時(1791)に勧請された稲荷社とのこと
<見沼代用水東縁>
稲荷社の東側は見沼代用水の東縁です。西縁から東縁まで歩いたことになります。もう少し歩きたかったです陽が傾いてしまい、この日はここまでとしました。
ということで
陣屋へつながる赤山街道のうち、かつての八丁堤付近を歩いてみたというお話でした。
■参考及び出典
見沼通船堀公園案内板
(さいたま市教育委員会)
神社御由緒
・附島氷川女体神社
・大間木水神社
・下山口新田稲荷社
鈴木家住宅説明板(さいたま市)
八丁堀説明板(さいたま市)
------■赤山街道とは■------
赤山街道とは、徳川幕府から関東の開発を任された伊奈忠治が、拠点である赤山陣屋と現場との往来を円滑にするために設けた道のことです。道筋によって大宮道・越谷道・千住道の3つに分類されます。大宮道は、現在のさいたま市西区の永田陣屋と、川口市の赤山陣屋をつなぐ道を指します。
<永田陣屋跡>
[さいたま市西区土屋]
<赤山陣屋跡>
[埼玉県川口市赤山]
お城巡りランキング
2021年12月25日
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