江戸時代初期に関東郡代・伊奈忠治が赤山領の拠点として築城した赤山陣屋(赤山城)。かつての本丸・二ノ丸付近を中心に土塁や堀が残り、その一部は公園として整備されています。
<東堀跡>
昔はもっと堀も深かったことでしょう
<南堀跡>
あまりに綺麗で城跡だということを忘れそうです
さて
城跡が公園として整備されている例はよくありますが、ここは特に「植木」が目につきませんかかね?
<植木>
こんな場所もあります。刈り込んで鳥をかたどった植木。アヒル?ですかね
これらが赤山陣屋からすぐ近くの安行と関係があるとしたら、なんとなく奥深いものに見えてきませんか?
<説明板>
<四ツ門>
上の説明板の地図に加筆させて頂きました。赤い〇印が陣屋の出入り口で、赤山街道の起着点になります。その一つに安行口があります。千住方面へ向かう赤山街道千住道の起点となる出入り口ですが、陣屋を出発してまず安行を通るからそう呼ばれているのでしょう。その安行、実は昔から植木産業が盛んな地として知られています。
ところ変わって
こちらは安行の古い寺院
<金剛寺参道>
赤山街道千住道沿い、正確には街道からちょっと入ったところにある金剛寺です
<山門>
雰囲気のあるこの茅葺きの山門は、市指定有形文化財です。江戸時代初期の建立で、典型的な江戸初期の四脚門の様式とのこと。この地の歴史がいかに深いか伝わってきます
<鐘楼>
<本堂>
曹洞宗寺院の金剛寺本堂
そして
<埼玉県による説明板>
金剛寺と題しての説明ですが、これを読めば、安行がどのような地であるか、大まかではありますが分かります。下記に抜粋させて頂きます。『』内は原文そのままの転記です。
『金剛寺は、曹洞宗の寺で、明応五年(1496)に中田安斎入道安行が開基したと伝えられ、寺名も安行が金剛経を信奉していたことに由来している。』とのこと。
この中田安斎入道安行の名から、この地は安行と呼ばれるようになりました。生没年を含めて詳細はわかりませんが、この付近を開発して領主となった人物と思われます。地名は「あんぎょう」となりますが、人名の方は「やすゆき」と読みます。
つづてい
『この寺は、かつては僧侶修行道場の格式をもっていたが、現在では「お灸の寺」として広く知られている。
ここの墓地には、「安行苗木開発の祖」として知られている吉田権之丞の墓がある。小松石で作られた舟形の墓石で、棹石の高さ六七・五センチメートル、幅三二センチメートルで中央に観音立像が肉彫され、向って左側に「元禄十六癸未年七月朔日」右側に法名の「蔭清禅定門」と刻まれている。
吉田権之丞の人となりについては、文献等の資料がないのではっきりしないが、言い伝えによると、権之丞は、若い時から草花や盆栽に趣味を持ち、珍しい草木を集めてこの地に栽培したところ、土質・風土が適合し、その成育がよかったので、これらの苗木の育成に当ったという。権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地区で植木業を営んでいる。』
安行苗木開発の祖が紹介されています。植木産業が盛んな地らしいお話ですね。文中にある吉田家のみならず、今でも多くの植木農家が安行及びその周辺に存在しています。
ふたたび赤山陣屋
<城址碑>
説明板では赤山陣屋となっていますが、石碑には赤山城址碑と刻まれています。広大な敷地に土塁や堀を設けた陣屋は、構造だけ見れば城と呼ぶ方がしっくりきますね
伊奈忠治を筆頭に、伊奈一族は治水や新田開発で大きな恩恵を後世に残しました。関東郡代を世襲し続けたことから、かなりの権力者でもありましたが、立ち位置は基本的に農民寄りであり、大事業とは別に領内の特産物推奨なども行っています。安行の植木もそのひとつ。それが今に繋がっているわけです。
やがて12代目当主・忠尊(ただたか)の時に伊奈氏は改易、所領没収となりますが、領内及び関係する村々から幕府に赦免の請願書が提出されたようです。その願いは叶いませんでしたが、いかに庶民から支持されていたかが伝わってきます。
<赤山陣屋堀跡>
幕府の命で破却された伊奈氏の陣屋跡です。特産物となった植木が縁取ることで、かつての堀の跡が保たれている。そう受けとめれば、それはそれで奥深いですね
つわものどもが夢の跡です
■訪問
赤山陣屋(赤山城)
[埼玉県川口市赤山]
金剛寺
[埼玉県川口市安行吉岡] 1361
■参考及び抜粋
現地説明板
・金剛寺境内(埼玉県)
・赤山城址碑付近
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2022年01月02日
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