<東照宮>
私の知る限り、もっとも小規模な東照宮です
<紫の幟>
通りにこの幟がなければ、素通りしてしまったでしょう。
<東照宮入口>
石柱に「東照宮入口」の文字。この奥で間違いなさそうです。ただ、足を踏み入れて良いものか躊躇しました。
<狭い参道>
狭い…本当に通ってよいものか…。奥にも幟が立っていますので、とりあえず進んでいきした。なんとなく速足で…
<境内>
ここは個人宅の敷地?のようにも思えたのですが、説明板が設置してあるのでホッとしました。
<説明板>
鴻巣市教育委員会さんによる説明文です。標題は「東照宮」ではなく「鴻巣御殿跡」です。これはどういうことでしょう?
以下に転記させて頂きます。
『鴻巣御殿は文禄二(一五九三)年、徳川家康によって鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として建てられ、その敷地は一町四反歩(約一・四ヘクタール)に及んだ。その後、秀忠、家光の三代にわたって将軍家の鷹狩の際の休泊所として利用されたが、寛永七(一六三〇)年頃を最後として、以後使用されなくなった。明暦三(一六五七)年の江戸大火後は、その一部を解体して江戸城に運ばれ、天和二(一六八二)年頃には残りの建物も腐朽して倒壊し、元禄四(一六九一)年には御殿地に東照宮を祀り除地とした。その東照宮も明治三十年代に鴻神社に合祀され、旧御殿地はその後民有地となった。』
将軍の鷹狩りの際の休憩所がまずあって、その跡地に東照宮ができたという順番のようです。つまり遡ればここは将軍の休憩所。
鴻巣は中山道の宿場町です。街道を移動した将軍も、この地で休憩したのでしょう。将軍の鷹狩の話はよく耳にしますが、説明文にもある通り、領内の視察を兼ねています。ただの遊びではなく、仕事の一環。環境を整えて、警備もいき届いた御殿で、その疲れを癒したのでしょうね。
<江戸図屏風>
名の通り御殿ですね。警備も厳重だったのでしょう。この絵で分かるだけでも、奥まで進むには三つの門を潜る必要があります。
将軍による鷹狩り兼視察の頻度が減った頃、明暦の大火(1657年)で大打撃を受けた江戸の復興のため、御殿の一部が解体され江戸へ運ばれたようです。なるほど。以前訪問した越谷市の御殿跡でも、似たような話を耳にしました。ここ鴻巣からわざわざ運んででも、建築材を確保する必要があったのですね。
やがて御殿は姿を消し、跡地に東照宮が祀られた。
説明文の続きによれば『最近まで鴻巣御殿跡地の比定地も明らかでなかったが、平成六年の試掘調査によってその一部が確認された。』とのこと。ここが御殿跡と判明したのは平成になってからということですね。
<石碑>
東照宮 敷地奉納記念碑
<石祠>せきし
石の祠と、どなたかのお供え。説明文によれば、東照宮は明治30年代に市内の鴻神社へ合祀されたとのこと。しかし今もこうして人が訪れます。
無宗教のため、私には厳密なことは分かりませんが、いまも人が訪れて、思いを馳せたり願いを込めたりすることに意義があるのだと思います。
<御成町>おなりちょう
将軍が御成りになった町です
■訪問:御成町東照宮
(鴻巣御殿跡)
[埼玉県鴻巣市本町]4丁目8-26
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■参考及び出典
・現地説明板
(鴻巣市教育委員会)
・鴻巣市HP
「鴻巣御殿模型について」
https://www.city.kounosu.saitama.jp/page/2369.html
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