浅野内匠頭が罪人として預けられた田村右京太の屋敷跡を訪ねました。
<浅野内匠頭終焉之地碑>
■場所は新橋■
江戸城松之大廊下での事件のあと、拘束された浅野内匠頭の身柄は一関藩田村家の上屋敷へ移されました。屋敷は芝愛宕下、現在の住所だと港区新橋4丁目付近となります。
<説明板>
藩主は田村建顕(たつあき)。官位として従五位下・右京大夫を任ぜられ、田村右京太の名で通っています。
■慌ただしい一日■
江戸城内での事件は午前。その後すぐ(午後2時頃には)、田村家へのお預けが決まります。田村右京太は急ぎ屋敷に戻り、藩士75名を身柄受け取りのために江戸城へ向かわせました。
夕方には浅野内匠頭が当地へ移送されています。その後間もなく、大目付の庄田安利らが田村家の屋敷に到着し、切腹と浅野家の改易を言い渡しました。
田村家では「しばらく預かる」つもりでいたようです。それが即刻切腹。間もなく、屋敷の庭で切腹が執行されました。
突然の事件、慌ただしいお役目、そして想定外の措置。田村家も大混乱だったことでしょう。
■田村家屋敷跡■
冒頭の石碑は日比谷通り沿いにあります。厳密に言うと、屋敷はもうちょっと奥(つまり現在の日比谷通りに面してはいない区画)のようです。石碑は目立つように、あえて人通りの多い場所に設置したのでしょう。まぁだいたい合ってます。
ところで
この付近で営業している和菓子屋さんがいま人気となっています。
<新正堂>
こちら。新正堂さんです。
<看板>
この看板の通り、このお店の名物は「切腹最中」です。
<切腹最中>
お詫びの品としても人気があります。
新正堂さんは石碑から数百メートルのところ。田村家屋敷があった区画のようです。
■浅野内匠頭終焉の地■
さて
松之大廊下での刃傷から僅か半日で、浅野内匠頭には身分剥奪と所領の没収、切腹が言い渡されました。そして預けられた田村家屋敷でそのまま切腹。心の準備もなく、無念であったこと計り知れません。
<浅野内匠頭>
官名から内匠頭(たくみのかみ)と呼ばれる浅野長矩(ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。この時35歳でした。
沙汰が言い渡された長矩は、幕府の役人に付き添われ、屋敷の庭へと移されました。切腹場は、朝廷から官位を任ぜられた五万石の藩主には似つかわしくない、とても簡素なものでした。お家断絶と切腹を言い渡した大目付ら立会いのもと、長矩は幕府徒目付の磯田武大夫の介錯で果てました。これが1701年4月21日の出来事です。
■浅野内匠頭 辞世の句■
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん
<つわものどもが夢の跡>
私の訪問は3月上旬。終焉之地の石碑の隣で、今年もまた春の花が咲き誇っていました。
■訪問
浅野内匠頭終焉之地碑
[東京都港区新橋]4丁目
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-----------(追 記)-----------
別な日に訪問した新正堂さんの画像を追加で貼っておきます。
<新正堂>
とても美味しかったです。新正堂さん、素敵な商品をありがとうございます。
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