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2019年08月11日

諏訪原城のなごり(島田市)諏訪大明神を祀った城 

つわものどもが夢の跡
駿河と遠江の国境に築かれた城跡を訪ねました。

<諏訪原城土橋跡>
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貴重な遺構。国の史跡となっています

■舌状台地の丘城■
今回訪問の諏訪原城は、台地の突き出た部分の先端に築かれた山城です。いわゆる舌状台地ですので三方に高低差があり、残りの一方に念入りに堀や曲輪を配置する縄張りとなっています。

<絵図>
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[撮影:諏訪原城ビジターセンター]
こんな感じです。

大井川と菊川に挟まれた南北に細長い台地、その南側の先端部を利用した城です。すぐそばには旧東海道が通っていることから、昔から交通の要所だったと思われます。城の三方が断崖で、突きだした台地の端が本丸(主郭)。地続きとなる台地側に細長い二の丸を設けて本丸への直進を拒み、その二の丸への入口(虎口)には念入りに馬出しを設ける。主郭を要に、扇状に広がる縄張りに武田氏らしさが漂います。


■武田氏の城■
城の始まりは武田信玄が築いた砦という説があるものの、定かではありません。1573年に武田勝頼の命で馬場美濃守信房により築かれた。諏訪原城はこの時に始まるという説が有力で、少なくとも本格的な築城はこのタイミングと考えて良さそうです。

築城の目的は、ずばり遠江(徳川領)の攻略です。駿河と遠江はもともとは今川氏の支配下でしたが、その衰退により、駿河は武田遠江は徳川という構図になっていました。信玄亡きあと、武田内部に混乱はあったものの、勝頼は拡大路線を引き継いで遠征を続け、1574年には駿河と遠江の国境に位置する高天神城を攻略しています。これは父・信玄でも成し得なかったこと。そう、武田の後継者・勝頼は結構強いのです!


■築城の名手・馬場信房■ ばばのぶふさ
諏訪原城の築城者とされる馬場信房は、信虎・信玄・勝頼三代に仕えた武田屈指の家臣。当然「武田二十四将」の一人に数えられます。ちょっと大げさですが、幾多の合戦に参加しながら、長篠の戦いで討死するまではかすり傷一つ負わなかったと言われています。
戦場での働きもさることながら、馬場信房は築城の名手という評価も得ています。武田氏の多くの支城が信房により築城されました。ここからは逸話のレベルですが、その馬場信房に築城術を教えたのは山本勘助という話もあります。

■徳川氏の城■
武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しましたが、あの有名な長篠の戦い(1575年)で織田徳川連合軍に大敗し、一気に勢いを失います。徳川家康はこれに乗じて遠江の武田氏拠点を次々攻略し始めます。諏訪原城はひと月あまり抵抗したものの、城主今福浄閑斎(いまふくともきよ)が討死し、落城となりました。徳川側の手に落ちたことで、諏訪原城は逆に勝頼率いる武田軍を牽制する城となりました。

家康は諏訪原城を大改修し、名も牧野城と改め、亡き今川義元の嫡男・氏真を城番として送り込みます。推定ですが、ここで今川氏真を用いたのは、この地がもともと今川氏の所領だったことから、まずは地元民との調和を優先したからではないでしょうか?(繰り返しますが推定です)。次に送り込まれた松平家忠は、城に関わる土木の技能に優れた人物です。整備を重ねる必要があったということでしょうか(これも推定)。いずれにせよ、諏訪原城は徳川氏の遠江攻略の拠点としてしばらく機能し続けます。

しかし1582年、天目山に追い詰められた勝頼の自害により武田氏が滅亡すると、城そのものの存在意義が徐々に薄れ始めます。正確な時期は分かりませんが、豊臣秀吉の命で徳川家康が関東へ転封となった直後、諏訪原城は廃城となったのではないかと考えられています。


■現地訪問■
本丸・二の丸の前に、まずは更に外側の曲輪から
<大手曲輪と外堀>
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城の南側の大手曲輪と南側の外堀です。勿論、昔はもっと深かったわけですね。

<大手曲輪>
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大手とは城の正面のこと。まぁ正門のある方です。ここに位置することから大手曲輪と呼ばれるわけですね。主たる曲輪より更に外側に設けられた外曲輪です。武田勝頼が家康配下の高天神城を攻略すべくこの城を築いた頃は、この外曲輪はありませんでした。徳川氏により増築されたものと考えられます。周辺の茶畑も、かつての大手曲輪です。

<大手曲輪と外堀>
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こちらは大手曲輪の北側の堀です。堀の右手は惣曲輪と呼ばれる区画になります。曲輪と曲輪隔てる堀ということですね。この細長い堀は城の南側を通る旧東海道付近にまで達します。徳川氏による城の拡張は、街道を城内に取り込むためだったのかも知れませんね。

<諏訪原城跡の石碑>
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先ほどの堀を越えた惣曲輪にて撮影。近くに説明板もありました。親切な城跡です。ただの道と思って撮影しませんでしたが、この付近に馬場もあったようです。

<三日月堀と丸馬出>3号堀
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惣曲輪を進むと大きくて独特の堀が目に飛び込んできます。三日月堀ですね。そしてそれとセットの半円形の馬出し。丸馬出です。ここは徳川時代の造成のようですが、堀の特徴としては武田流築城術の特徴です。画像の右手が二の丸。その出入り口を守る馬出ということになります。

<馬出側から撮影>
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ここは「二の曲輪中馬出」と表示されていました。諏訪原城にはたくさん馬出がありますが、大きさで最大級です。このすぐ北側に北馬出しがあります。

<二の丸(二の曲輪)へ>
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橋が用意されていますので、二の丸側へ渡って撮影。左手が先ほどの丸馬出と二の丸を隔てる堀です。

<二の丸の外堀>
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北へ向って撮影。復元された薬医門が見えています。あの付近が北馬出。

<惣曲輪と二の丸の最北端>
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城はここまで。ここより北は断崖です。ちょっと戻って、向う側へ渡ることに。

<北馬出し>
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城の最北端ということになります。

<復元された門>
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馬出と内側を隔てる門がこの付近にあったということですね。現地の状況を感覚で捉えるのに役に立ちました。

<二の丸>
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細長い曲輪です。途中に段差があり、二つの曲輪とみなすこともできます。あるいは段差を帯状にした帯曲輪のような機能も考えられますが、どうなんでしょう?

<二の丸の北側>
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先ほどと似た画像になりますが、こちらは段差を越えた北側。本丸へはこの区画を通らないとたどり着けません。高くしているには訳があるのですね。

<本丸>
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本丸の入り口付近、いわゆる虎口に到着です。

ということで
ここまで大手曲輪・惣曲輪から二の丸経由で本丸までをご紹介しました。一番大きな二の丸の周辺には、まだまだ貴重な遺構がたくさん。

<探索中>
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この日は会社の友人二人と訪問。蚊に備えて暑いなか長袖です(私も)。以下はこんな雰囲気でてくてくと探索した結果を、個別にご紹介させて頂きます。

<大手馬出>
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こちらは城正面の大きな三日月堀と丸馬出です。先ほどご紹介した中馬出同様、二の丸への侵入を拒む防衛施設です。木漏れ日の関係でちょっと見にくい画像ですが、実物は迫力満点の遺構でした。

<南馬出>
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こちらは更に南側の丸馬出。やや小規模になりますが、立派な遺構です。

<東馬出>
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<内堀>
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<断崖の堀>
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<土橋>
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<空堀>
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<井戸>
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そして最後に

<諏訪神社>
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大手馬出の近くには、武田の守護神・諏訪明神が祀られています。この城の名の由来です。結果として武田信玄の後継者となった勝頼ですが、一度は諏訪家に養子として出されていた身。勝頼の「頼」は諏訪氏の通字です。そう思うと感慨深いですね。


■つわものどもが夢の跡■
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遠江攻略を目論む武田勝頼の命で築かれた城です。やがて宿敵の手に渡り、勝頼の死を境に役割を終えました。

------■諏訪原城■------
別 名:牧野城 扇城
築城主:馬場信春
築城年:1573年(天正元)
城 主:今川氏真 松平家忠
廃城年:1592年(天正18)
[ 静岡県島田市金谷 ]


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2019年06月22日

早雲生涯の居城 韮山城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国初期の英雄・北条早雲生涯の居城を訪ねました。

<韮山城> にらやまじょう
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■ 早雲の居城 ■
北条早雲の城として知られる韮山城。その築城年については、あまりはっきりしたことは分っていません。既にあった小規模な城を、この地を領有することになった早雲が、本拠とすべく本格的な改修を行ったと考えられています。早雲が小田原城を攻略して相模へ進出したあとも、韮山城は早雲の本拠であり続けました。

生涯の城

韮山の城は北条早雲にとってそういう城でした。


■ 北条早雲 ■ ほうじょうそううん
北条早雲と言えば、素浪人から大名にのし上がったいわゆる下剋上の典型のようなイメージですね。ただ最近の研究では、名も無き浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた一族の出という説が有力になっています。本名とされる伊勢新九郎、伊勢宗瑞が示す通り、名門とされる伊勢氏の出。早雲も幕府の役人を務め、その頃に名だたる寺で禅を学んだとされています。こういったことは、早雲本人の生き方に影響しただけではなく、子・氏綱や孫・氏康といった戦国に名を残す後継者たちにも影響を及ぼしているのかもしれませんね。ちなみに、北条早雲とはのちの呼び名で、ご本人は北条を名乗っていません。話が長くなるので、今回は北条早雲で通します。

今川家の客将となった早雲は、当主・義忠が戦死するとまだ幼い嫡男・龍王丸をサポートし政敵を排除。この頃、兵を率いて駿河へやってきた太田道灌とも面会しているようです。

龍王丸が氏親を名乗って今川家当主になると、早雲には伊豆に近い興国寺城が与えられます。この城を拠点に、早雲は伊豆へ進出。最大勢力の内紛に乗じて伊豆堀越御所を襲撃し、堀越公方足利政知の子・茶々丸を追い払います。そして焼き払った御所近くの城を改修し、拠点を興国寺城からこの城へ移します。これが今回訪問の韮山城です。

さて
支配者を追い払ったぐらいでは国を治められません。韮山城へ移った早雲は、味方になるなら本領を安堵することを領民に約束し、更に税の負担を軽くし(四公六民)、配下の兵には乱暴狼藉を禁止しました。茶々丸の悪政に苦しんでいた領民は、たちまち早雲に従ったと伝わります。

<城内>
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戦国初期の英雄の城です。北条氏の拠点が小田原に移ったあとも、伊豆の統治、そして武田氏などに対抗するための防御拠点として、韮山城は重要な城でありつづけました。


■ 北条氏規 ■ うじのり
小田原北条氏にとって重要拠点であり続けた韮山城。戦国末期となり、秀吉が20万を越える大軍で北条征伐に乗り出した時には、北条氏規が城を守っていました。氏規は第4代当主・氏政の弟です。織田信雄(信長の次男)率いる4万とも言われる大軍を前に、氏規は10分の1以下の約3千6百の兵で応戦し、韮山城で約百日間も持ちこたえました。

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兄の氏照(八王子城主)や氏邦(鉢形城主)と比較して、武勇ではやや地味な印象の氏規ですが、これは善戦と言って良いのでではないでしょうか。開城を促すべく、天下軍が力攻めをしなかったという説もありますが、百日これに応じなかったことは事実です。

最後は秀吉に派遣された徳川家康の説得により、城を明け渡すことに。この背景には、北条側の主要な城が既に落とされていたこともありますが、城主である氏規本人が、交渉役となった家康と親交があったことも影響したと思われます。氏規は人質として今川家へ送られ駿府で過ごした経験があり、同じく人質であった家康とは古くからの知り合いでした。

そもそもの話として、氏規はこの戦には反対でした。一族存続のため、秀吉へ臣従するべきと主張していたのですが、兄の氏政・氏照らがこれを認めず、巨大な勢力を敵にまわすことになりました。

■ 廃 城 ■
北条氏滅亡後は、家康の家臣・内藤信成が伊豆国1万石を与えられ入城します。その内藤信成が駿府城を与えられ4万石の領主となる時に、韮山城は城としての役割を終えています(1601年)。


■ 現地訪問記 ■
<城池親水公園>
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韮山城は典型的な山城です。麓は公園として整備されていて、ご覧の通り大きな城池となっています。この日は友人の車で訪問。公園の駐車場に車を停めて探索開始です。

<道標>
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韮山城は右手ですね。とても親切な公園なので、道に迷うこともありません。ちなみに、表示のある江川邸は重要文化財にもなっている代官屋敷跡です。今回はあくまで韮山城そのものにテーマを絞っていますが、隣接する山にも複数の砦が築かれたそうです。

<説明板>
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予習しなくてもここでじっくり読めば充分です。

一部だけ抜粋すると『明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。』とのこと。また、城が築かれた山は、通称・龍城山と呼ばれるそうです。左側が城の縄張り図。南北に細長い山の尾根上に、曲輪が直線的に配置されています。

では
説明板の位置から進入しやすい三の丸方面へ向かいます。

<山城>
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本来なら険しい道のりのはずですが

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登城口にはこういった木段が設けられています。草木を掻き分けて登るような覚悟は不要です。

<三の丸の土塁>
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ついに来たかという満足感で一杯でした。三の丸の一部はテニスコートとなっていましたが、それもまた良し。市民から親しまれている城跡ということですね(人影が見えたので撮影せず)。テニスコートの三方を厚みのある土塁が囲んでいる状態です。

<堀切と虎口>
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堀切が見えました。別の曲輪への入口(虎口)です。

<道標>
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この先は三の丸の南側の権現曲輪ということですね

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とりあえず案内に従って権現曲輪方面へ

<熊野神社の鳥居>
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権現曲輪を象徴する景色です。ここが一番心癒されましたかね。奥の土の壁は、二の丸の切岸です。荒々しく閉鎖的な空間ですが、中央に鳥居があるだけで凛とした空気が漂います。

<熊野神社の社殿>
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早雲が城の守り神として祀ったことに始まります。

<高低差>
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高低差を味わいながら下から見上げた社殿。熊野神社付近は、明らかに周辺とは違う雰囲気の区画となっているので、櫓を築くなどしたなごりではないでしょうか。

<上から見た三の丸虎口>
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これはテニスコートがあった三の丸へ向かう木段を、上から撮影したものです。ボッーと歩いていると、この位置から撃たれていたことになりますね。要所要所でそんなことを感じるのも、現地ならではの楽しみです。

次に二の丸・本丸方面へ向かいます。ここから一気に

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堀切の道を進みます

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通り抜けた先に広い区画があるようです

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二の丸跡ですね

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山頂からの眺め

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そして本丸跡です

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本丸より先の尾根づたいに、更に魅力的な遺構が続きます。方角でいうと城の南側です。

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ちょっと構造が分りにくいですが、左手は土塁で、その下は道になっています。むかしどのように使われていたのかが分からず

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人の手による工夫がしっかりと巡らされています。どのように機能していたのか分からず

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この付近は塩曲輪とか煙硝曲輪とか呼ばれるエリア。食糧にせよ火薬にせよ、物資を備蓄していた区画ということでしょうか。私はそう受け止めました。

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障子堀かと思うような構造でしたが、ちょっと分からず。凝った堀が必要な場所とは思えなかったので、勘違いということにしておきます。

経験不足から、南側の区画では遺構の具体的な役割を想像することができませんでした。ただどれも興味深く、今回の訪問で最も時間を割きました。

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切り立った崖の上に設けられた細長い区画の探索もここまでです。

最後は山の麓へ

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この窪みは船の利用と関係しているのでしょうかね

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この付近まで湿地が迫っていた。そんな雰囲気が漂いますが、あくまで個人の見解です。

ちょっと駆け足になりましたが、城内はだいたいこんな感じです。


■ つわものどもが夢の跡 ■
ネズミが2本の大杉を食い倒し、のちに虎となる。
これは早雲が見た夢の話です。ネズミは子年生まれの自分であり、大きな2本の杉は、即ち当時関東で勢力を誇っていた山内と扇谷の両上杉氏のこと。早雲はこの夢をきっかけに関東進出を決意しました。やがて息子の氏綱が関東で勢力拡大、そして孫の氏康が両上杉氏を実質的な滅亡にまで追い込みました。よく二代目はダメという話を耳にしますが、逆に二代三代とますます拡大していった北条氏。代々受け継がれたのは、出来上がってしまった地位やら富ではなく、未完のままの夢だったのではないでしょうか。

夢の結末を知ることなく、早雲は韮山城で没しました。

<つわものどもが夢の跡>
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--------■ 韮山城 ■--------
別 名:龍城
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
改修者:北条早雲
城 主:北条早雲 北条氏規
廃城年:1601年(慶長1)
[静岡県伊豆の国市韮山]


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2018年10月27日

早雲始まりの城 興国寺城のなごり

つわものどもが夢の跡
北条早雲の最初の居城として知られる沼津市の城跡を訪ねました。

<興国寺城>
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北条早雲はのちに関東覇者となる小田原北条氏の祖。韮山城を拠点としたことで知られていますが、最初の城はここ興国寺城です。当時の名は伊勢新九郎盛時。北条早雲は後世の人による呼び名です。

■ 興国寺城 ■ こうこくじじょう
国の史跡に指定されています。山の麓に位置し、低湿地に向かって半島状に突き出した台地上に築かれました。城の東西は谷、南方は低湿地という天然の地形を上手く活かした縄張りです。

先述の通り、北条早雲が旗揚げした城として有名ですが、ここ沼津はそもそも戦国時代の激戦区であり、北条氏のほかに今川氏武田氏、そして徳川氏とも関わりのある城です。東海道に続く竹田道と根方街道が交差する交通の要所。重要拠点であり続けたわけですね。

■ 築 城 ■
築城の時期は不明です。1487年頃の今川家の家督争いで、今川氏親を助けた北条早雲が富士郡に所領を与えられ、この城に入ったということですから、その時には既に興国寺城は存在していたわけですね(早雲が築城者ではない)。この地にはもともと興国寺という寺があり、寺の移転後に城が築かれました。


■ 現地訪問 ■
低地から山に向かって曲輪が配置された連郭式の山城です。南側の低地から探索を開始しました。

<平地>
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昔は湿地だったと思われる平地

<平地との高低差>
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この高低差が城の始まり。奥へ進むほど高くなっていきます。

<三の丸から二の丸>
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手前が三の丸。奥に向かって二の丸、本丸と続きます。曲輪同士の高低差はあまりなく、緩やかな山の裾野を平らに造成して築いたようですね。奥がこの城の見どころですが、当初城が築かれたのはこの三の丸付近(16世紀半ば頃)で、奥へ向かって拡張していったようです。湿地帯の微高地を利用した小規模な城から始まったわけですね。

<本丸>
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一番広い曲輪です。奥が行き止まりになっていますね。山の一部?と見間違いますよね。あれがこの城の最大の特徴と言えるでしょう。

<本丸の北側の土塁>
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圧倒的な迫力の「土塁」です。

当然登りますが、その前に土塁手前(つまり本丸の奥)の神社へ

<穂見神社> ほみじんじゃ
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穂見神社です。創建は1857年。安政の大地震による津波の影響(塩害)で凶作が続き、この地に農業神を祀るに至ったようです(現在の山梨県南アルプス市の穂見神社から分祀)。
右手には北条早雲、そして家康の家臣で駿河国興国寺藩主となった天野康景の碑があります。

<幟と説明板>
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2017年に続日本100名城に選定されています。名城スタンブラリーの幟が風になびいていました。左手は説明板。すぐ裏は土塁。

<説明文>
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戦国大名北条早雲が初めて城主となった城・・・

<北条早雲石碑>
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説明文にもありますが、ここがあの北条早雲の旗揚げの場所かと思うと、何とも感慨深いですね。初代城主と彫られてますが、どうなんでしょうか。まぁそこはあまりこだわりません。早雲は今川氏の後継者をめぐる対立を解決し、領地を与えられてこの城に入りました。やがて堀越公方家(足利茶々丸)を倒し、韮山城を築城して伊豆を制覇。小田原、三浦半島へ勢力を拡大しました。

さて、いよいよ土塁の探索です。

<土塁の上の道標>
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先ほど神社の上が天守台。そして土塁の向こう側は巨大な空堀となっています。

<土塁の上から撮影>
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下に見えるのは先ほどの神社。高さもあり急角度です。

<土塁上から見た本丸>
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凄い眺め

<堀側を撮影>
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深い・・・

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急勾配・・・

ではその堀へ降りてみますかね

<大空堀の中>
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見事過ぎる大空堀。美しさすら感じます。画像だと普通の堀に見えてしまいますが、かなりの深さです。

<人と比較>
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ちょっとスケールが伝わらないので友人に登場してもらいます。後ろ姿だから勘弁ね。

<人と比較2>
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先を行く友人は右折、北の丸を目指して再び登り始めました。手前は振り返った私です。別の友人が撮影してくれました。この堀がどれだけ深いか、分って頂けると思います。

<大空堀の底>
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そろそろ出口へ

<堀の途切れるところ>
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構造的に、普段は城の出入り口しても使用されていたのではないかと感じましたが、あくまで個人の感想です。右手に石垣のようなものが映っていますが、そういう地層と考えた方が良さそうです。

<出口>
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出ました。かつては湿地だったと思われる低地です。

それにしても凄い土塁と空堀でした。こんな莫大な土を全部積み上げたのか?詳細不明ですが、山の麓に位置していることから、もともとの不規則な傾斜地を利用し、本丸側と堀側の両方を削り、その土も盛ったと想像する方が現実的なように思います(これも個人意見です)。


■ 江戸初期まで続く城 ■
繰り返しになりますが、この地は有力な戦国大名がしのぎを削った場所。興国寺城の主は、今川・北条・武田・徳川といった具合に目まぐるしく変わりました。

北条氏の拠点が小田原に移っていた頃、興国寺城は再び今川氏配下の城になっています。その今川氏が桶狭間の戦いで敗れると、今度は駿河に侵攻した武田氏の城となりました。これを小田原の北条氏が奪回。しかし武田氏と北条氏はのちに和議を結びますので、興国寺城はまた武田氏の配下となります。この時は、武田一門の穴山梅雪の家臣・保坂掃部介が城主として興国寺城に入りました。その武田氏が滅ぶと、興国寺城は徳川の配下に。そして関ヶ原の戦いのあとは、家康の家臣である天野康景が城主となりました。

かなり省略しましたが、大筋はこんな感じです。諸説あるのを承知でまとめてしまいました。お許し下さい。


■ 最後の城主 ■
天野康景は三河の奉行として徳川家に貢献したのち、1万石を与えられて興国寺藩主となりました。農政や治水工事に尽力する優秀な藩主であったようですが、領内での揉め事の裁定を巡って失脚。蓄えていた資材を盗もうとした天領の農民を、自藩の足軽が斬ってしまい、この者を幕府に引き渡すことを拒否して出奔したそうです。

興国寺城の最後の城主、なんとも立派な方ではないですか!話の筋を重んじる方だったようですね。それにしても、三河時代からの忠義の武士にこんな思いをさせてしまっては、団結力の強い徳川家臣団の絆にひびが入ったりしないのですかね?

康景が没したあとの話になりますが、息子の康宗は赦免され、天野氏は旗本として存続します。ということで、ちょっとだけ救われる話で納まっています。


■ 廃 城 ■
天野康景の出奔が1607年(慶長12年)の出来事。このタイミングで興国寺城は廃城となりました。北条早雲がこの城に入ってから、百年以上あとの話です。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori278 (28).JPG
この城は早雲始まりの城です。まずそれだけで満足。そして巨大な土塁は早雲より後の時代のものと思われますが、これはこれで純粋に城として見事。ほれぼれする遺構でした。

来て良かった。

心からそう思える城跡でした。

--------■ 興国寺城 ■--------
別 名:根古屋城
築城年:不明(15世紀後期)
築城者:不明
城 主:北条氏 武田氏
    松平氏 他
廃 城:1607年(慶長12)
[ 静岡県沼津市根古屋 ]


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2018年10月21日

武田勝頼は弱くない 城跡巡りで感じること

(蒲原城訪問の追記です)

<蒲原城北曲輪>かんばらじょう
shirononagori275 (28).JPG

今回訪問の蒲原城跡は、ほんとうにいろんなドラマのあった山城です。今川の城であり、北条の城でもあり、武田の城でもあります。こんな拙ブログではとてもその全てご紹介できませんが、訪問してみて、かなり個人的な思い入れになりますが、城を攻略した武田勝頼のことが頭を離れません。

<険しい山城>
shirononagori275 (35).JPG
1569年、勝頼は北条新三郎が立て籠もるこの山城を攻略します。

蒲原城の要害性を見極めた勝頼は、力攻めを避けます。城を落とせても、自軍が痛むことが得策でないことを承知しているからですね。勝頼は兵の一部を率いて城の前を素通り。これを見た北条側は、武田勝頼を討ち取るチャンスとみて、城門を開いて飛び出します。すると、この時をじっと待っていた残りの武田兵が素早く動き出し、更に勝頼率いる兵も城に押し寄せ、蒲原城は落城となりました。
 
堅城に籠城する敵を、知略で落とした勝頼。素晴らしいですね。

他の城跡巡りでも時々思うのですが、武田勝頼という武将は、とても優れた人物なのではないでしょうか。あの武田信玄と比較されるので、どうしても見劣りし、世間一般でもあまり強いイメージがありません。むしろ低く見られる…

戦歴をひとつひとつ見みれば、決して弱くなんかないのです!むしろ賢く勇敢な戦国武将!甲斐源氏に相応しい武田家第20代当主!第19代の信玄の輝きがまぶし過ぎるだけなのです。

shirononagori275 (11).JPG

勝頼は生い立ちからして苦労の人

挙げ句の果てに、信玄が残した無理難題を引き受けた男

・・・なんですがね


駿府の城の追記なので、今回はここまでにします。
個人のつぶやきにお付き合い頂き、ありがとうございました。

■訪問:蒲原城
[静岡県静岡市清水区蒲原城山]


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posted by Isuke at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

駿河激戦の山城 蒲原城のなごり

つわものどもが夢の跡
かつて駿河にあった激戦の山城を訪ねました。

<蒲原城跡>かんばらじょう
shirononagori275 (19).JPG

■ 今川氏の重要拠点 ■
築城時期は明らかではありませんが、今川氏によって、南北朝時代に築かれたのではないかと考えられています。戦国時代になると、今川氏の家臣にして一族でもある蒲原氏が守る拠点となっていました。位置的に今川領の東側に睨みを利かす城ということですかね。今川氏にとっての重要拠点であり続けました。

shirononagori275 (18).JPG


■ 今川氏の衰退 ■
1560年の桶狭間の戦い。超有名な戦いですね。織田信長が、たった数千の兵で今川の大軍を破った戦いです。この敗戦を機に、名門・今川氏の力はあっという間に衰退しました。今川領はどうなってしまうのでしょうか?

ここで、今川氏とは同盟関係にあった小田原の北条氏が援軍として駿河に進出。今回訪問の蒲原城は、実質北条氏配下の城となりました。


■ 今川領分割案 ■
崩壊しそうな今川を支援する北条。同盟国を守る「義」ともとれますが、甲斐の武田氏が出てくると厄介という事情もありますね。かといって駿河だけに拘るわけにもいきません。北条氏は関東でもライバルと戦わなければなりません。戦国時代はホント大変ですね。

この局面で、武田信玄は北条側に対し今川領の分割を提案します。

つまり
まぁ互いに争うより半分ずつ分け合いましょう
ということですね

相手にも利益があり、己も利益を得ようという交渉ですから、いわゆるWin-Winの提案。ただ北条側はこれを拒否しました。そう、この提案では今川氏が置き去りになっていますよね。北条氏はこれを受け入れませんでした。

Win-Winはよく使われる言葉ですが、もともと経営学用語。経済では済まない、人としての何かがあるということですね。最後の最後に、北条氏はその何かを優先した。こういう解釈、私は好きですね。

shirononagori275 (23).JPG


■ 武田の駿河侵攻 ■
武田軍の進攻が始まります。今回訪問の蒲原城は重要拠点。当然戦乱に巻き込まれます。1569年、武田勝頼が率いる軍に攻撃されて落城。この時の城主は北条一族の新三郎。あの北条早雲の孫です。配下の兵約7百人とともに全滅だったと伝わります。

蒲原城は武田氏の支城となりました。


■ 孤立する武田 ■
蒲原城が武田配下になった4年後(1573年)、武田信玄が他界します。これは一大事。そして1575年の長篠の戦いで、当主の座を継いだ武田勝頼の軍は、織田信長・徳川家康連合軍に大敗。一般的に、ここで既に勝負あったかのようなイメージですよね。しかし勝頼は、その後も何とか生き残る道を画策。1577年には北条氏政の妹を継室に迎えて同盟を強化します。

その翌年、今度は越後の上杉謙信が亡くなります。これは直接関係ないようで、実はその後の運命を大きく左右しました。勝頼は上杉の後継者となる景勝と和睦(甲越同盟)。景勝と後継者争いをした景虎は北条出身ですので、北条氏から同盟を破棄されることに繋がりました。北条氏は織田・徳川と手を組みます。これにより、武田の立場はますます苦しくなりました。


■ 廃城 ■
しばらく武田の支配だった蒲原城。織田・徳川連合軍による武田領侵攻が始まると、徳川軍に攻められ落城(1582年)。後の小田原征伐の時(1590年)に徳川軍が陣を張った実績がありますが、実質はこの時に廃城となっていたようです。


■ 現地訪問■
城跡巡りはほぼ一人ですが、この日は久しぶりに会社の仲間2人とともに探索。現地まで車で送ってもらい、ちょっと楽させて頂きました。

<駐車場>
SN Kanbarajo P.JPG
山を登る途中に駐車場があります。麓から歩いた方が険しさを実感できますが、他の城も行く予定なので、この位置から登ることにしました。向かい側にはトイレもあります。右手の小さな建物です。

<相棒>
shirononagori275 (36).JPG
この日お世話になった車と携帯で各々情報を確認する二人。イケメンですが、プラプラ遊んでる様子が勤め先で広まると面倒なので、顔は隠させて頂きました。車のナンバーも。

<案内板>
shirononagori275 (1).JPG
駐車場から尾根道を進んで行くと、山城への侵入口付近に案内板があります。

<蒲原城址鳥観図>
shirononagori275 (3).JPG
丘陵地帯に位置しますが、蒲原城が築かれたのは独立峰。典型的な山城です。山の標高は約150m。手前はもう海ですから、比高もそんな感じでしょう。本丸(主郭)は山頂。まぁ基本ですね。南北に長い区画となっています。その北東側に堀が設けられ、その先がまた曲輪。他にも西側から南側にかけては土塁や切岸などなど。本丸から外側へ向かって、高低差を意識した城の仕掛けが散りばめられています。これら全ては無理ですが、その一部を探索する。今回はそんな感じですね。

<険しい>
shirononagori275 (6).JPG

<良く見えないけど堀>
shirononagori275 (4).JPG
現在は公園ですが、迫力満点で「城のなごり」が漂います。ただもうちょっとだけ草が刈ってあると助かりますね。

<山登道>
shirononagori275 (7).JPG
道は確保されていますので、草を掻き分けるといったことなく登れます。

<遺構の中>
shirononagori275 (8).JPG
お仲間二人が草木に覆われた斜面に何か見つけたようです。注意深く見れば、あちらこちらで城の痕跡に気付きます。

<大空堀>
shirononagori275 (5).JPG
ところどころこんな案内があります。この下は空堀。ちょっと撮影困難ですが、現地では谷になっていることが実感できます。ちょっと深すぎるので、もともとの地形のような気もしましたが・・・(個人の感覚)

<遺構と夏草>
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「夏草や兵どもが夢の跡」などという情緒に浸る余裕もなく、てくてくと進んでいきましたが・・・

shirononagori275 (15).JPG
ちょっと行く手を阻まれました。凄い草の量!ただこれは脇道(正確には細長い曲輪)。頂上までのコースは、ちゃんと確保されていますので、訪問される方はご安心を。あと、他の方のブログを見ると、もうちょっと草が刈ってあります。タイミングが悪かったかもしれません。

shirononagori275 (10).JPG
傾斜と草の具合で、この上は曲輪だと分ります。ここから登るのは得策でないと判断し、一旦通りすぎることに。ただ、結局は後でチャレンジすることに。

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押し寄せる自然

<説明板:布橋桜>
shirononagori275 (14).JPG
仲間の一人が佇んでいましたが、周辺に木々が多く、私はどの木を指しているのか確認しないまま通り過ぎてしまいました。ちゃんと読み返すと、深い謂れがあるようです。

無茶なことをしなくても、登山道から遺構を確認できます。

shirononagori275 (16).JPG

shirononagori275 (13).JPG

shirononagori275 (12).JPG

<駿河湾>
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まもなく頂上というところで撮影。右手に見える海に突き出た陸地が、東海道の難所と呼ばれる薩垂峠(さったとうげ)です。この城を無視して、東西に行き来することは叶いませんね。

<主郭・南曲輪>頂上
SN Kanbarajo T.JPG
主郭は神社(城山八幡宮)となっています。冒頭の石碑のほか、討死した北条新三郎(戒名のため現地では分からず)の供養碑があります。この日は穏やかな日でしたが、海風をまともにくらう場所ですね。

<南曲輪の北の隅>
shirononagori275 (24).JPG

<主郭から見た別の曲輪>
shirononagori275 (25).JPG
主郭から見た北側の曲輪。来る途中に断念した善福寺曲輪(北曲輪)です。残念ながら間に空堀があり、ここからは行けないようです。


<善福寺曲輪虎口>
shirononagori275 (34).JPG
帰りに再チャレンジ。ここが善福寺曲輪の虎口、そして立っている場所は曲輪の下に設けられた腰曲輪でした。
何も見えませんが、草を掻き分けるしかありません。ここだけは一人で突入しました。曲輪の側面に石垣らしきものを見ましたが、草ボウボウで撮影できず。

<善福寺曲輪(北曲輪)>
shirononagori275 (31).JPG
視界が開けました。奥に木造の物見櫓が復元されていますが、木に覆われて遠くは見えません。

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善福寺曲輪碑

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発掘調査で出土したもの説明

shirononagori275 (22).JPG

城内はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
<険しい山城>
shirononagori275 (35).JPG
激戦区だけに、いろんなドラマがありました。その欠片だけでも感じることができ、有意義な訪問となりました。

---------■ 蒲原城 ■---------
築城者:不明(今川氏)
築城年:不明(南北朝時代)
城 主:蒲原氏(今川家臣)
    北条氏 武田氏
廃城年:1582年頃
[静岡県静岡市清水区蒲原]


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2017年05月29日

真田の不落城 上田城のなごり

つわものどもが夢の跡
真田の不落城跡を訪問しました。

<上田城>うえだじょう
Uedajo (1).JPG
本丸の水堀

■ とても有名な城 ■
上田城は真田昌幸により築かれた千曲川沿いの平城。徳川軍を二度も退けたことで、難攻不落の城として知られています。2016年の大河ドラマ「真田丸」で更に有名になりました。日本100名城にも選ばれています。

■真田家■
真田一族は現在の長野県上田市を本拠地とする土豪でした。武田氏との関係ですが、昌幸の父である幸隆が、武田信玄の家臣となった時から始まります。幸隆は信玄が欲した砥石城を攻略するなど、武田家臣団の中で頭角を現していきます。

よく真田三代という言葉を耳にしますが、「幸隆・昌幸・幸村」のことを指している場合が多いですね。私もそういう認識です。ただまぁ真田の家を軸に考えると、昌幸の次は幸村ではなく、兄の信幸なんですが…。当主として着実に真田家を守った兄より、華々しく散った弟の方が人気は高いですね。

また、昌幸も長男ではなく三男。一時は跡継ぎのいない武藤家(甲斐の有力な国人領主)の養子となり、武藤喜兵衛と名のっていました。しかし、二人の兄が長篠の戦いで(1575年)で戦死してしまいます。昌幸本人もこの負け戦いに加わっていましたが、総大将である武田勝頼の身辺を守っていたことから、命までは落としませんでした。兄の信綱や昌輝は、ともに武田二十四将に数えられる武将。武田滅亡へ繋がる大敗は、昌幸から兄にして強力な味方だった二人を奪いました。三男昌幸は真田の家に戻り、家督を相続します。


■ 真田の城 ■
真田昌幸は兄から引き継いだ「真田本城」を拠点としていましたが、上田の地に新たなに城を築きます。もともとあった館に目を付け、大規模に拡張しました(1583年)。これが上田城の始まりです。


■ 表裏比興の者 ■ひょうりひきょう
天下人から「表裏比興の者」と評された真田昌幸。この場合の比興はいわゆる卑怯とはちょっと意味が異なり、「老獪なやつ」とか「くわせ者」といった意味になります。

今でこそ真田の名は有名ですが、信州から上州にまたがる小勢力に過ぎません。大きな勢力の風向きに翻弄され続けます。それでも真田を守り続けた昌幸。昌幸を「表裏比興の者」と評する場合、嘲るようでありながらも、才覚を褒めるような微妙なニュアンスが含まれています。

<上田城跡公園>
Uedajo (3).JPG
表裏比興の者と言われた真田昌幸が本領発揮した城の跡です。昌幸はこの城で徳川軍を二度も退けました。

しかし…
関ヶ原の戦いで西軍に与したことから昌幸は幽閉され、その翌年上田城も一旦破壊されてしまいました。じゃ現在の城跡は?これは仙石氏時代に再整備されたものになります。

<上田城大手門>
Uedajomon.JPG
右手の石垣のなかには「真田石」と呼ばれるひときわ大きな石があります。信之が松代藩移封となった時、持ち出そうとしたが運べなかったとか…。昌幸が息子に向かって「わしゃ〜動かんからな!」と言ってるようで、ちょっと笑ってしまう話です。

<つわものどもが夢の跡>
Uedajo (2).JPG
再整備され城の形は変わっても、私にとっては真田昌幸の城です。

----------■ 上田城 ■----------
別 名:尼ヶ淵城
築城者:真田昌幸
築城年:1583年(天正11)
城 主:真田氏 仙石氏 他
廃城年:1874年(明治7)
[ 長野県 上田市 二の丸 ]


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2017年03月15日

海賊城の縄張り(沼津市)伊豆長浜城

(伊豆長浜城のつづきです)

■ 海の山城 ■
海に突き出した小さな半島を利用した城です。山城?と分類して良いと思います。

<第二曲輪>
sirononagori Ngahama5.JPG
この区画(画像手前)が一番広い曲輪です。櫓が見えますが、その向こう側が第一曲輪。山の頂上です。

<海に突き出る曲輪>
6izunagahama (6).JPG
第一曲輪から撮影。半島先端の頂上から下に向かって高低差のある曲輪が連続して配置されています。それ自体は珍しくありませんが、その先に堀でも湿地でもなく、海が広がっていることがとても新鮮です。

<下から見上げると>
6izunagahama (8).jpg
登り降りはできますが、ほぼ確実に城兵に邪魔される構造。防衛施設である曲輪が段々畑状になっていると思って頂ければ良いかと思います。

<更に下ると海>
6izunagahama (1).jpg
城(突き出た半島)の両側が入江で舟溜りとなっており、湾の奥で波も穏やかなことから、現在でもたくさんのヨットが。舟の基地としては最適の場所なのですね(舟の知識ありませんが、きっと)。城の機能で言うと「馬出し」といったところでしょうか。

<曲輪と曲輪の間の堀切跡>
6izunagahama (9).jpg
「堀切」と表現してよいのか分りませんが、明らかに尾根を削って造られてます。ここに跳ね橋があったようです(柱がその目印です)。この位置、もともと第二曲輪と第三曲輪を切り離す「堀切」で、平時に通行しやすいように跳ね橋が設けられました。のちの時代に埋められ、幅を狭くして虎口に造りかえられたようです(現地説明板を参考に多少私が推定)。虎口とは、曲輪の入り口のことです。

<遺構>
6izunagahama (5).JPG
部分的に石垣も残されています。個人的には戦国期のものという気はしませんでしたが、雰囲気はありました。曲輪、土塁、堀切。全体として遺構に満足です。

<展示されていた模型>
6izunagahama (12).jpg
ようするに、城全体はこれを見るのが一番分りやすいですね。麓が海なので特殊な構造ではありますが基本的に山城の縄張りです。この山を登ったり下りたりしながら、城のなごりを肌で感じることができました。やはり実際に体感することは大切ですね。

■ 城用語解説 ■
それにしてもこの模型、構造が分りやすいですね。ここでちょっと、城用語について。

山の中腹や頂上付近、平らな部分がありますね。こういう区画を「くるわ」といいます。漢字だと曲輪または。当ブログでは曲輪で通しています。その曲輪の重要度で、本丸とか二の丸とかに区分されます。よく耳にする「主郭」は、本丸と同じ意味です。知ってしまえば簡単な理屈ですね。

その曲輪と曲輪の間を堀状に削ってあるのが見えますでしょうか?平地であれば「堀」ですね。山で尾根を削ってつくる堀を堀切(ほりきり)と呼びます。

自然の地形をベースに、曲輪をどこに配置するかとか、堀や堀切りをどこに造るといったことを決めるのが「縄張り」。縄張りはいまでは別の意味で使われますね。

ちょっと脱線しましたが、参考になれば嬉しいです。

■ 希な城 ■
ここ伊豆長浜城跡には、三井家の別荘が建っていた時期もあるようですが、それが取り壊されて以降は荒れる一方だったそうです。沼津市が用地を取得の上で整備し、現在の姿となっています。とてもユニークな城。珍しい山城を体感することができました。維持・管理に感謝致します。沼津市さん、ありがとうございました。

■訪問:伊豆長浜城
[静岡県沼津市内浦重須]


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タグ:城用語 静岡
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海賊城のなごり(沼津市)伊豆長浜城

つわものどもが夢の跡
国の史跡に指定されている海賊城があると聞いて、静岡県沼津市へ行ってきました。

<伊豆長浜城>いずながはまじょう
6izunagahama (11).jpg
こちらです

その前に、まずは…

<港メシ>
6izunagahama (13).jpg
グルメブログではないので解説しませんが、たまにはいいですね。

<沼津港>
6izunagahama (10).jpg
沼津港というと、かなり男臭い漁師の港を想像していましたが、観光地化しているエリアもあるのですね。家族で安心して楽しめる場所です。沢山の観光客で賑わっていました。

では目的地へ

<ヨット>
6izunagahama (2).JPG
長浜城跡の無料駐車場からの眺め。城は画像の左手になります。

それにしても、こういうヨットとか保有している人って、どんな暮らししてるんでしょう。凄いですね。タダでもらえても、普通のサラリーマンでは維持することもできません。車一台で精一杯です。

<車>
JIROGO2017NEW.JPG
ということで同僚の車。新車だそうです。これはこれで羨ましい。本日の城跡巡りは、会社で苦楽を共にしているお仲間二人と。珍しく単独行動ではありません。

<石碑と入口>
6izunagahama (3).JPG
階段が設置してあり、ここから登ります。

この城の築城時期は不明。推定で15世紀後半と考えられています。

小田原北条氏の傘下でした。駿河国を手中に収めた武田氏に対し、北条氏は重要拠点の韮山城(静岡県伊豆の国市韮山)を守るべく周辺の城を整備。ここ伊豆長浜城も、その頃本格的に再整備(改修)されたと考えられています。これが1579年頃の話。北条氏の当主が四代目・氏政の時のですね。以降、北条水軍は幾度となく武田水軍と駿河湾で交戦。北条水軍の拠点は他にもあったようなので、ここもその一つということです。

水軍を強化したい北条氏は、その道のプロフェッショナルとして梶原景宗(かじわらかげむね)を家臣として招き入れました。三代目当主の氏康に見込まれて家臣となったということは、先述の伊豆長浜城改修以前から、北条水軍と関わっていたことになりますね。どうも北条氏とは長い付き合いのようですが、正式な家臣と言い切って良いのやら、、、。というのも、北条記には海賊と記されているほか、海運を得意とする商人だとする説もあるようです。つまり、身分は良くわかっていません。ただその戦歴は明らか。ということは、小田原北条氏傘下のここ伊豆長浜城にも出入りしていた可能性はありますね。

この梶原景宗、秀吉の小田原征伐(1590年)の時も北条側として天下軍と戦っています(敗れました)。伊豆長浜城ですが、この大戦においては出番がなかったようです。

※秀吉が築城 した長浜城(滋賀県長浜市)と区別するため、このブログでは「伊豆長浜城」と記載させてもらいます。

<登り階段の途中で撮影>
6izunagahama (4).JPG
北条の家紋をしるした幟が海風にたなびいています。かなり遠くまで見渡せますね。まぁさえぎるものが無いんだから、当たり前ですかね。

つわものどもが夢の跡
ここから城内探索開始です (次の投稿へ続く)。
海賊城の縄張り

■訪問:伊豆長浜城
[静岡県沼津市内浦重須]

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2017年03月01日

城跡の維持・管理(三島市)山中城跡にて

■ 城跡の維持・管理 ■

<山中城の遺構>
2017yamanaka (4).jpg
三島市のホームページによれば、山中城は昭和48年から発掘調査と復元整備が開始され、昭和56年に一般開放されたようです。更に平成25年度からは、傷みの目立つ西櫓、西ノ丸、元西櫓、二ノ丸を再整備し、開園した昭和56年当時の復元状況に戻したとのこと。「北条流築城術の粋 障子堀と畝堀」と表現されています。

リニューアルしたばかりだったのですね。
行ってみてまず実感したのは、かなり整備されていることと、思っていたより広いこと。

<障子堀>しょうじぼり
yamanaka85.JPG
こういうのはネットや雑誌でしか見たことがありませんでした。実物を見られて満足です。障子は元々「さえぎるもの」という意味。いわゆる家の障子に似ているからではなく、さえぎる仕切りがあることから障子堀と呼ばれています。

<表面に芝>
2017yamanaka (9).jpg
障子堀の表面は本来なら土ですが、ここでは保護のため芝がはられています。

<念入りな保護>
shirononagoriYamanakajoAD (1).JPG
ここはまだ芝をはって間もない感じですね。保護してもらっている様子を強調すべく、この画像にしました。

全てという訳にはいきませんが、城跡の広範囲にわたって、曲輪や土塁にも同じ措置がなされています。やや凝りすぎた復元も含まれますが、総じて感謝したくなる城跡でした。

■ 凝り過ぎてないエリア ■
芝のはっていないごく自然な遺構も沢山あります。これはこれで別の楽しみがあります。

<堀切>ほりきり
2017yamanaka (5).jpg
尾根を断ち切った堀跡。なんとなく中世の城のなごりが漂います。

<本丸付近の堀>
2017yamanaka (1).jpg
堀の底に更に窪みがありますね。復元されていませんが、ここも障子堀と類似した形状だった可能性も…?などと楽しむことができます。


■つわものどもが夢の跡■
私の訪問は冬です。冬枯れの城跡を眺めながら、かつての「兵どもが夢」を思い浮かべながら散策してまわりました。公園を運営する側としては、春から秋までさまざまな花が楽しめるのも自慢のようです。それに合わせて訪れれば、また別の顔を楽しめるのかも知れませんね。

そういえば「兵どもが夢の跡」の前は「夏草や」でしたね。では、夏にまた訪れたいと思います。草木が青々と生い茂る城跡に、自分が何を感じるのか楽しみです。

城跡好きでまだ行かれてない方、ここはお勧めです。
特に城好きでない人にとっても、きっと楽しめる場所です。

shirononagoriYamanakajoAD (3).JPG

日本100名城に選ばれている三島市の山中城
素晴らしい維持・管理に感謝申し上げます

■訪問:山中城
[静岡県三島市山中]
※現地に無料駐車場あり


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2017年02月28日

北条氏勝と山中城

つわものどもが夢の跡
かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。

<山中城の障子堀>
yamanaka85.JPG

豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。

■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。

<本丸付近>
1701yamanaka258.JPG

北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。

そして・・・

氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。

北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。

<山中城から望む富士>
1701izu265.JPG
山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。

まさに「国破レテ山河アリ」ですね。

籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。


■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。

shirononagoriYamanakajoAD (2).JPG

今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。



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