2017年03月15日

海賊城のなごり 伊豆長浜城

■沼津の海賊城■

<長浜城>
6izunagahama (11).jpg
国の史跡に指定されている海賊城があると聞いて、静岡県沼津市へ行ってきました。

その前に、まずは・・・

<港メシ>
6izunagahama (13).jpg
グルメブログではないので解説しませんが、たまにはいいですね。
6izunagahama (10).jpg
沼津港というと、もっと男臭い漁師の港を想像していました。観光地化しているエリアもあるのですね。家族で安心して楽しめる場所です。沢山の観光客で賑わっていました。

では目的地へ

<ヨット>
6izunagahama (2).JPG
伊豆長浜城跡の無料駐車場からの眺め。城は画像の左手になります。

それにしても、こういうヨットとか保有している人って、どんな暮らししてるんでしょう。凄いですね。タダでもらえても、普通のサラリーマンでは維持することもできません。車一台で精一杯です。

<車>
JIROGO2017NEW.JPG
ということで同僚の車。新車だそうです。これはこれで羨ましい。本日の城跡巡りは、会社で苦楽を共にしているお仲間二人と。珍しく単独行動ではありません。

<石碑と入口>
6izunagahama (3).JPG
階段が設置してあり、ここから登ります。


この城の築城時期は不明。推定で15世紀後半と考えられています。

小田原北条氏の傘下でした。駿河国を手中に収めた武田氏に対し、北条氏は重要拠点の韮山城(静岡県伊豆の国市韮山)を守るべく周辺の城を整備。ここ伊豆長浜城も、その頃本格的に再整備(改修)されたと考えられています。これが1579年頃の話。北条氏の当主が四代目・氏政の時のですね。以降、北条水軍は幾度となく武田水軍と駿河湾で交戦。北条水軍の拠点は他にもあったようなので、ここもその一つということです。

水軍を強化したい北条氏は、その道のプロフェッショナルとして梶原景宗(かじわらかげむね)を家臣として招き入れました。三代目当主の氏康に見込まれて家臣となったということは、先述の伊豆長浜城改修以前から、北条水軍と関わっていたことになりますね。どうも北条氏とは長い付き合いのようですが、正式な家臣と言い切って良いのやら、、、。というのも、北条記には海賊と記されているほか、海運を得意とする商人だとする説もあるようです。つまり、身分は良くわかっていません。ただその戦歴は明らか。ということは、小田原北条氏傘下のここ伊豆長浜城にも出入りしていた可能性はありますね。

この梶原景宗、秀吉の小田原征伐(1590年)の時も北条側として天下軍と戦っています(敗れました)。伊豆長浜城ですが、この大戦においては出番がなかったようです。

※秀吉が築城 した長浜城(滋賀県長浜市)と区別するため、このブログでは「伊豆長浜城」と記載させてもらいます。

<登り階段の途中で撮影>
6izunagahama (4).JPG
北条の家紋をしるした幟が海風にたなびいています。かなり遠くまで見渡せますね。まぁさえぎるものが無いんだから、当たり前ですかね。

つわものどもが夢の跡
ここから城内探索開始です (次の投稿へ続く)。
海賊城の縄張り

[静岡県沼津市内浦重須]

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2017年03月01日

城跡の維持・管理(三島市の山中城跡)

(山中城追記)

■城跡の維持・管理■

<山中城の遺構>
2017yamanaka (4).jpg
三島市のホームページによれば、山中城は昭和48年から発掘調査と復元整備が開始され、昭和56年に一般開放されたようです。更に平成25年度からは、傷みの目立つ西櫓(にしやぐら)、西ノ丸、元西櫓、二ノ丸を再整備し、開園した昭和56年当時の復元状況に戻したとのこと。「北条流築城術の粋 障子堀と畝堀」と表現されています。

リニューアルしたばかりだったのですね。
行ってみてまず実感したのは、かなり整備されていることと、思っていたより広いこと。

<障子堀>
yamanaka85.JPG
こういうのはネットや雑誌でしか見たことがありませんでした。実物を見られて満足です。障子は元々「さえぎるもの」という意味。いわゆる家の障子に似ているからではなく、さえぎる仕切りがあることから障子堀と呼ばれています。

<表面に芝>
2017yamanaka (9).jpg
障子堀の表面は本来なら土ですが、ここでは保護のため芝がはられています。

<念入りな保護>
shirononagoriYamanakajoAD (1).JPG
ここはまだ芝をはって間もない感じですね。保護してもらっている様子を強調すべく、この画像にしました。

全てという訳にはいきませんが、城跡の広範囲にわたって、曲輪や土塁にも同じ措置がなされています。やや凝りすぎた復元も含まれますが、総じて感謝したくなる城跡でした。

■凝り過ぎてないエリア■
芝のはっていないごく自然な遺構も沢山あります。これはこれで別の楽しみがあります。

<堀切>
2017yamanaka (5).jpg
なんとなく中世の「城のなごり」が漂います。

<本丸付近の堀>
2017yamanaka (1).jpg
堀の底に更に窪みがありますね。復元されていませんが、ここも障子堀と類似した形状だった可能性も、、、などと楽しむことができます。


■つわものどもが夢の跡■
訪問は冬です。冬枯れの城跡を眺めながら、かつての「兵どもが夢」を思い浮かべながら散策してまわりました。公園を運営する側としては、春から秋までさまざまな花が楽しめるのも自慢のようです。それに合わせて訪れれば、また別の顔を楽しめるのかも知れませんね。

そういえば「兵どもが夢の跡」の前は「夏草や」でしたね。では、夏にまた訪れたいと思います。草木が青々と生い茂る城跡に、自分が何を感じるのか楽しみです。

城跡好きでまだ行かれてない方、ここはお勧めです。
特に城好きでない人にとっても、きっと楽しめる場所です。

shirononagoriYamanakajoAD (3).JPG

[静岡県三島市山中]
※現地に無料駐車場あり


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タグ:北条 障子堀
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2017年02月28日

北条氏勝と山中城

つわものどもが夢の跡
かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。

<山中城の障子堀>
yamanaka85.JPG

豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。

■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。

<本丸付近>
1701yamanaka258.JPG

北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。

そして・・・

氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。

北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。

<山中城から望む富士>
1701izu265.JPG
山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。

まさに「国破レテ山河アリ」ですね。

籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。


■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。

(最後に)
今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。
shirononagoriYamanakajoAD (2).JPG



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2017年02月27日

間宮康俊と山中城

つわものどもが夢の跡
facebook2017yama.jpg
本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。

■山中城の戦い■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。

城攻めは攻め手に不利な点が多い。更に良く造られた山城。ただ、数が違い過ぎます。
激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。

■出丸■
<岱崎出丸>だいさき
2017yamanaka (7).jpg
三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。

<スリバチ曲輪>
2017yamanaka (8).jpg
岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。


■天下軍の力攻め■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。力攻めですね。強引さ故に攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。

<障子堀>
shirononagoriYamanakajoAD (4).JPG

■強者■つわもの
北条側副将格の間宮康俊(まみや やすとし)という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。

この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。

出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。


■つわものどもが夢の跡■
2017yama (1).JPG
負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。

■間宮康俊■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です


生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます


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2017年02月26日

山中城のなごり

つわものどもが夢の跡
障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。

<障子掘と富士山>
shirononagoriYamanakajoAD (2).JPG

■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築城されました。

そして・・・

1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。現在の城跡はその頃のものということでしょうか。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。

<案内図>
2017yama (2).JPG
日本百名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。

「小田原城の支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。

ここを避けては通れない。

山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。

<三の丸堀>
2017yama (3).JPG
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・

<田尻の池>
2017yamanaka (3).jpg
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。

さらに登ると

<畝堀>うねぼり
2017yamanakashyo (2).JPG
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。

<障子堀>
2017yamanaka (6).jpg
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。

どんなつもりなのか・・・

その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。


■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。

山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が戦死しました。

時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。

■つわものどもが夢の跡■
2017yamanaka (10).jpg
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。

見事な遺構に加えて、いろんな人の思惑が余韻として漂う城跡でした。

-------■山中城■-------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
主な城主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中]

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