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2019年06月22日

早雲生涯の居城 韮山城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国初期の英雄・北条早雲生涯の居城を訪ねました。
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■韮山城■ にらやまじょう
北条早雲の城として知られる韮山城。その築城年については、あまりはっきりしたことは分っていません。既にあった小規模な城を、この地を領有することになった早雲が、本拠とすべく本格的な改修を行ったと考えられています。早雲が小田原城を攻略して相模へ進出したあとも、韮山城は早雲の本拠であり続けました。

生涯の城

韮山の城は北条早雲にとってそういう城でした。


■北条早雲■ ほうじょうそううん
北条早雲と言えば、素浪人から大名にのし上がったいわゆる下剋上の典型のようなイメージですね。ただ最近の研究では、名も無き浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた一族の出という説が有力になっています。本名とされる伊勢新九郎、伊勢宗瑞が示す通り、名門とされる伊勢氏の出。早雲も幕府の役人を務め、その頃に名だたる寺で禅を学んだとされています。こういったことは、早雲本人の生き方に影響しただけではなく、子・氏綱や孫・氏康といった戦国に名を残す後継者たちにも影響を及ぼしているのかもしれませんね。ちなみに、北条早雲とはのちの呼び名で、ご本人は北条を名乗っていません。話が長くなるので、今回は北条早雲で通します。

今川家の客将となった早雲は、当主・義忠が戦死するとまだ幼い嫡男・龍王丸をサポートし政敵を排除。この頃、兵を率いて駿河へやってきた太田道灌とも面会しているようです。

龍王丸が氏親を名乗って今川家当主になると、早雲には伊豆に近い興国寺城が与えられます。この城を拠点に、早雲は伊豆へ進出。最大勢力の内紛に乗じて伊豆堀越御所を襲撃し、堀越公方足利政知の子・茶々丸を追い払います。そして焼き払った御所近くの城を改修し、拠点を興国寺城からこの城へ移します。これが今回訪問の韮山城です。

さて
支配者を追い払ったぐらいでは国を治められません。韮山城へ移った早雲は、味方になるなら本領を安堵することを領民に約束し、更に税の負担を軽くし(四公六民)、配下の兵には乱暴狼藉を禁止しました。茶々丸の悪政に苦しんでいた領民は、たちまち早雲に従ったと伝わります。

<城内>
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戦国初期の英雄の城です。北条氏の拠点が小田原に移ったあとも、伊豆の統治、そして武田氏などに対抗するための防御拠点として、韮山城は重要な城でありつづけました。


■北条氏規■ うじのり
小田原北条氏にとって重要拠点であり続けた韮山城。戦国末期となり、秀吉が20万を越える大軍で北条征伐に乗り出した時には、北条氏規が城を守っていました。氏規は第4代当主・氏政の弟です。織田信雄(信長の次男)率いる4万とも言われる大軍を前に、氏規は10分の1以下の約3千6百の兵で応戦し、韮山城で約百日間も持ちこたえました。

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兄の氏照(八王子城主)や氏邦(鉢形城主)と比較して、武勇ではやや地味な印象の氏規ですが、これは善戦と言って良いのでではないでしょうか。開城を促すべく、天下軍が力攻めをしなかったという説もありますが、百日これに応じなかったことは事実です。

最後は秀吉に派遣された徳川家康の説得により、城を明け渡すことに。この背景には、北条側の主要な城が既に落とされていたこともありますが、城主である氏規本人が、交渉役となった家康と親交があったことも影響したと思われます。氏規は人質として今川家へ送られ駿府で過ごした経験があり、同じく人質であった家康とは古くからの知り合いでした。

そもそもの話として、氏規はこの戦には反対でした。一族存続のため、秀吉へ臣従するべきと主張していたのですが、兄の氏政・氏照らがこれを認めず、巨大な勢力を敵にまわすことになりました。

■廃城■
北条氏滅亡後は、家康の家臣・内藤信成が伊豆国1万石を与えられ入城します。その内藤信成が駿府城を与えられ4万石の領主となる時に、韮山城は城としての役割を終えています(1601年)。


■現地訪問記■
<城池親水公園>
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韮山城は典型的な山城です。麓は公園として整備されていて、ご覧の通り大きな城池となっています。この日は友人の車で訪問。公園の駐車場に車を停めて探索開始です。

<道標>
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韮山城は右手ですね。とても親切な公園なので、道に迷うこともありません。ちなみに、表示のある江川邸は重要文化財にもなっている代官屋敷跡です。今回はあくまで韮山城そのものにテーマを絞っていますが、隣接する山にも複数の砦が築かれたそうです。

<説明板>
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予習しなくてもここでじっくり読めば充分です。

一部だけ抜粋すると『明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。』とのこと。また、城が築かれた山は、通称・龍城山と呼ばれるそうです。左側が城の縄張り図。南北に細長い山の尾根上に、曲輪が直線的に配置されています。

では
説明板の位置から進入しやすい三の丸方面へ向かいます。

<山城>
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本来なら険しい道のりのはずですが

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登城口にはこういった木段が設けられています。草木を掻き分けて登るような覚悟は不要です。

<三の丸の土塁>
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ついに来たかという満足感で一杯でした。三の丸の一部はテニスコートとなっていましたが、それもまた良し。市民から親しまれている城跡ということですね(人影が見えたので撮影せず)。テニスコートの三方を厚みのある土塁が囲んでいる状態です。

<堀切と虎口>
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堀切が見えました。別の曲輪への入口(虎口)です。

<道標>
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この先は三の丸の南側の権現曲輪ということですね

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とりあえず案内に従って権現曲輪方面へ

<熊野神社の鳥居>
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権現曲輪を象徴する景色です。ここが一番心癒されましたかね。奥の土の壁は、二の丸の切岸です。荒々しく閉鎖的な空間ですが、中央に鳥居があるだけで凛とした空気が漂います。

<熊野神社の社殿>
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早雲が城の守り神として祀ったことに始まります。

<高低差>
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高低差を味わいながら下から見上げた社殿。熊野神社付近は、明らかに周辺とは違う雰囲気の区画となっているので、櫓を築くなどしたなごりではないでしょうか。

<上から見た三の丸虎口>
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これはテニスコートがあった三の丸へ向かう木段を、上から撮影したものです。ボッーと歩いていると、この位置から撃たれていたことになりますね。要所要所でそんなことを感じるのも、現地ならではの楽しみです。

次に二の丸・本丸方面へ向かいます。ここから一気に

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堀切の道を進みます

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通り抜けた先に広い区画があるようです

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二の丸跡ですね

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山頂からの眺め

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そして本丸跡です

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本丸より先の尾根づたいに、更に魅力的な遺構が続きます。方角でいうと城の南側です。

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ちょっと構造が分りにくいですが、左手は土塁で、その下は道になっています。むかしどのように使われていたのかが分からず

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人の手による工夫がしっかりと巡らされています。どのように機能していたのか分からず

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この付近は塩曲輪とか煙硝曲輪とか呼ばれるエリア。食糧にせよ火薬にせよ、物資を備蓄していた区画ということでしょうか。私はそう受け止めました。

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障子堀かと思うような構造でしたが、ちょっと分からず。凝った堀が必要な場所とは思えなかったので、勘違いということにしておきます。

経験不足から、南側の区画では遺構の具体的な役割を想像することができませんでした。ただどれも興味深く、今回の訪問で最も時間を割きました。

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切り立った崖の上に設けられた細長い区画の探索もここまでです。

最後は山の麓へ

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この窪みは船の利用と関係しているのでしょうかね

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この付近まで湿地が迫っていた。そんな雰囲気が漂いますが、あくまで個人の見解です。

ちょっと駆け足になりましたが、城内はだいたいこんな感じです。


■つわものどもが夢の跡■
ネズミが2本の大杉を食い倒し、のちに虎となる。
これは早雲が見た夢の話です。ネズミは子年生まれの自分であり、大きな2本の杉は、即ち当時関東で勢力を誇っていた山内と扇谷の両上杉氏のこと。早雲はこの夢をきっかけに関東進出を決意しました。やがて息子の氏綱が関東で勢力拡大、そして孫の氏康が両上杉氏を実質的な滅亡にまで追い込みました。よく二代目はダメという話を耳にしますが、逆に二代三代とますます拡大していった北条氏。代々受け継がれたのは、出来上がってしまった地位やら富ではなく、未完のままの夢だったのではないでしょうか。

夢の結末を知ることなく、早雲は韮山城で没しました。

<つわものどもが夢の跡>
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------■韮山城■------
別 名:龍城
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
改修者:北条早雲
城 主:北条早雲・北条氏規
廃城年:1601年(慶長1年)
[静岡県伊豆の国市韮山]



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タグ:北条
posted by Isuke at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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