かつて壮絶な戦いがあった山中城。今回はこの戦いで生き残った武将についてです。
<山中城の障子堀>
豊臣秀次を総大将とする7万の大軍勢。これと戦う山中城4千のなかに、援軍として駆けつけた玉縄城主・北条氏勝の姿がありました。
■生きる選択■
その名の通り、氏勝は北条一族。天下軍との圧倒的戦力の差に、城内で自害を決意します。しかし家臣に止められ、最終的には生きて城を脱出します。
<本丸付近>
北条氏の諸将が集結している小田原城へは入らず、自らの城である玉縄城(現在の鎌倉市)へ戻った氏勝。そのまま籠城しますが、すぐに徳川勢に包囲され、城下の寺住職の説得もあり開城。ここでも生きる選択をしました。
そして・・・
氏勝は天下軍の案内役を務めることになります。寝返った?とも言えます。悪く評価しようと思えば、いくらでもできますね。実際、かつての仲間から後ろ指もさされたことでしょう。現在でも、氏勝を卑怯者扱いするお話は見聞きします。ただ、その後の氏勝の働きを知れば、別な評価もあるのではないでしょうか。
北条氏勝は、抵抗を続ける北条傘下の城の交渉人となり、無血開城に貢献しました。「お前はどっちの味方だ」とか「裏切り者」といった罵声も浴びせられたかも知れませんね。では氏勝が山中城で玉砕していれば、戦況は良くなっていたのでしょうか。とても勝てない戦だと悟ったからこそ、氏勝はその事実を伝える役割を担った。私はそう思いたいです。
<山中城から望む富士>
山中城の戦いから既に400年以上。世の中も、物の考え方も変わっていますが、この景色はあまり変わらないのではないでしょうか。
まさに「国破レテ山河アリ」ですね。
籠城していた「つわものども」も、この景色を見ていたのですね。冬で空気が澄んでいるせいもあるのでしょう。本当にいい眺めです。
■つわものどもが夢の跡■
山中城の戦いから十年も後の話になりますが、北条氏勝は関ヶ原の戦いでは徳川方として戦っています。豊臣に屈した北条氏勝。徳川家康から信頼され、下総・岩富藩(現在の佐倉市)1万石の藩主となりました。
今回訪問の山中城。負け戦の舞台となり、いろんな思いが交錯する城跡でした。最前線へ自ら飛び込み、いかにも武士らしく散った老将・間宮康俊。生きのびて時を待った北条氏勝。対象的ですが、どちらも強かな武将であったと思えます。
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