本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。
■ 山中城の戦い ■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。
城攻めは攻め手に不利な点が多い。
そして、山中城は小田原北条氏の築城技術の粋を凝らした堅城です。
ただ、兵の数があまりにも違い過ぎました。
激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。
■ 出丸 ■
<岱崎出丸>だいさき
三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。
<スリバチ曲輪>
岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。
■ 天下軍の力攻め ■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。数に物を言わせた豊臣軍による力攻めです。強引さ故に、攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。
<障子堀>
■ 強者 ■つわもの
北条側副将格の間宮康俊という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。
この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。
出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。
この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。
■ つわものどもが夢の跡 ■
負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。
■ 間宮康俊 ■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です
生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます
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