つわものどもが夢の跡
障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。
<障子掘と富士山>
■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城です。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。城は東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築かれた城でした。
そして・・・
1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。
<案内図>
日本100名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。
小田原城の「支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。
ここを避けては通れない。
山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。
<三の丸堀>
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・
<田尻の池>
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。
さらに登ると
<畝堀>うねぼり
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。
<障子堀>
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。
どんなつもりなのか・・・
その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。
■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。
山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末が戦死しました。
時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。
■つわものどもが夢の跡■
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。
北条氏滅亡後に廃城となったため、現在の遺構の大半はその当時の雰囲気を残しているものと思われます。
見事な遺構に加えて、いろんな人たちの思惑が余韻として漂う城跡でした。
--------■ 山中城 ■--------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
城 主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中新田]
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→北条氏勝と山中城
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2017年02月26日
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