2020年11月30日

浜松城のなごり 家康が17年間居城とした城

つわものどもが夢の跡
今回は「出世の城」と呼ばれる浜松城です

<浜松城天守閣>
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徳川家康が17年間にわたり居城とした城です

■浜松城の前身■
この地にはもともと曳馬城(引間城)と呼ばれる城がありました。浜松城の前身といわれる小規模な山城です。築城者については諸説ありますが、遠江今川氏4代当主の貞相が15世紀ごろに築いたという説が有力です。

<曳馬城跡の石碑>ひくまじょう
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<引間城(曳馬城)説明板>
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説明には尾張の斯波氏と駿河の今川氏の名が記されています。両氏とも足利一門の名家。この地は名門同士の抗争の場となったわけですね。やがて今川氏の治めるところとなり、その城を徳川家康が攻め落とし、拡張して浜松城を築きました。引間という地名を浜松に改めたのも家康とされています。

<元城町東照宮>
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徳川家康が浜松城を築城すると、もともとあった曳馬城の区画は「古城」と呼ばれ、米蔵として利用されたようです。浜松城が廃城となったのち、東照宮が建立され今に至っています。


■徳川家康の城■
徳川家康のもともとの居城は、生誕の地でもある三河国岡崎城です。織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなったことから、長男の信康に岡崎城を任せ、武田信玄に備えるべく、本拠地を浜松に移しました。この時29歳。45歳までの17年間ここ浜松城が家康の居城でした。

戦国時代屈指の武将の17年間は、こんなブログではとてもご紹介できないので、有名な戦いだけ下記に記しておきます。

1570年:姉川の戦い
〇織田・徳川 対 浅井・朝倉
1572年: 三方ヶ原の合戦
徳川 対 ◎武田信玄(武田圧勝)
1575年:長篠の戦い
〇織田・徳川 対 武田勝頼
1584年:小牧・長久手の戦い
徳川・織田信雄 対 △羽柴秀吉
(戦は徳川勝利・交渉は羽柴勝利)

ちなみに
武田信玄が亡くなるのは1573年
織田信長が亡くなるのは1582年
です。

激動の、そして試練の時だったわけですね。特に武田信玄とまともに激突した三方ヶ原の戦いは、徳川家康の大敗として知られる戦です。命からがら浜松に逃げ帰った家康にまつわる逸話もたくさんあります。

戦い以外のドラマも沢山ありました。長男・信康が信長の娘と結婚するものの、やがて切腹。次男秀康に続き、のちに当主となる秀忠の誕生などなど。書ききれません。

<秀忠生誕の地>
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ここ浜松城はやがて二代将軍となる徳川秀忠生誕の地でもあります。


■家康は駿府へ■
戦乱を生き残った家康の支配は、三河・遠江に留まらず、駿河や信濃にまで拡大していきました。そうすると、全てを統治するには、浜松はちょっと西に寄りすぎています。そこで、家康は本拠地を東に移すこととし、駿府へ入ることにしました。諸説ありますが、これが家康が浜松城を去る理由とされています。

<家康時代の浜松城>
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家康時代の浜松城の説明板です。当時はまだ石垣は無く、土の城だったようです。

駿府は、三河生まれの家康が、8歳から19歳まで今川の人質として暮らした地。どのような思いだったのでしょう。ただ4年後の小田原征伐(1590年)ののち、家康は秀吉の命で更に東の関東へ移ることになります。


■天守閣■
徳川家康が関八州へ転封となると、浜松城には豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が12万石で入りました。浜松城に天守が築かれたのはこの頃とされています。

<天守閣(復元)>
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鉄筋コンクリートで再建された天守閣。浜松城の天守閣については資料がなく、改修者である堀尾吉晴が築いた別の城の天守閣を参考に造られたました。

<天守台>
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浜松城は天守閣よりその土台の石垣が有名です。

<野面積み>
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自然の石を加工せずそのまま積み上げるいわゆる野面積みの石垣。崩れそう?400年の風雪に耐えて今に至ります。

ハート.JPG
ハート型の石がちょっとした人気です。どこだか分かりますでしょうか?加工はしてないのですから偶然ですね。

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もともとの天守台の上に昭和の天守閣が載っている状態ということですね。

<天守門>
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天守曲輪の大手に復元された天守門

<天守曲輪>
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浜松城は本丸に天守閣があるのではなく、更に一段高い位置にある曲輪に設けられています

<徳川家康銅像>
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こちらは本丸跡に設置された『若き日の徳川家康公』です


■江戸時代■
堀尾氏の支配は10年続きますが、関ヶ原の戦い後は、譜代大名の松平忠頼が美濃金山より5万石で入ります。その後は江戸時代を通して譜代大名が代々城主を務め(江戸260年間で25代の城主)、かつて家康が17年も居城としたこともあって、浜松城の城主はいわば出世コースとなりました。出世城とも呼ばれたそうです。老中だけでも5人天保の改革の水野忠邦も、浜松城主を経験したのち老中となっています。

<縄張り図>
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城下町も含めて整備がなされた状態。いわば浜松城の完成形ですね。縄張り図だと、中央の二の丸が本丸や天守曲輪より目をひきます。

<二の丸の説明板>
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二の丸には、かつては政庁が設けられていました。この区画こそが、藩の政治の中心地だったようです。

ちょっと城の外に

<宿場町のなごり>
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街中でこんな説明板に足が止まりました。『本陣跡』です。本陣というと、戦で大将が陣取る場所と勘違いされそうですが、この場合は大名や幕府役人のために宿場に置かれた宿のことです。浜松には、ここ杉浦本陣を含めて6つの本陣が置かれたようです。

<町のなごり>
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こちらは高札場跡。こういった説明板はありがたいですね。

<大手門跡>
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縄張り図にもある大手門がこの位置ということですね。浜松城公園まではまだ距離がありますが、この付近から先はかつては城内だったということですね。

そして

<城跡>
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城の多くは失われましたが、中心部にはかつてのなごりが漂います

浜松城の廃城は明治になってから。現在は浜松城公園となっています

<公園>
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庭園を含む公園として整備されています。

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2017年には続日本100名城にも選定されました

以上

徳川家康が17年間居城とした浜松城のなごりでした。家康本人のみならず、250年以上続く徳川幕府の原点となった城とも言えますね。そして、幕府の幹部となる家臣の登竜門となった城です。

つわものどもが夢の跡
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-------■浜松城 ■-------
別 名:出世城
築城年:15世紀頃(曳馬城)
築城者:不明(今川氏)
改修者:徳川家康・堀尾吉晴 他
城 主:飯尾氏・徳川氏
堀尾氏・水野氏 他
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年11月14日

石川数正の鞍替えと徳川家康の城替え(浜松城を去る家康)

<家康像>
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浜松城で撮影した家康像です。下に『若き日の徳川家康公』と記されています。そういえば、他の銅像と比べると、ちょっとほっそりしていますかね。右手にはちょっと変わった武器?ではなく勝草(カチグサ)とも呼ばれたシダの葉です。

<浜松城>
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家康は17年もの間ここ浜松城を居城としました。強敵に囲まれながらも、この城を足掛かりに戦国大名としての地位を着々と確立していくわけですが、のちに駿府に拠点を移しています。この背景については諸説あります。そのうちのひとつ、重臣の一人だった石川数正の出奔が大きく影響したとする説をご紹介させて頂きます。理由は一つではないと思いますが、この説に重みを感じましたので。

石川数正(かずまさ)は、家康がまだ竹千代と名乗っていた頃から仕え、今川義元のところに人質として預けられていた時にも、そばに寄り添っていた側近中の側近です。家康の主要な合戦に出陣しては武功を挙げ、更に交渉術でも実力を発揮しました。酒井忠次らと共に初期の家康を支え、徳川家躍進に大きく貢献した武将です。

それにも関わらず
家康の元を去ることに

家康からの信頼も厚く、家老まで務めた人物の離反。戦国の世では、主君の鞍替えや裏切りは決して珍しくありませんが、結束が強い徳川家臣団ではそういう例が少なく、石川数正の出奔はかなり稀なケースと言えます。いや、忠義に厚い三河時代からの幹部に絞れば、石川数正は家康に背を向けた唯一の家臣かもしれません。この理由にも諸説(秀吉によるヘッドハンティング・家康の長男信康の切腹に起因する主君への不信感などなど)ありますが、真相は謎のままです。ただひとつだけはっきりしていることは、徳川家の軍事機密を知り尽くす石川数正が、よりによって豊臣秀吉の家臣となってしまったこと。家康はこの前年に小牧・長久手で秀吉と戦い、和睦したばかりです。この時点ではまだ秀吉は敵。大きな衝撃だったことでしょう。

これを境に、家康はそれまでの戦術を改め、武田流の戦術を取り入れたと言われています。そうせざるを得なかったのでしょうね。そして、数正が去った翌年(1586年)には、長年居城としてきた浜松城を離れ、駿府に移っています。

<家康像>
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駿府城の家康像です

繰り返しになりますが
家康が駿府に拠点を移す理由はひとつではないと思います。ただ、徳川軍の手の内を知り尽くし、城の縄張りまで熟知したいわば懐刀が、敵に渡ってしまった事実は重いですよね。時系列に状況を整理すると、やはり石川数正の離反は、家康が浜松城を去る大きな理由だったと思います。

<駿府城>
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-------■ 画像撮影 ■-------
浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]
駿府城
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]


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2020年11月08日

浜松城の野面積み

今回は「野面積み」の代表作といっても過言ではない浜松城の石垣のご紹介です。
<天守閣>
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復元された天守閣も立派ですが、城郭ファンの間で有名なのが土台の石垣です。自然の石を加工せずにそのまま積み上げています。

■野面積み■のづらづみ
この言葉は石垣に用いる石の加工具合を基準に分類した時の呼び名です。石を加工せず、そのまま積み上げる方法を野面積みと呼びます。この分類だと他に「打込ハギ」とか「切込ハギ」などがありますが、今回は説明を省略します。別途投稿していますので、ご興味のある方は覗いてみて下さい
→『城用語の記事へすすむ
今回は画像を中心に、浜松城の見事な野面積みを共有させて頂ければと思います。

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どれも自然の石。これを適所に選んでは積み上げるわけですから、その道のならではの勘と経験が必要とされますよね。

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不規則な石の大きな面は外側に向け、小さい面は内側に向け、隙間に小石を埋めて石を固定します。野面の「ツラ」とは、自然の石の表面のことを意味しています。

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現地に説明板がありました。小石と言わせてもらいましたが、役割によってちゃんと呼び名があるようです(長くなるのでこれはまた別の機会にご紹介します)。

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江戸城などと比べて「原始的?」と思われるかもしれませんが、野面積みならではのメリットもあります。石垣は表面を覆っているだけで、内部はあくまで土の塁です。雨水などの排水が上手くなされないと内部が膨張するなどして、塁が崩れる原因にもなります。野面積みは石と石の間に隙間があり、水が適度に排出され、塁の劣化を防げるという長所があります。実際、これらの石垣は4百年の風雪に耐えて今日に至っています。

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塁の隅ギリギリに建造物が築けられています。土塁だとこういう訳にはいきません。建物が飛び出ているのは石落としなどの仕掛けを設けるためです。

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徳川家康は約17年間ここ浜松城を居城としましたが、その頃は石垣のない土の城でした。

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家康が去った後も、浜松城はこのエリアの重要拠点であり続けたましたので、改修される過程で石垣の城となったわけですね。

ということで
野面積みの代表作といって良い浜松城の石垣のご紹介でした。野積みは中世の石垣でよく見かけますが、石の加工技術が普及する江戸時代においても、野面積みそのものがなくなった訳ではありません。文中にある通り、野積みならではのメリットもあるのです。

■訪問:浜松城
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年11月04日

引間城のなごり 浜松城内の古城

つわものどもが夢の跡
今回は浜松城の前身ともいえる城跡の話です。

<引間城跡>ひくま
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曳馬城跡(引馬城跡)と記された石碑です。かつてここには引間城と呼ばれる城がありました。

<浜松城の縄張り>
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右上が現在位置です。

<説明板>
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こちらの説明によれば『歴代城主には、尾張の斯波方の巨海氏・大河内氏、駿河の今川方の飯尾氏』が記されています。これだけで、ここ浜松(昔の地名だと引馬)が、遠江一帯を支配する斯波氏と、駿河を支配する今川氏が鎬を削った地ということが伝わってきますね。両氏とも足利一門の名家。名門同士の抗争の場となったわけですね。説明文にある大河内氏(斯波氏に与していた大河内貞綱)が支配する浜松は、やがて今川氏の納めるところとなり、今川配下の飯尾氏が支配することになります(飯尾氏が築城者という説もあります)。

今川氏の拠点だった引間城を徳川家康が攻め落とし、城を拡張しました。まぁ引間城をのちの浜松城の原形とみなせなくもないのですが、本丸がまったく別のところに移っていることと、縄張りがかなり異なるので、やはり「のちに別の城が築かれた」と受け止める方が良いような気がします(個人意見)。

説明文には、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康が逃げ帰ったことも記されています。その当時はまだここ引間城が家康の拠点だっのでしょうか。それ以前の家康の拠点は三河国岡崎。武田に備えるべく本拠地を移しました。その後入城する豊臣系の城主以降、城は更に増改築され、引馬城のエリアは主郭から外れていったようです。なるほど。家康が一気に改修したという訳ではないのですね。

家康は『ひくま』という名を嫌い(馬を引く=負ける=縁起が悪い)、地名を浜松に改めました。浜松城の一部となった旧引間城部分は「古城」と呼ばれ、その区画は米蔵として利用されたようです。

<引馬城跡の遠景>
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ちょっと離れたところから撮影。丘の上に築かれた城だったようです。現在は東照宮が建てられています。

<元城町東照宮>もとしろちょう
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家康ゆかりの地である浜松の東照宮ということで、ごく自然に受け入れたものの、意外なことに、創建は明治になってからとのこと。

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境内はあまり広くありません。この付近がそのまま本丸だったのでしょう。

<拝殿>
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先ほどの説明板には、明治19年に旧幕臣の井上延陵(えんりょう)が東照宮を勧請したと記されています。この方は北辰一刀流の剣豪であり、明治には第二十八国立銀行の頭取に就任した人物。家康ゆかりの地に東照宮がないことを憂い、浜松城の前身である引間城の本丸跡に東照宮を建立したようです。

<二人の天下人>
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拝殿横には徳川家康と少年時代の豊臣秀吉の像。浜松は家康ゆかりの地ですが、秀吉が武士になるべく下積みをした地でもあります。


<つわものどもが夢の跡>
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徳川家康は29歳から45歳までの長きに渡り浜松を拠点とし、出世の道を切り開きました。ここ引間城本丸跡は、その始まりの地ということですね。

------■ 引間城 ■------
別 名:曳馬城
築城主:詳細不明(今川氏)
築城年:詳細不明(15世紀頃)
城 主:飯尾氏(今川氏)
    徳川家康・堀尾吉晴
現状:元城町東照宮
[静岡県浜松市中区元城町]


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2020年07月15日

高天神城のなごり

つわものどもが夢の跡
武田勝頼徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた城跡を訪ねました。

<高天神城本丸>たかてんじんじょう
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■三方が断崖絶壁■
高天神城は三方が断崖絶壁という天然の要害です。麓からの比高約100m強の山に築かれたこの城は、激戦を繰り返すごとに進化を遂げ、最終的には東西二つのエリアに分かれた一城別格(中核となる曲輪が二か所ある)の構造となりました。

<高天神城の全体図>
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[現地撮影:高天神城想像図]
東側の峰がもともとの高天神城で、本丸が配置されています。西側の峰がどの時代にどの程度利用されたかはわかりませんが、武田勝頼が城を拡張した時に、ひとつの城として完成したようです。大きな山城ではありませんが、とにかく斜面が垂直に近い急こう配となっており、比較的緩やかな西側には堀切や横堀が設けられています。

<平面図>縄張り
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[現地撮影]
城好きの人がこの平面図だけを見たら、普通の縄張りと思うでしょうね。でも現地で実感するそれぞれの高低差を加味して眺めると、巧みな配置と思えます。

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■今川から徳川■
城の始まりについては定かではありません。鎌倉時代に地頭の砦が築かれたという説もありますが、一般的は駿河の守護・今川家が遠江攻略のために城を築いたのが始まりとされています。今川家の勢力は駿河遠江三河の三ヶ国に及びましたが、桶狭間の戦い(1560年)で当主・今川義元が討たれて以降、徐々に衰えていきます。1568年には武田信玄が駿河に進攻、同時期に徳川家康が遠江に進攻して高天神城を占領しました。家康は今川に服従していた城主・小笠原長忠をそのまま家臣とし、今後は対武田の前線基地となるであろう高天神城を守らせました。

駿河と遠江の国境に位置する高天神城。城主・小笠原長忠の守りは堅く、1571年には武田信玄が大軍で攻めかかりましたが、僅かな兵で籠城し、これを凌いでいます。あの武田信玄でも落とせなかった城ということですね。高天神城は難攻不落の城として世に知られるようになります。

<高天神城からの眺め>
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■武田勝頼対徳川家康の争奪戦■
いわゆる『高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。

(1574年:第一次高天神城の戦い)
武田信玄が1573年に没したのち、今度は跡を継いだ勝頼が高天神城を攻めます。勝頼はこの城の攻略の為に拠点として諏訪原城を築いたうえで、2万5千の大軍で高天神城をとり囲みました。城主の小笠原長忠は籠城で耐えながら、浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍は来ませんでした。その間にも武田勢の力攻めにより、曲輪は次々に落とされていきます。残すは本丸のみとなった長忠は、城兵の助命と引き換えに降伏しました。

勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許され、去る者の身柄が拘束されることもありませんでした。城主の長忠は、助けに来なかった徳川を見限り、武田へ降る道を選びました。

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武田勝頼は遠江をほぼ手中におさめることに成功しました。高天神城は武田の手により改修され、旧今川家臣の岡部元信が城将として入りました。

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さて
ここまでは勢いのあった武田勝頼ですが、1575年の長篠の戦い織田徳川連合軍に大敗。優秀な家臣たちをまとめて失った上に、とりまく環境(上杉や北条との外交関係)も変化し、勢いを失っています。


(1581年:第二次高天神城の戦い)
勢いを失った武田に対し、徳川の反撃が始まります。守りの堅い高天神城に対し、徳川勢は力攻めはせず、兵糧攻めを行います。周囲に砦を築いて包囲し、補給路を断ちました。城は本国の武田勝頼に救援を求めますが、援軍は来ません。多く城兵が餓死し、最後は城将の岡部元信らが城から討って出て、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。

援軍を送れなかった

徳川家康にも事情があったように、武田勝頼にも苦しい事情がありました。しかし奪ったはずの城を奪い返され、更に援軍を送れなかったことは、武田の威信を失墜させました。その後の家臣団離反の一因になったとも考えられています。高天神城は城そのものの機能だけでなく、それくらい重要な意味を持つ拠点でした。

家康が奪還後、高天神城は城としての役割を終えました。


■現地訪問■
<石碑>
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城の北側から登りました

<搦手門跡> からめてもん
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大手とは逆側です

<登山道>
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ひたすら登る

<三日月井戸>
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いわゆる井戸というより岩肌から水が湧き出て溜まるところなのでしょう。これも貴重な水の手。なぜか金魚が泳いでいました。

<もうすぐ曲輪>
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曲輪への入り口が見えました

<井戸曲輪>
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名の通りで貴重な水を確保している区画です。籠城の際、飲み水を供給できる井戸曲輪は生き残りをかけた生命線となります。
<井戸>
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『かな井戸』と呼ばれる井戸。『かな』は鉄分と関係がありそうです

<西の丸への階段>
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二つの峰の西側へ、登った先は高天神社です

<高天神社>たかてんじんじゃ
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西の丸付近に鎮座している天神社。もともとは別の曲輪(御前曲輪)に鎮座していましたが、江戸時代にこちらへ移されました。高い所にある天神さまということで高天神と呼ばれています。

<西の丸>
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西側の峰の頂上です

<堀切>ほりきり
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西の丸から馬場平へ向かう途中の堀切です。西の丸側から撮影していますので、奥が馬場平です。

<馬場平>
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ここは険しい山城の上層に位置しています。見張番所があったと考えられています。

<細い尾根道>
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犬戻り・猿戻りと言われる難所です。本国の武田勝頼に敗戦を知らせるべく、家臣が駆け抜けたと伝わります

<二の丸ほか>
以下は西側の峰の周辺の画像です。改修により補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。
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東側へ移動

<的場曲輪>
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<本丸虎口と土塁>
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<本丸>
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高天神城の本丸。東側の峰の頂上です

<元天神社>もとてんじんしゃ
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天神社は元々こちらにありました

<御前曲輪>
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本丸の南側の区画です

<三の丸と土塁>
sn477d (1).JPG
sn477d (2).JPG

以上です

■つわものどもが夢の跡■
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝。ここで勝つか負けるかは、武田勝頼と徳川家康のその後の運命にも大きく影響しました。
<元天神社>
shirononagori477x.JPG

------■高天神城■------
別 名:鶴舞城
築城主:福島氏
築城年:詳細不明(16世紀初頭)
改修者:武田勝頼
城 主:小笠原氏・岡部氏
廃城年:1581年(天正9)
[静岡県掛川市上土方・下土方]



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2020年07月13日

最後の改修者のなごり 高天神城の横堀

今回は高天神城に残る長い横堀の話です。
<横堀>よこぼり
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この堀は徳川から奪い取った城跡を、武田勝頼が改修した時に掘られた横堀です。

<説明板>
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武田による堀であることが記されています

高天神城は三方が崖であるのに対し、西側の斜面だけはやや緩やかになっています。この弱点を見極め、高天神城を西から攻め落とした勝頼は、城を手中にするとこの弱点を克服すべく城を改修しました。

<高天神城の全体図>
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[現地撮影:高天神城想像図]
この図は一城別郭(いちじょうべっかく)の代表例として扱われる高天神城が完成した状態。いわば城の能力がピークの時です。ご覧のように、西側(左手)の峰と東側の峰で、まったく別の城があるかのような構造になっています。

城は東側の峰に砦が築かれたことから始まります。城が拡張される過程で、西側の峰がどのように利用されていったか詳細は分かりませんが、勝頼の改修時に『ひとつの城』として完成しました。

<西側の守り>
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sn455r (2).JPG
sn455a (2).JPG
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冒頭の堀のみならず、後から補強された西側には、戦闘を強く意識した防衛施設が集中しています。天然の地の利に頼らず、人が意識して設けた仕掛けが盛りだくさんです。この付近で言うと堀に加えて土塁や切岸(土の壁)、そして堀切といった防衛施設が散りばめられています。あまり大きな城ではないだけに、これらを一気に見て回れるところが城好きにうけるのかもしれません。

<つわものどもが夢の跡>
砦から始まり、今川・徳川・武田それぞれの手で改修されてきた城跡です。家康は高天神城を武田から奪還すると廃城としましたので、最後の改修者は武田勝頼ということになります。

sn455a (1).JPG
勝頼の思いが形となって残っています。

■訪問:高天神城
(二の丸〜袖曲輪付近)
[静岡県掛川市]
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2020年07月10日

荒々しい山城で出会ったほのぼのパネル武将(高天神城 御前曲輪)城主・小笠原信興のなごり

武田と徳川による壮絶な争奪戦のなごりを留める高天神城。歴史的な重みに加えて、かなり特徴的な縄張りと見事な遺構、そして荒々しい山肌。それほど大きくはありませんが、城マニアをうならせる『中世の土の城』です。そんな城跡ですから、あまり『観光地』という雰囲気は漂いません。それだけに、若干違和感があるのが下の画像です。

shirononagori442a.jpg
本丸の南側の御前曲輪で撮影。武将とお姫様を象った顔出しパネルです。

明らかに異質です。ちなみに、背後のコンクリートもこの城跡にあっては異質。では駄目なのか?いや、そういう意味ではなく、ちょっと浮いた感じがするのは事実です。

ただまぁせっかくですので(何が?)、現地で素通りしたとか、まったく興味がわかなかった方のために、あえてご紹介させて頂きます。無機質なコンクリートの方を先に説明すると、これは戦前に地元出身の軍医少将が『模擬天守』を建てたなごりです。建物は落雷で焼失し、土台だけが残ったものとのこと(現地説明板より)。ではひと際目立つあのパネルは?こちらはこの城を守った英雄です。

■小笠原信興■ おがさわらのぶおき
この方は地元に根をはる豪族であり、高天神城の城主です。通称は与八郎。もともと今川の家臣でしたが、今川に代わって遠江国の支配者となった徳川家康に属し、対武田の最前線にあたる高天神城の城主を任されました。

shirononagori442b.JPG
ここでは『小笠原与八郎長忠』と記されています。姫様は『奥方』のようですね。

高天神城は『高天神を制する者は遠江を制す』とまで言われた重要拠点です。1571年には、あの武田信玄が大軍を率いて高天神城に攻め掛かったこともありました。しかし与八郎こと信興は、わずかな兵で籠城し、武田軍を撃退しました。

凄いですね!

これにより、高天神城は難攻不落の城として知られるようになります。

しかし、これで終わりではありません。信玄亡き後の1574年、今度は武田勝頼がまた大軍を率いて高天神城に攻め掛かりました。繰り返しますがここは徳川の『最前線』なのです。攻める武田も必死です。小笠原信興は籠城しながら浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍が来ることはありませんでした。

家康にも事情があったとは思いますが、信興にしてみれば、約2ヵ月間も持ち堪えながら、誰も助けにこなかったことは重い事実。最後は城兵の助命を条件に降伏しました。

武田勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許されました。小笠原信興は最前線で奮闘する自分たちに援軍をよこさなかった徳川を見限り、武田に降る道を選びました。

まぁ家康に反旗を翻したことになりますが、籠城した兵たちの無駄死にを避けたという結果を伴っており、武将として筋が通らない話とは思えませんね。更に、小笠原氏はもともと地元の豪族ですから、自然な流れとも言えます。

■つわものどもが夢の跡■
<高天神城からの眺め>
shirononagori441 (5).JPG
小笠原信興も眺めたであろう景色です

武田に降ったあとの小笠原信興の消息については、諸説あってはっきりしていません。ただ、直後の徳川勢との闘いで、小笠原信興が武田勢の先鋒だったという記録があります。

ということで
冒頭のパネル武将は、この城ゆかりの凄い武将だったというお話でした。

■訪問:高天神城 御前曲輪
[静岡県掛川市]



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2020年07月09日

信玄でも落とせなかった山城を攻略した武田勝頼 (高天神城) 

今回は偉大な父の跡を継いだ武田勝頼の話です。

■武田家を滅亡させたイメージ■
勝頼は武田信玄の息子であり後継者ですが、カリスマ武将の父との比較で、評価はあまり高くありません。武田家は勝頼の代で滅亡したことは事実ですから仕方ないですかね。ただ、まるで無能だったかのような扱いで描かれている映画や小説を目にすると気の毒で、当ブログでは何度か勝頼を庇うような論調で投稿させて頂いております。良かったら覗いてみて下さい

⇒武田勝頼は弱くない!(蒲原城)
→『記事へすすむ

⇒諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城)
→『記事へすすむ

今回もほぼ同じ内容です。
ただ、舞台は高天神城です。

<高天神城>たかてんじんじょう
shirononagori441ad.JPG
山城

shirononagori439 (3).JPG
曲輪

shirononagori441 (6).JPG
土塁

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城内からの眺め

要害の地に築かれた山城です。ここは遠州を征するのに欠かせない拠点。武田と徳川の激しい争奪戦が繰り広げられた場所です。あの武田信玄が大軍で攻めても落とせなかった難攻不落の城ですが、信玄の跡を継いだ勝頼により、一旦は武田の城となりました。

shirononagori441 (1).JPG
山城の西側の斜面のこの横堀は、武田時代に設けられました。高天神城を西から攻め落とした勝頼が、弱点を補うために構築した跡です。


■出戻り四男の当主■
武田勝頼は信玄の四男。母は信濃国の諏訪家当主・頼重の娘で、信玄が諏訪領を攻略したのち、諏訪家へ送りこまれました。諏訪四郎勝頼を名乗り、武田配下の一勢力として武功を挙げたと伝わります。

そのまま何事なければ、勝頼は諏訪家の当主として、父や兄をサポートする役割を担ったはずです。しかし嫡男である兄・義信が、謀反の疑いで武田家を継ぐ権利をはく奪されるに至り、他の二人の兄が候補者に成り得なかったことから、勝頼は諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

勝頼は信玄の実の子です。ただ、一旦は諏訪四郎勝頼を名乗った男。家臣団の間で既に諏訪家当主として浸透してしまっている立場から、武田家当主となるのは順当な流れではありません。名門武田家では、将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのが普通。しかし勝頼にはそれもなく、名前に武田家の通字である「信」もありません(勝頼の『頼』は諏訪家の通字です)。明らかに従来の『お屋形様』と比較して異質な存在でした。

1573年に武田信玄が亡くなり、勝頼はここで初めて武田姓に戻し、武田家の第20代当主となりました。信玄の死は突然のことで、残した課題はたくさんありました。勝頼は身内からの信頼も不安定なまま、信玄の死を機に巻き返しを図ろうとする織田信長や徳川家康と激突します。

信玄亡きあとの武田家は弱い?

とんでもありません。武田勝頼率いる武田軍は快進撃を続けました。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合い、更に勝利すること。勝頼は信玄の拡大路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。華々しい戦歴のすべてはご紹介できませんが、その代表例が、信玄でも落とせなかった高天神城の攻略です。


■第一次高天神城の戦い■1574年
高天神城の戦い』とは、武田勝頼VS徳川家康という構図で行われた重要拠点をめぐる2度の攻防戦の総称です。
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第一次』と呼ばれるのは1574年5月の戦い。武田側が勝利しました。勝頼は、信玄にも仕えた重臣・馬場信房を遠江に派遣し、高天神城を落とすための拠点として諏訪原城を築かせます。そのうえで、2万5千の大軍で押し寄せ、徳川方の小笠原信興(のぶおき)が千人で守る山城を落城させます。浜松の徳川家康は、援軍を出すことができませんでした。

信玄でも落とせなかった城を攻略

織田信長に「天下一強い」と言わしめた武将でも落とせなかった高天神城を、勝頼は落としました。勿論これだけで比較するつもりはありませんが、決して弱い戦国武将などではないのです。

shirononagori428 (1).JPG

この時、勝頼は籠城して抵抗した敵の諸将の命を奪いませんでした。将兵の助命と引き換えに降伏した城主との約束を守ったわけですね。希望する者は自らの家臣とし、去る者は追わなかったそうです。


■つわものどもが夢の跡■
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高天神城を攻略できたことで勝頼は自信過剰になり、家臣の助言を受け入れなくなり、それが原因でやがて滅亡したという考え方があります。実際はどうなんでしょうね。出戻りで嫡男でもなかった勝頼は、自信過剰になれるほどの余裕もなく、ただただ勝ち続けることでしか武田家を束ねられなかったような気がします。

■訪問:高天神城
[静岡県掛川市上土方嶺向]


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