今回は「出世の城」と呼ばれる浜松城です
<浜松城天守閣>
徳川家康が17年間にわたり居城とした城です
■浜松城の前身■
この地にはもともと曳馬城(引間城)と呼ばれる城がありました。浜松城の前身といわれる小規模な山城です。築城者については諸説ありますが、遠江今川氏4代当主の貞相が15世紀ごろに築いたという説が有力です。
<曳馬城跡の石碑>ひくまじょう
<引間城(曳馬城)説明板>
説明には尾張の斯波氏と駿河の今川氏の名が記されています。両氏とも足利一門の名家。この地は名門同士の抗争の場となったわけですね。やがて今川氏の治めるところとなり、その城を徳川家康が攻め落とし、拡張して浜松城を築きました。引間という地名を浜松に改めたのも家康とされています。
<元城町東照宮>
徳川家康が浜松城を築城すると、もともとあった曳馬城の区画は「古城」と呼ばれ、米蔵として利用されたようです。浜松城が廃城となったのち、東照宮が建立され今に至っています。
■徳川家康の城■
徳川家康のもともとの居城は、生誕の地でもある三河国岡崎城です。織田信長と同盟を結んだ家康は、拠点の西側を心配する必要がなくなったことから、長男の信康に岡崎城を任せ、武田信玄に備えるべく、本拠地を浜松に移しました。この時29歳。45歳までの17年間、ここ浜松城が家康の居城でした。
戦国時代屈指の武将の17年間は、こんなブログではとてもご紹介できないので、有名な戦いだけ下記に記しておきます。
1570年:姉川の戦い
〇織田・徳川 対 浅井・朝倉
1572年: 三方ヶ原の合戦
徳川 対 ◎武田信玄(武田圧勝)
1575年:長篠の戦い
〇織田・徳川 対 武田勝頼
1584年:小牧・長久手の戦い
△徳川・織田信雄 対 △羽柴秀吉
(戦は徳川勝利・交渉は羽柴勝利)
ちなみに
武田信玄が亡くなるのは1573年
織田信長が亡くなるのは1582年
です。
激動の、そして試練の時だったわけですね。特に武田信玄とまともに激突した三方ヶ原の戦いは、徳川家康の大敗として知られる戦です。命からがら浜松に逃げ帰った家康にまつわる逸話もたくさんあります。
戦い以外のドラマも沢山ありました。長男・信康が信長の娘と結婚するものの、やがて切腹。次男秀康に続き、のちに当主となる秀忠の誕生などなど。書ききれません。
<秀忠生誕の地>
ここ浜松城はやがて二代将軍となる徳川秀忠生誕の地でもあります。
■家康は駿府へ■
戦乱を生き残った家康の支配は、三河・遠江に留まらず、駿河や信濃にまで拡大していきました。そうすると、全てを統治するには、浜松はちょっと西に寄りすぎています。そこで、家康は本拠地を東に移すこととし、駿府へ入ることにしました。諸説ありますが、これが家康が浜松城を去る理由とされています。
<家康時代の浜松城>
家康時代の浜松城の説明板です。当時はまだ石垣は無く、土の城だったようです。
駿府は、三河生まれの家康が、8歳から19歳まで今川の人質として暮らした地。どのような思いだったのでしょう。ただ4年後の小田原征伐(1590年)ののち、家康は秀吉の命で更に東の関東へ移ることになります。
■天守閣■
徳川家康が関八州へ転封となると、浜松城には豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が12万石で入りました。浜松城に天守が築かれたのはこの頃とされています。
<天守閣(復元)>
鉄筋コンクリートで再建された天守閣。浜松城の天守閣については資料がなく、改修者である堀尾吉晴が築いた別の城の天守閣を参考に造られたました。
<天守台>
浜松城は天守閣よりその土台の石垣が有名です。
<野面積み>
自然の石を加工せずそのまま積み上げるいわゆる野面積みの石垣。崩れそう?400年の風雪に耐えて今に至ります。
ハート型の石がちょっとした人気です。どこだか分かりますでしょうか?加工はしてないのですから偶然ですね。
もともとの天守台の上に昭和の天守閣が載っている状態ということですね。
<天守門>
天守曲輪の大手に復元された天守門
<天守曲輪>
浜松城は本丸に天守閣があるのではなく、更に一段高い位置にある曲輪に設けられています
<徳川家康銅像>
こちらは本丸跡に設置された『若き日の徳川家康公』です
■江戸時代■
堀尾氏の支配は10年続きますが、関ヶ原の戦い後は、譜代大名の松平忠頼が美濃金山より5万石で入ります。その後は江戸時代を通して譜代大名が代々城主を務め(江戸260年間で25代の城主)、かつて家康が17年も居城としたこともあって、浜松城の城主はいわば出世コースとなりました。出世城とも呼ばれたそうです。老中だけでも5人。天保の改革の水野忠邦も、浜松城主を経験したのち老中となっています。
<縄張り図>
城下町も含めて整備がなされた状態。いわば浜松城の完成形ですね。縄張り図だと、中央の二の丸が本丸や天守曲輪より目をひきます。
<二の丸の説明板>
二の丸には、かつては政庁が設けられていました。この区画こそが、藩の政治の中心地だったようです。
ちょっと城の外に
<宿場町のなごり>
街中でこんな説明板に足が止まりました。『本陣跡』です。本陣というと、戦で大将が陣取る場所と勘違いされそうですが、この場合は大名や幕府役人のために宿場に置かれた宿のことです。浜松には、ここ杉浦本陣を含めて6つの本陣が置かれたようです。
<町のなごり>
こちらは高札場跡。こういった説明板はありがたいですね。
<大手門跡>
縄張り図にもある大手門がこの位置ということですね。浜松城公園まではまだ距離がありますが、この付近から先はかつては城内だったということですね。
そして
<城跡>
城の多くは失われましたが、中心部にはかつてのなごりが漂います
浜松城の廃城は明治になってから。現在は浜松城公園となっています
<公園>
庭園を含む公園として整備されています。
2017年には続日本100名城にも選定されました
以上
徳川家康が17年間居城とした浜松城のなごりでした。家康本人のみならず、250年以上続く徳川幕府の原点となった城とも言えますね。そして、幕府の幹部となる家臣の登竜門となった城です。
<つわものどもが夢の跡>
----------■浜松城 ■----------
別 名:出世城
築城年:15世紀頃(曳馬城)
築城者:不明(今川氏)
改修者:徳川家康 堀尾吉晴 他
城 主:飯尾氏 徳川氏
堀尾氏 水野氏 他
廃 城:1871年(明治4)
[静岡県浜松市中区元城町]
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