2019年08月04日

城用語 三日月堀・丸馬出

今回は堀の形状でよく耳にする三日月堀のご紹介です。

<三日月堀>
shirononagori359 (1).JPG
諏訪原城跡で撮影した三日月堀です。その名の通り、三日月のような形をした堀です!構造そのものは絵図の方が説明しやすいので、下の画像をご覧ください。

<絵図>
shirononagori359 (2).JPG
[撮影:諏訪原城ビジターセンター]
こんな感じです。複数の三日月堀が配置されていますね。

■半円状の区画とセット■
三日月型の堀は、全て半円状の区画とセットになっています。この半円の区画と外部を隔てるため、堀は結果として三日月状になります。更に注目すべきは、これらが城のどこに配置されているかです。絵図を良く見て下さい。城の出入り口に配置されていますね。

出入り口のことを、城用語では虎口(こぐち)といいます。この虎口のすぐ外側に設ける区画のことを城用語では馬出しといいます。まぁ名の通り、馬を待機させておく場としても機能しますが、それだけではなく、戦闘用の曲輪の一つと捉えた方がいいかもしれません。実際に、馬出曲輪と呼ばれることもあります。大きな意味では城の出入り口の防御のためですが、攻め手を迎撃する時に効果を発揮するので、極めて攻撃的な施設といえます。

この馬出しが半円になっている。これを「丸馬出」といい、武田氏がよく用いたとされています。そして丸馬出しとセットなのが三日月堀。この構造が全て武田氏によるものとは限りませんが、まぁ私個人のイメージでも、丸馬出し・三日月堀と聞けば武田流の築城術です。

■馬出しの効果■うまだし
まず馬出しと堀があることで、攻め手は虎口に直進することができません。更に、馬出しそのものに土塁が設けられているので、中の様子をうかがい知ることもできません。敵は堀を迂回しようとして分散された上に、土塁の内側に潜む城兵の力量も見積もれないまま戦うことになります。また、城内からもよく見える場所でありながら、虎口を目指す攻め手の行動範囲が限定されるため、狙い撃ちしやすくなります。つまり、馬出しと城内の双方から攻撃することができます。また、左右にある馬出しの出入り口のうち、どちらか片方に敵が押し寄せてた場合は、逆側から馬出しの外へ飛び出して背後を狙うことも可能です。

繰り返しになりますが、馬出しは防御施設でありながら、極めて攻撃的なのです。


<諏訪原城の三日月堀>
shirononagori359 (3).JPG
駿河・遠江はもともと今川氏が拠点とした場所ですが、甲斐の武田氏が侵攻した結果、多くの城跡に武田流の築城術が取り入れられています。ここ諏訪原城の三日月堀も武田氏によるもの?と思いきや、最近の調査で、武田滅亡後に徳川家康が改修した時のものと結論づけられたそうです。ただ、優れた技術は継承されていくもの。当時として最高レベルの武田流築城術を、家康も真似たのでしょう。そう考えると、やはり武田流と言っても良いのかもしれませんね。

以上、三日月堀と丸馬出のご紹介でした。

■訪問:諏訪原城
[静岡県島田市金谷]

■絵図の引用:
諏訪原城ビジターセンター
[静岡県島田市菊川]1174

shirononagori359ad.JPG
説明に使用した絵図はこちらの施設で撮影しました。入場無料でトイレも完備。諏訪原城の説明は勿論、城の楽しみ方などがパネルで分かりやすく紹介されています。



お城巡りランキング
タグ:城用語
posted by Isuke at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2019年06月22日

早雲生涯の居城 韮山城のなごり

つわものどもが夢の跡
戦国初期の英雄・北条早雲生涯の居城を訪ねました。
shirononagori345 (33).JPG

■韮山城■ にらやまじょう
北条早雲の城として知られる韮山城。その築城年については、あまりはっきりしたことは分っていません。既にあった小規模な城を、この地を領有することになった早雲が、本拠とすべく本格的な改修を行ったと考えられています。早雲が小田原城を攻略して相模へ進出したあとも、韮山城は早雲の本拠であり続けました。

生涯の城

韮山の城は北条早雲にとってそういう城でした。


■北条早雲■ ほうじょうそううん
北条早雲と言えば、素浪人から大名にのし上がったいわゆる下剋上の典型のようなイメージですね。ただ最近の研究では、名も無き浪人ではなく、室町幕府で要職を務めた一族の出という説が有力になっています。本名とされる伊勢新九郎、伊勢宗瑞が示す通り、名門とされる伊勢氏の出。早雲も幕府の役人を務め、その頃に名だたる寺で禅を学んだとされています。こういったことは、早雲本人の生き方に影響しただけではなく、子・氏綱や孫・氏康といった戦国に名を残す後継者たちにも影響を及ぼしているのかもしれませんね。ちなみに、北条早雲とはのちの呼び名で、ご本人は北条を名乗っていません。話が長くなるので、今回は北条早雲で通します。

今川家の客将となった早雲は、当主・義忠が戦死するとまだ幼い嫡男・龍王丸をサポートし政敵を排除。この頃、兵を率いて駿河へやってきた太田道灌とも面会しているようです。

龍王丸が氏親を名乗って今川家当主になると、早雲には伊豆に近い興国寺城が与えられます。この城を拠点に、早雲は伊豆へ進出。最大勢力の内紛に乗じて伊豆堀越御所を襲撃し、堀越公方足利政知の子・茶々丸を追い払います。そして焼き払った御所近くの城を改修し、拠点を興国寺城からこの城へ移します。これが今回訪問の韮山城です。

さて
支配者を追い払ったぐらいでは国を治められません。韮山城へ移った早雲は、味方になるなら本領を安堵することを領民に約束し、更に税の負担を軽くし(四公六民)、配下の兵には乱暴狼藉を禁止しました。茶々丸の悪政に苦しんでいた領民は、たちまち早雲に従ったと伝わります。

<城内>
shirononagori345 (9).JPG
戦国初期の英雄の城です。北条氏の拠点が小田原に移ったあとも、伊豆の統治、そして武田氏などに対抗するための防御拠点として、韮山城は重要な城でありつづけました。


■北条氏規■ うじのり
小田原北条氏にとって重要拠点であり続けた韮山城。戦国末期となり、秀吉が20万を越える大軍で北条征伐に乗り出した時には、北条氏規が城を守っていました。氏規は第4代当主・氏政の弟です。織田信雄(信長の次男)率いる4万とも言われる大軍を前に、氏規は10分の1以下の約3千6百の兵で応戦し、韮山城で約百日間も持ちこたえました。

shirononagori345 (27).JPG

兄の氏照(八王子城主)や氏邦(鉢形城主)と比較して、武勇ではやや地味な印象の氏規ですが、これは善戦と言って良いのでではないでしょうか。開城を促すべく、天下軍が力攻めをしなかったという説もありますが、百日これに応じなかったことは事実です。

最後は秀吉に派遣された徳川家康の説得により、城を明け渡すことに。この背景には、北条側の主要な城が既に落とされていたこともありますが、城主である氏規本人が、交渉役となった家康と親交があったことも影響したと思われます。氏規は人質として今川家へ送られ駿府で過ごした経験があり、同じく人質であった家康とは古くからの知り合いでした。

そもそもの話として、氏規はこの戦には反対でした。一族存続のため、秀吉へ臣従するべきと主張していたのですが、兄の氏政・氏照らがこれを認めず、巨大な勢力を敵にまわすことになりました。

■廃城■
北条氏滅亡後は、家康の家臣・内藤信成が伊豆国1万石を与えられ入城します。その内藤信成が駿府城を与えられ4万石の領主となる時に、韮山城は城としての役割を終えています(1601年)。


■現地訪問記■
<城池親水公園>
shirononagori345 (1).JPG
韮山城は典型的な山城です。麓は公園として整備されていて、ご覧の通り大きな城池となっています。この日は友人の車で訪問。公園の駐車場に車を停めて探索開始です。

<道標>
shirononagori345 (2).JPG
韮山城は右手ですね。とても親切な公園なので、道に迷うこともありません。ちなみに、表示のある江川邸は重要文化財にもなっている代官屋敷跡です。今回はあくまで韮山城そのものにテーマを絞っていますが、隣接する山にも複数の砦が築かれたそうです。

<説明板>
shirononagori345 (3).JPG
予習しなくてもここでじっくり読めば充分です。

一部だけ抜粋すると『明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。』とのこと。また、城が築かれた山は、通称・龍城山と呼ばれるそうです。左側が城の縄張り図。南北に細長い山の尾根上に、曲輪が直線的に配置されています。

では
説明板の位置から進入しやすい三の丸方面へ向かいます。

<山城>
shirononagori345a (2).JPG
本来なら険しい道のりのはずですが

shirononagori345a (1).JPG
登城口にはこういった木段が設けられています。草木を掻き分けて登るような覚悟は不要です。

<三の丸の土塁>
shirononagori345 (4).JPG
ついに来たかという満足感で一杯でした。三の丸の一部はテニスコートとなっていましたが、それもまた良し。市民から親しまれている城跡ということですね(人影が見えたので撮影せず)。テニスコートの三方を厚みのある土塁が囲んでいる状態です。

<堀切と虎口>
shirononagori345 (7).JPG
堀切が見えました。別の曲輪への入口(虎口)です。

<道標>
shirononagori345 (8).JPG
この先は三の丸の南側の権現曲輪ということですね

shirononagori345 (11).JPG
とりあえず案内に従って権現曲輪方面へ

<熊野神社の鳥居>
shirononagori345 (17).JPG
権現曲輪を象徴する景色です。ここが一番心癒されましたかね。奥の土の壁は、二の丸の切岸です。荒々しく閉鎖的な空間ですが、中央に鳥居があるだけで凛とした空気が漂います。

<熊野神社の社殿>
shirononagori345 (15).JPG
早雲が城の守り神として祀ったことに始まります。

<高低差>
shirononagori345 (14).JPG
高低差を味わいながら下から見上げた社殿。熊野神社付近は、明らかに周辺とは違う雰囲気の区画となっているので、櫓を築くなどしたなごりではないでしょうか。

<上から見た三の丸虎口>
shirononagori345 (16).JPG
これはテニスコートがあった三の丸へ向かう木段を、上から撮影したものです。ボッーと歩いていると、この位置から撃たれていたことになりますね。要所要所でそんなことを感じるのも、現地ならではの楽しみです。

次に二の丸・本丸方面へ向かいます。ここから一気に

shirononagori345 (18).JPG
堀切の道を進みます

shirononagori345 (22).JPG
通り抜けた先に広い区画があるようです

shirononagori345 (21).JPG
二の丸跡ですね

shirononagori345 (23).JPG
山頂からの眺め

shirononagori345 (24).JPG
そして本丸跡です

shirononagori345 (25).JPG
本丸より先の尾根づたいに、更に魅力的な遺構が続きます。方角でいうと城の南側です。

shirononagori345 (26).JPG
ちょっと構造が分りにくいですが、左手は土塁で、その下は道になっています。むかしどのように使われていたのかが分からず

shirononagori345 (29).JPG
人の手による工夫がしっかりと巡らされています。どのように機能していたのか分からず

shirononagori345 (30).JPG
この付近は塩曲輪とか煙硝曲輪とか呼ばれるエリア。食糧にせよ火薬にせよ、物資を備蓄していた区画ということでしょうか。私はそう受け止めました。

shirononagori345 (31).JPG
障子堀かと思うような構造でしたが、ちょっと分からず。凝った堀が必要な場所とは思えなかったので、勘違いということにしておきます。

経験不足から、南側の区画では遺構の具体的な役割を想像することができませんでした。ただどれも興味深く、今回の訪問で最も時間を割きました。

shirononagori345 (32).JPG
切り立った崖の上に設けられた細長い区画の探索もここまでです。

最後は山の麓へ

shirononagori345 (36).JPG

shirononagori345 (37).JPG

shirononagori345 (35).JPG
この窪みは船の利用と関係しているのでしょうかね

shirononagori345 (40).JPG

shirononagori345 (42).JPG
この付近まで湿地が迫っていた。そんな雰囲気が漂いますが、あくまで個人の見解です。

ちょっと駆け足になりましたが、城内はだいたいこんな感じです。


■つわものどもが夢の跡■
ネズミが2本の大杉を食い倒し、のちに虎となる。
これは早雲が見た夢の話です。ネズミは子年生まれの自分であり、大きな2本の杉は、即ち当時関東で勢力を誇っていた山内と扇谷の両上杉氏のこと。早雲はこの夢をきっかけに関東進出を決意しました。やがて息子の氏綱が関東で勢力拡大、そして孫の氏康が両上杉氏を実質的な滅亡にまで追い込みました。よく二代目はダメという話を耳にしますが、逆に二代三代とますます拡大していった北条氏。代々受け継がれたのは、出来上がってしまった地位やら富ではなく、未完のままの夢だったのではないでしょうか。

夢の結末を知ることなく、早雲は韮山城で没しました。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori345 (19).JPG

------■韮山城■------
別 名:龍城
築城主:詳細不明
築城年:詳細不明
改修者:北条早雲
城 主:北条早雲・北条氏規
廃城年:1601年(慶長1年)
[静岡県伊豆の国市韮山]



お城巡りランキング
タグ:北条
posted by Isuke at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2018年10月28日

暗渠と城跡18 谷戸の水と興国寺城

(興国寺城の追記です)

暗渠と城跡

山麓の地形を利用して築かれた興国寺城。高台から低地へ降り立つと、見事な暗渠が続いていました。
<低地と山城>
shirononagori278 (33).JPG
[沼津市根古屋]
深い谷戸から続く暗渠。奥の山が城跡です。

■暗渠と城跡■あんきょ
当ブログでは、都市化によって埋もれてしまった川と城を、「暗渠と城跡」と題して投稿させてもらっています。

コンセプトとしては
「暗渠に気付くアンテナがあると、街の中の城跡巡りが一層楽しくなる。川のなごりを感じることは、城のなごりを感じるのと同じ」
とまぁこんな感じです。水は川や沼、湿地といった形で城の防衛に大きく貢献しますからね。姿を消した水を感じれば、同じ縄張り図を見ても感慨深いものがあります。

ただ都市化が極端に進むと、視界を遮る高いビルが立ち並び、川跡と城跡を実感しにくい場合もありますね。まぁそれを乗り越えて実感に至るというプロセスも、楽しみといえば楽しみなのですが・・・

今回のご紹介の「暗渠と城跡」は、構造として極めて分かり易い状態。周辺に遮るモノがなにもありません。いわば「都市から建物を取り除けば、暗渠と城跡はこんな感じ」という仮想の構造見本です。こういうある意味中途半端というか、開発途上の状態を頭に入れておくと、街中の城巡りでも、より想像力が働くのではないでしょうか。

■山の麓の城■
静岡県の東部の愛鷹山(あしたかやま)、ご存じでしょうか?富士山の南隣に位置する山。東海道から見れば、手前にある山です。富士山麓同様、愛鷹山の麓も水が豊富。地図で見ると、あちらこちらに山側から海に向う水の流れが確認できます。

今回訪問の興国寺城は、そんな山の麓の最先端に位置します。平野との境目のような場所。
城の東と西の両サイドが谷戸。つまり、水が山のすそのを浸食して形成した谷です。南側で台地(山の裾)が途切れますので、何もしなくても三方は低地。そんな場所です。

山に降った水は、川となって流れ落ち、高低差を失ったところで溜まりやすくなる。つまり、城跡付近の低地には水が溜まりやすい。まさに天然の要害だったと考えられます。
縄張りで重要なのは、まずはこういう場所選び。地の利の無い場所で堅固な城を築くには、相当な労力が必要になります。曲輪や堀の配置を考える前に、どんな場所を選ぶかは築城者の腕の見せ所です。

これはここ興国寺城のような山麓の城に限らず、いま東京23区内で都市に埋もれてしまっている城にとっても同じです。世田谷城、奥沢城、、、これらはあまりに都市化されて実感が湧きにくいですが、ビルを取り除き、コンクリを剥がせば、武蔵野台地の地形を上手く利用していることがわかります。街の構造物を無視して、地形に注意を払い、想像してみる。これが街の中の城巡りのコツなんです。

さて、話を興国寺城周辺に戻します。

<山城の西側より>
shirononagori278 (35).JPG
谷戸から山を撮影。手前の低地には自然の川が流れ、湿地帯だったのでしょうね。

<平らな土地>
shirononagori278 (34).JPG
水は地表から姿を消し、平らな区画が広がっています。駐車場ではないのですが、探索中に車を止めさせてもらいました。

<暗渠>
shirononagori278 (36).JPG
湧き水が豊富なエリア。人が手を加えなければ、いまでもあちらこちらが水辺になっていることでしょう。周辺の水は効率よくこのコンクリの川に集まり、更に下流へ向かいます。蛇行もせず、溢れることもない。いわば優等生の川ですね(人にとって)。まだまだ余裕をもって眺めることができますが、いつかは周辺もコンクリに覆われ、建物が建ち並ぶのでしょうね。

<暗渠の行先>
shirononagori278 (37).JPG
人知れず大活躍しているこの暗渠は、道の向こうまで続いています。更に南で開渠となり、高橋川へ合流してから海へと繋がります。

<かつての水辺>
shirononagori278 (1).JPG
私はここまで「湿地」と説明してきましたが、ある程度の規模の沼があったとも考えられています。かつての沼津には、大小の沼があちらこちらに点在しており、それらを総称して浮島沼と呼ぶそうです。厳密なところまでは分かりませんが、この付近でも高台の直前まで、沼が迫っていた可能性もありますね。そして谷戸、そこに広がっていたであろう泥田。城を守っていたとされる水辺の話を、まだなんとなく受け入れやすい景色です。


<城の南端>
shirononagori278 (2).JPG
城跡の目の前まで道路が迫っています。訪問者が勝手なことを言って申し訳ありませんが、歴史ある貴重な城跡、もうしばらくはこののどかさと共存して欲しいですね。コンクリで覆われた街なかより、やはりこうして自然の中で城跡を味わいたいものです。自然の地形や水の流れを活かして、城は築かれるのですから。

姿は見えませんが、暗渠も水の流れ。それを意識した上で、広々とした平地を眺めれば、かつての湿地の姿が容易に想像できます。


お城巡りランキング
タグ:暗渠と城跡
posted by Isuke at 06:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2018年10月27日

早雲始まりの城 興国寺城

つわものどもが夢の跡
北条早雲の最初の居城として知られる沼津市の城跡を訪ねました。

<興国寺城>
shirononagori278 (12).JPG
北条早雲はのちに関東覇者となる小田原北条氏の祖。韮山城を拠点としたことで知られていますが、最初の城はここ興国寺城です。当時の名は伊勢新九郎盛時。北条早雲は後世の人による呼び名です。

■興国寺城■ こうこくじじょう
国の史跡に指定されています。山の麓に位置し、低湿地に向かって半島状に突き出した台地上に築かれました。城の東西は谷、南方は低湿地という天然の地形を上手く活かした縄張りです。

先述の通り、北条早雲が旗揚げした城として有名ですが、ここ沼津はそもそも戦国時代の激戦区であり、北条氏のほかに今川氏武田氏、そして徳川氏とも関わりのある城です。東海道に続く竹田道と根方街道が交差する交通の要所。重要拠点であり続けたわけですね。

■築城■
築城の時期は不明です。1487年頃の今川家の家督争いで、今川氏親を助けた北条早雲が富士郡に所領を与えられ、この城に入ったということですから、その時には既に興国寺城は存在していたわけですね(早雲が築城者ではない)。この地にはもともと興国寺という寺があり、寺の移転後に城が築かれました。

■現地訪問■
低地から山に向かって曲輪が配置された連郭式の山城です。南側の低地から探索を開始しました。

<平地>
shirononagori278 (7).JPG
昔は湿地だったと思われる平地

<平地との高低差>
shirononagori278 (3).JPG
この高低差が城の始まり。奥へ進むほど高くなっていきます。

<三の丸から二の丸>
shirononagori278 (5).JPG
手前が三の丸。奥に向かって二の丸、本丸と続きます。曲輪同士の高低差はあまりなく、緩やかな山の裾野を平らに造成して築いたようですね。奥がこの城の見どころですが、当初城が築かれたのはこの三の丸付近(16世紀半ば頃)で、奥へ向かって拡張していったようです。湿地帯の微高地を利用した小規模な城から始まったわけですね。

<本丸>
shirononagori278 (8).JPG
一番広い曲輪です。奥が行き止まりになっていますね。山の一部?と見間違いますよね。あれがこの城の最大の特徴と言えるでしょう。

<本丸の北側の土塁>
shirononagori278 (9).JPG
圧倒的な迫力の「土塁」です。

当然登りますが、その前に土塁手前(つまり本丸の奥)の神社へ

<穂見神社> ほみじんじゃ
shirononagori278 (10).JPG
穂見神社です。創建は1857年。安政の大地震による津波の影響(塩害)で凶作が続き、この地に農業神を祀るに至ったようです(現在の山梨県南アルプス市の穂見神社から分祀)。
右手には北条早雲、そして家康の家臣で駿河国興国寺藩主となった天野康景の碑があります。

<幟と説明板>
shirononagori278 (13).JPG
続日本100名城スタンブラリーの幟が風になびいていました。左手は説明板。すぐ裏は土塁。

<説明文>
shirononagori278 (11).JPG
戦国大名北条早雲が初めて城主となった城・・・

<北条早雲石碑>
shirononagori278 (14).JPG
説明文にもありますが、ここがあの北条早雲の旗揚げの場所かと思うと、何とも感慨深いですね。初代城主と彫られてますが、どうなんでしょうか。まぁそこはあまりこだわりません。早雲は今川氏の後継者をめぐる対立を解決し、領地を与えられてこの城に入りました。やがて堀越公方家(足利茶々丸)を倒し、韮山城を築城して伊豆を制覇。小田原、三浦半島へ勢力を拡大しました。

さて、いよいよ土塁の探索です。

<土塁の上の道標>
shirononagori278 (21).JPG
先ほど神社の上が天守台。そして土塁の向こう側は巨大な空堀となっています。

<土塁の上から撮影>
shirononagori278 (24).JPG
下に見えるのは先ほどの神社。高さもあり急角度です。

<土塁上から見た本丸>
shirononagori278 (23).JPG
凄い眺め

<堀側を撮影>
shirononagori278 (19).JPG
深い・・・

shirononagori278 (17).JPG
急勾配・・・

ではその堀へ降りてみますかね

<大空堀の中>
shirononagori278 (27).JPG
見事過ぎる大空堀。美しさすら感じます。画像だと普通の堀に見えてしまいますが、かなりの深さです。

<人と比較>
shirononagori278 (25).JPG
ちょっとスケールが伝わらないので友人に登場してもらいます。後ろ姿だから勘弁ね。

<人と比較2>
SN278facemsked.JPG
先を行く友人は右折、北の丸を目指して再び登り始めました。手前は振り返った私です。別の友人が撮影してくれました。この堀がどれだけ深いか、分って頂けると思います。

<大空堀の底>
shirononagori278 (29).JPG
そろそろ出口へ

<堀の途切れるところ>
shirononagori278 (30).JPG
構造的に、普段は城の出入り口しても使用されていたのではないかと感じましたが、あくまで個人の感想です。右手に石垣のようなものが映っていますが、そういう地層と考えた方が良さそうです。

<出口>
shirononagori278 (31).JPG
出ました。かつては湿地だったと思われる低地です。

それにしても凄い土塁と空堀でした。こんな莫大な土を全部積み上げたのか?詳細不明ですが、山の麓に位置していることから、もともとの不規則な傾斜地を利用し、本丸側と堀側の両方を削り、その土も盛ったと想像する方が現実的なように思います(これも個人意見です)。


■江戸初期まで続く城■
繰り返しになりますが、この地は有力な戦国大名がしのぎを削った場所。興国寺城の主は、今川・北条・武田・徳川といった具合に目まぐるしく変わりました。

北条氏の拠点が小田原に移っていた頃、興国寺城は再び今川氏配下の城になっています。その今川氏が桶狭間の戦いで敗れると、今度は駿河に侵攻した武田氏の城となりました。これを小田原の北条氏が奪回。しかし武田氏と北条氏はのちに和議を結びますので、興国寺城はまた武田氏の配下となります。この時は、武田一門の穴山梅雪の家臣・保坂掃部介が城主として興国寺城に入りました。その武田氏が滅ぶと、興国寺城は徳川の配下に。そして関ヶ原の戦いのあとは、家康の家臣である天野康景が城主となりました。

かなり省略しましたが、大筋はこんな感じです。諸説あるのを承知でまとめてしまいました。お許し下さい。

■最後の城主■
天野康景は三河の奉行として徳川家に貢献したのち、1万石を与えられて興国寺藩主となりました。農政や治水工事に尽力する優秀な藩主であったようですが、領内での揉め事の裁定を巡って失脚。蓄えていた資材を盗もうとした天領の農民を、自藩の足軽が斬ってしまい、この者を幕府に引き渡すことを拒否して出奔したそうです。

興国寺城の最後の城主、なんとも立派な方ではないですか!話の筋を重んじる方だったようですね。それにしても、三河時代からの忠義の武士にこんな思いをさせてしまっては、団結力の強い徳川家臣団の絆にひびが入ったりしないのですかね?

康景が没したあとの話になりますが、息子の康宗は赦免され、天野氏は旗本として存続します。ということで、ちょっとだけ救われる話で納まっています。


■廃城■
天野康景の出奔が1607年(慶長12年)の出来事。このタイミングで興国寺城は廃城となりました。北条早雲がこの城に入ってから、百年以上あとの話です。

<つわものどもが夢の跡>
shirononagori278 (28).JPG
この城は早雲始まりの城です。まずそれだけで満足。そして巨大な土塁は早雲より後の時代のものと思われますが、これはこれで純粋に城として見事。ほれぼれする遺構でした。

来て良かった。

心からそう思える城跡でした。

-------■興国寺城■-------
別 名:根古屋城 杜若城
築城年:不明(15世紀後期)
築城者:不明
城 主:北条氏・武田氏・松平氏 他
廃 城:1607年(慶長12)

[静岡県沼津市根古屋]


お城巡りランキング
posted by Isuke at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2018年10月21日

武田勝頼は弱くない 城跡巡りで感じること

(蒲原城訪問の追記です)
<蒲原城の北曲輪>
shirononagori275 (28).JPG

今回訪問の蒲原城跡は、ほんとうにいろんなドラマのあった山城です。今川の城であり、北条の城でもあり、武田の城でもあります。こんな拙ブログではとてもその全てご紹介できませんが、訪問してみて、かなり個人的な思い入れになりますが、城を攻略した武田勝頼のことが頭を離れません。

<険しい山城>
shirononagori275 (35).JPG
1569年、勝頼は北条新三郎が立て籠もるこの山城を攻略します。

蒲原城の要害性を見極めた勝頼は、力攻めを避けます。城を落とせても、自軍が痛むことが得策でないことを承知しているからですね。勝頼は兵の一部を率いて城の前を素通り。これを見た北条側は、武田勝頼を討ち取るチャンスとみて、城門を開いて飛び出します。すると、この時をじっと待っていた残りの武田兵が素早く動き出し、更に勝頼率いる兵も城に押し寄せ、蒲原城は落城となりました。
 
堅城に籠城する敵を、知略で落とした勝頼。素晴らしいですね。他の城跡巡りでも時々思うのですが、武田勝頼という武将は、とても優れた人物なのではないでしょうか。あの武田信玄と比較されるので、どうしても見劣りし、世間一般でもあまり強いイメージがありません。むしろ低く見られる・・・。

戦歴をひとつひとつ見みれば、決して弱くなんかないのです!むしろ賢く勇敢な戦国武将!甲斐源氏に相応しい武田家第20代当主!第19代の信玄の輝きがまぶし過ぎるだけなのです。

shirononagori275 (11).JPG

勝頼は生い立ちからして苦労の人。挙げ句の果てに、信玄が残した無理難題を引き受けた男・・・なんですがね。

駿府の城の追記なので、今回はここまでにします。
このような勝手な言い分にお付き合い頂き、ありがとうございました。


お城巡りランキング
posted by Isuke at 06:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

駿府激戦の山城 蒲原城のなごり

つわものどもが夢の跡
かつて駿府にあった激戦の山城を訪ねました。

<蒲原城跡石碑>
shirononagori275 (19).JPG

■今川氏の重要拠点■
築城時期は明らかではありませんが、今川氏によって、南北朝時代に築かれたのではないかと考えられています。戦国時代になると、今川氏の家臣にして一族でもある蒲原氏が守る拠点となっていました。位置的に今川領の東側に睨みを利かす城ということですかね。今川氏にとっての重要拠点であり続けました。

shirononagori275 (18).JPG

■今川氏の衰退■
1560年の桶狭間の戦い。超有名な戦いですね。織田信長が、たった数千の兵で今川の大軍を破った戦いです。この敗戦を機に、名門・今川氏の力はあっという間に衰退しました。今川領はどうなってしまうのでしょうか?
ここで、今川氏とは同盟関係にあった小田原の北条氏が援軍として駿河に進出。今回訪問の蒲原城は、実質北条氏配下の城となりました。

■今川領分割案■
崩壊しそうな今川を支援する北条。同盟国を守る「義」ともとれますが、甲斐の武田氏が出てくると厄介という事情もありますね。かといって駿河だけに拘るわけにもいきません。北条氏は関東でもライバルと戦わなければなりません。戦国時代はホント大変ですね。

この局面で、武田信玄は北条側(氏康と氏政)に対し、今川領の分割を提案します。つまり『まぁ互いに争うより、半分ずつ分け合いましょう』ということですね。

相手にも利益があり、己も利益を得ようという交渉ですから、いわゆるWin-Winの提案。ただ北条側はこれを拒否しました。そう、この提案では今川氏が置き去りになっていますよね。北条氏はこれを受け入れませんでした。

Win-Winはよく使われる言葉ですが、もともと経営学用語。経済では済まない、人としての何かがあるということですね。最後の最後に、北条氏はその何かを優先した。こういう解釈、私は好きですね。

shirononagori275 (23).JPG

■武田の駿河侵攻■
武田軍の進攻が始まります。今回訪問の蒲原城は重要拠点。当然戦乱に巻き込まれます。1569年、武田勝頼が率いる軍に攻撃されて落城。この時の城主は北条一族の新三郎。あの北条早雲の孫です。配下の兵約7百人とともに全滅だったと伝わります。
蒲原城は武田氏の支城となりました。

■孤立する武田■
蒲原城が武田配下になった4年後(1573年)、あの武田信玄が他界します。これは一大事ですね。そして1575年の長篠の戦いで、当主の座を継いだ武田勝頼の軍は、織田信長・徳川家康連合軍に大敗してしまいます。一般的に、ここで既に勝負あったかのようなイメージですよね。しかし勝頼は、その後も何とか生き残る道を画策。1577年には北条氏政の妹を継室に迎えて同盟を強化します。

その翌年、今度は越後の上杉謙信が亡くなります。これは直接関係ないようで、実はその後の運命を大きく左右しました。勝頼は上杉の後継者となる景勝と和睦(甲越同盟)。景勝と後継者争いをした景虎は北条出身ですので、北条氏から同盟を破棄されることに繋がりました。北条氏は織田・徳川と手を組みます。これにより、武田の立場はますます苦しくなりました。

■廃城■
しばらく武田の支配だった蒲原城。織田・徳川連合軍による武田領侵攻が始まると、徳川軍に攻められ落城(1582年)。後の小田原征伐の時(1590年)に徳川軍が陣を張った実績がありますが、実質はこの時に廃城となっていたようです。


■現地訪問■
城跡巡りはほぼ一人ですが、この日は久しぶりに会社の仲間2人とともに探索。現地まで車で送ってもらい、ちょっと楽させて頂きました。ありがとうございます。

<駐車場>
SN Kanbarajo P.JPG
山を登る途中に駐車場があります。麓から歩いた方が険しさを実感できますが、他の城も行く予定なので、この位置から登ることにしました。向かい側にはトイレもあります。右手の小さな建物です。

<相棒>
shirononagori275 (36).JPG
この日お世話になった車と携帯で各々情報を確認する二人。イケメンですが、プラプラ遊んでる様子が勤め先で広まると面倒なので、顔は隠させて頂きました。車のナンバーも。

<案内板>
shirononagori275 (1).JPG
駐車場から尾根道を進んで行くと、山城への侵入口付近に案内板があります。ここで大筋どんな構造か分ります。

<蒲原城址鳥観図>
shirononagori275 (3).JPG
丘陵地帯に位置しますが、蒲原城が築かれたのは独立峰。典型的な山城です。山の標高は約150m。手前はもう海ですから、比高もそんな感じでしょう。本丸(主郭)は山頂。まぁ基本ですね。南北に長い区画となっています。その北東側に堀が設けられ、その先がまた曲輪。他にも西側から南側にかけては土塁や切岸などなど。本丸から外側へ向かって、高低差を意識した城の仕掛けが散りばめられています。これら全ては無理ですが、その一部を探索する。今回はそんな感じですね。

<険しい>
shirononagori275 (6).JPG

<良く見えないけど堀>
shirononagori275 (4).JPG
現在は公園ですが、迫力満点で「城のなごり」が漂います。ただもうちょっとだけ草が刈ってあると助かりますね。まぁガッチガチに再造成されてしまうより、趣があって良いのかもしれません。

<山登道>
shirononagori275 (7).JPG
道は確保されていますので、草を掻き分けるといったことなく登れます。

<遺構の中>
shirononagori275 (8).JPG
お仲間二人が草木に覆われた斜面に何か見つけたようです。注意深く見れば、あちらこちらで城の痕跡に気付きます。

<大空堀>
shirononagori275 (5).JPG
ところどころこんな案内があります。この下は空堀。ちょっと撮影困難ですが、現地では谷になっていることが実感できます。ちょっと深すぎるので、もともとの地形のような気もしましたが・・・(個人の感覚)

<遺構と夏草>
shirononagori275 (9).JPG
「夏草や兵どもが夢の跡」などという情緒に浸る余裕もなく、てくてくと進んでいきましたが・・・

shirononagori275 (15).JPG
ちょっと行く手を阻まれました。凄い草の量!ただこれは脇道(正確には細長い曲輪)。頂上までのコースは、ちゃんと確保されていますので、訪問される方はご安心を。あと、他の方のブログを見ると、もうちょっと草が刈ってあります。タイミングが悪かったかもしれません。

shirononagori275 (10).JPG
傾斜と草の具合で、この上は曲輪だと分ります。ここから登るのは得策でないと判断し、一旦通りすぎることに。ただ、結局は後でチャレンジすることに。

shirononagori275 (11).JPG
押し寄せる自然

<説明板:布橋桜>
shirononagori275 (14).JPG
仲間の一人が佇んでいましたが、周辺に木々が多く、私はどの木を指しているのか確認しないまま通り過ぎてしまいました。ちゃんと読み返すと、深い謂れがあるようです。

無茶なことをしなくても、登山道から遺構を確認できます。

shirononagori275 (16).JPG

shirononagori275 (13).JPG

shirononagori275 (12).JPG

<駿河湾>
shirononagori275 (20).JPG
まもなく頂上というところで撮影。右手に見える海に突き出た陸地が、東海道の難所と呼ばれる薩垂峠(さったとうげ)です。この城を無視して、東西に行き来することは叶いませんね。

<主郭・南曲輪>頂上
SN Kanbarajo T.JPG
主郭は神社(城山八幡宮)となっています。冒頭の石碑のほか、討死した北条新三郎(戒名のため現地では分からず)の供養碑があります。この日は穏やかな日でしたが、海風をまともにくらう場所ですね。

<南曲輪の北の隅>
shirononagori275 (24).JPG

<主郭から見た別の曲輪>
shirononagori275 (25).JPG
主郭から見た北側の曲輪。来る途中に断念した善福寺曲輪(北曲輪)です。残念ながら間に空堀があり、ここからは行けないようです。


<善福寺曲輪虎口>
shirononagori275 (34).JPG
帰りに再チャレンジ。ここが善福寺曲輪の虎口、そして立っている場所は曲輪の下に設けられた腰曲輪でした。
何も見えませんが、草を掻き分けるしかありません。ここだけは一人で突入しました。曲輪の側面に石垣らしきものを見ましたが、草ボウボウで撮影できず。

<善福寺曲輪(北曲輪)>
shirononagori275 (31).JPG
視界が開けました。奥に木造の物見櫓が復元されていますが、木に覆われて遠くは見えません。

shirononagori275 (32).JPG
善福寺曲輪碑

shirononagori275 (29).JPG
発掘調査で出土したもの説明

shirononagori275 (22).JPG

城内はだいたいこんな感じです。

■つわものどもが夢の跡■
<険しい山城>
shirononagori275 (35).JPG
激戦区だけに、いろんなドラマがありました。その欠片だけでも感じることができ、有意義な訪問となりました。

------■蒲原城■------
築城主:詳細不明(蒲原氏)
築城年:詳細不明(南北朝時代)
城 主:蒲原氏(今川家臣)・北条氏他
廃城年:1582年頃

[静岡県静岡市清水区蒲原]



お城巡りランキング
タグ:北条
posted by Isuke at 06:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2017年05月29日

真田の不落城 上田城のなごり

上田城のなごり

<本丸の水堀>
Uedajo (1).JPG

とても有名です
上田城は真田昌幸により築かれた千曲川沿いの平城。徳川軍を二度も退けたことで、難攻不落の城として知られています。2016年の大河ドラマ「真田丸」で更に有名になりました。日本百名城にも選ばれています。

真田家
真田一族は現在の長野県上田市を本拠地とする土豪でした。武田氏との関係ですが、昌幸の父である幸隆が、武田信玄の家臣となった時から始まります。幸隆は信玄が欲した砥石城を攻略するなど、武田家臣団の中で頭角を現していきます。

よく「真田三代」という言葉を耳にしますが、「幸隆・昌幸・幸村」のことを指している場合が多いですね。私もそういう認識です。まぁ真田の家を軸に考えると、昌幸の次は幸村ではなく、兄の信幸なんですが・・・。当主として着実に真田家を守った兄より、華々しく散った弟の方が人気は高いですね。

また、昌幸も長男ではなく三男。一時は跡継ぎのいない武藤家(甲斐の有力な国人領主)の養子となり、武藤喜兵衛と名のっていました。しかし二人の兄が長篠の戦いで(1575年)で戦死してしまいます。昌幸本人もこの負け戦いに加わっていましたが、総大将である武田勝頼の身辺を守っていたことから、命までは落としませんでした。兄の信綱や昌輝は、ともに武田二十四将に数えられる武将。武田滅亡へ繋がる大敗は、昌幸から兄にして強力な味方だった二人を奪いました(三男昌幸は真田の家に戻り、家督を相続します)。

真田の城
昌幸は兄から引き継いだ「真田本城」を拠点としていましたが、上田の地に新たなに城を築きます(もともとあった館に目を付け大規模に拡張)。1583年、これが上田城の始まり。

表裏比興の者
表裏比興(ひょうりひきょう)の者とは、いわゆる「卑怯」とはちょっと意味が異なり、「老獪なやつ」とか「くわせ者」といった意味になります。今でこそ真田の名は有名ですが、信州から上州にまたがる小勢力に過ぎません。大きな勢力の風向きに翻弄され続けます。それでも真田を守り続けた昌幸。昌幸を「表裏比興の者」と評する場合、嘲るようでありながら、才覚を褒めるような微妙なニュアンスが含まれています。


<上田城跡公園>
Uedajo (3).JPG
表裏比興の者と言われた真田昌幸が本領発揮した城の跡です。昌幸はこの城で徳川軍を二度も退けました。
しかし・・・
関ヶ原の戦いで西軍に与したことから昌幸は幽閉され、その翌年上田城も一旦破壊されてしまいました。じゃ現在の城跡は?これは仙石氏時代に再整備されたものになります。

<上田城大手門>
Uedajomon.JPG
右手の石垣のなかには「真田石」と呼ばれるひときわ大きな石があります。信之が松代藩移封となった時、持ち出そうとしたが運べなかったとか・・・。昌幸が息子に向かって「わしゃ〜動かんからな!」と言ってるようで、ちょっと笑ってしまう話です。

<つわものどもが夢の跡>
Uedajo (2).JPG
再整備され形は変わっても、私にとっては真田昌幸の城です。

-------■上田城■-------
築 城 主 :真田昌幸
築 城 年 :1583年(天正11年)
主な城主:真田氏 松平氏
(廃城は明治になってから)
[長野県上田市二の丸]


お城巡りランキング
posted by Isuke at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2017年03月15日

海賊城の縄張り 伊豆長浜城

(伊豆長浜城のつづきです)

■海の山城■
海側に突き出した小さな半島を利用した城です。山城?と分類して良いと思います。

<第二曲輪>
sirononagori Ngahama5.JPG
この区画(画像手前)が一番広い曲輪です。櫓が見えますが、その向こう側が第一曲輪。山の頂上です。

<海に突き出る曲輪>
6izunagahama (6).JPG
第一曲輪から撮影。半島先端の頂上から下に向かって高低差のある曲輪が連続して配置されています。それ自体は珍しくありませんが、その先に堀でも湿地でもなく、海が広がっていることがとても新鮮です。

<下から見上げると>
6izunagahama (8).jpg
登り降りはできますが、ほぼ確実に城兵に邪魔される構造。防衛施設である曲輪が段々畑状になっていると思って頂ければ良いかと思います。

<更に下ると海>
6izunagahama (1).jpg
城(突き出た半島)の両側が入江で舟溜りとなっており、湾の奥で波も穏やかなことから、現在でもたくさんのヨットが。舟の基地としては最適の場所なのですね(舟の知識ありませんが、きっと)。城の機能で言うと「馬出し」といったところでしょうか。

<曲輪と曲輪の間の堀切跡>
6izunagahama (9).jpg
「堀切」と表現してよいのか分りませんが、明らかに尾根を削って造られてます。ここに跳ね橋があったようです(柱がその目印です)。この位置、もともと第二曲輪と第三曲輪を切り離す「堀切」で、平時に通行しやすいように跳ね橋が設けられました。のちの時代に埋められ、幅を狭くして虎口に造りかえられたようです(現地説明板を参考に多少私が推定)。虎口とは、曲輪(くるわ)の入り口のことです。

<遺構>
6izunagahama (5).JPG
部分的に石垣も残されています。個人的には戦国期のものという気はしませんでしたが、雰囲気はありました。曲輪、土塁、堀切。全体として遺構に満足です。

<展示されていた模型>
6izunagahama (12).jpg
ようするに、城全体はこれを見るのが一番分りやすいですね。麓が海なので特殊な構造ではありますが基本的に山城の縄張りです。この山を登ったり下りたりしながら、城のなごりを肌で感じることができました。やはり実際に体感することは大切ですね。

■城用語 曲輪■
それにしてもこの模型、分りやすいですね。ここでちょっと城用語について。

山の中腹や頂上付近、平らな部分がありますね。こういう区画を「くるわ」といいます。漢字だと曲輪または(このブログでは曲輪で通しています)。その曲輪の重要度で、本丸とか二の丸とかに区分されます(よく耳にする「主郭」は、本丸と同じ意味です)。知ってしまえば簡単な理屈ですね。
その曲輪と曲輪の間を堀状に削ってあるのが見えますでしょうか?平地であれば「堀」ですね。山で尾根を削ってつくる堀を「堀切り」と呼びます。自然の地形をベースに、曲輪をどこに配置するかとか、堀や堀切りをどこに造るといったことを決めるのが「縄張り」。縄張りはいまでは別の意味で使われますね。

(ちょっと脱線しました)

■希な城■
ここ伊豆長浜城跡には、三井家の別荘が建っていた時期もあるようですが、それが取り壊されて以降は荒れる一方だったそうです。沼津市が用地を取得の上で整備し、現在の姿となっています。とてもユニークな城。珍しい山城を体感することができました。維持・管理に感謝致します。沼津市さん、ありがとうございました。

[静岡県沼津市内浦重須]


お城巡りランキング
posted by Isuke at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
検索
記事ランキング
[アクセスランキング]
  1. 1. 難航不落 金山城のなごり
  2. 2. 火の玉不動 大宮宿の水路と刑場のなごり
  3. 3. 上杉謙信の軍旗 毘沙門天と懸かり乱れ龍
  4. 4. 関東の連れ小便・政宗白装束の舞台 (石垣山城)
  5. 5. 東京国際フォーラムの太田道灌像
  6. 6. 高天神城のなごり
  7. 7. 山城山頂に残る神秘の溜池 金山城 日ノ池
  8. 8. 巣鴨駅近く 徳川慶喜ゆかりの地
  9. 9. 太田道灌が植えた槇の木(荻窪八幡神社)
  10. 10. 岡崎城のなごり
  11. 11. 岩槻城のなごり
  12. 12. 浜松城の野面積み
写真ギャラリー
カテゴリーアーカイブ
最新記事
プロフィール
Isukeさんの画像
Isuke
もともとは無趣味の仕事人間。土日は家でゴロゴロ。本ブログは、そんな男が急に城跡巡りに目覚め、てくてくと歩き始めた記録です。
プロフィール

お城巡りランキングに参加中 [参加させて頂いた雑誌]

クルマで行く山城さんぽ100 絶対インスタにアップしたい「絶対見たい名城」30選 (CARTOP MOOK ACTIVE LIFE 009)

[当サイトお勧め本]

図説・戦う城の科学 古代山城から近世城郭まで軍事要塞たる城の構造と攻防 (サイエンス・アイ新書) [ 萩原さちこ ]

小説上杉鷹山 (集英社文庫) [ 童門冬二 ]