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2020年06月18日

犬戻り猿戻り(高天神城)横田甚五郎が抜け去った尾根道

つわものどもが夢の跡
今回は天然の地形を巧みに活かした高天神城の険しい尾根道と、そこを駆け抜けた戦国武将の話です。
<甚五郎抜け道>
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ここは険しい山城の抜け道。細い尾根道が続き『犬戻り・猿戻り』とも言われる難所です。意味ですが、たぶん機敏な犬や猿ですら行きかけて戻ってきてしまう険しさということでしょう。
<説明板>
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軍艦の甚五郎が落城を報告すべく駆け抜けたということですね。以下に転記します。

『天正九年三月落城の時、二十三日早朝、軍艦横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城の模様を報告する為、馬を馳せて、是より西方の約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った』『この難所を別名犬戻り猿戻りとも言う』
[大東町教育委員会]

なるほど。大東町は掛川市と合併する前の町名ですね。『天正九年三月落城』ですから、これは当時武田が支配していた高天神城が、宿敵徳川勢に包囲され、兵糧攻めのあげく落城した時のお話です(1581年:第二次高天神城の戦い)。補給路も断たれ、城は本国に救援を求めましたが援軍は来ず、最後は城将の岡部元信らが城から討って出ますが、率いた兵とともに討ち死に。高天神城は落城となりました。この壮絶な戦いの最後に、軍監の横田甚五郎が難所から脱出し、本国の武田勝頼に落城を報告したということです。

<馬場平>
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城の西端の曲輪です。ここ馬場平から更に西へ延びる尾根道が『甚五郎抜け道』と呼ばれています。

■横田甚五郎尹松■ただとし
武田信玄にも仕えた武将です。祖父は武田二十四将の一人に数えられる原虎胤(とらたね)といいますから、古くから武田家に仕えた家柄ということですね。この時は猛将で知られる岡部元信とともに高天神城に入っていました。岡部元信が城を死守すべく武田勝頼に援軍を求めたのに対し、横田甚五郎は『武田全体の兵力の温存を優先すべき』という内容の書状を密かに勝頼に送っていたようです。つまり、戦略上重要拠点ではあるものの、高天神城に拘らないことを勧めたということですね。武田勝頼は一時期の破竹の勢いを既に失っており、取り巻く状況も複雑だったので、両者のどちらが正しかったのか分かりません。ただ少なくとも、岡部元信と横田甚五郎とでは、武田にとって良かれと思う選択が異なっていたわけですね。

岡部元信らの最後の奮闘もありましたが、高天神城は落城。

城が徳川勢に屈したことを甲州の勝頼に伝えるべく、横田甚五郎は冒頭の細い尾根道を馬で駆け抜けたそうです。犬や猿でも躊躇する難所を馬でですか。かなり厳しい道のりですね。勝頼は死地から生還した横田甚五郎を褒め、太刀を与えようとします。劣勢の勝頼としては、側近の帰還は素直に嬉しかったのではないでしょうか。しかし甚五郎はこれを断ったそうです。

負け帰って褒美を貰ったのでは
筋がたたない

甚五郎にもいろんな思いがあったのでしょうね。

■つわものどもが夢の跡■
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武田滅亡後、甚五郎は徳川家康の家臣となります。この尾根道を駆け抜けた先に、そんな将来が待っていようとは思いもよらなかったでしょうね。やがて江戸幕府が開かれると旗本となり、当時としては長生きをして、82歳で没しました(1635年)。

■訪問:高天神城 馬場平
甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)
[静岡県掛川市]


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2020年02月02日

荒子城のなごり 前田利家・慶次 傾奇者ゆかりの城

つわものどもが夢の跡
今回は誰もが知っている戦国武将が、若き日を過ごした城跡の話です。
<前田利家卿御誕生之遺址>
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こちらは前田利家生誕地を示す巨大な石碑です。ここは名古屋市中川区。前田利家が生まれた場所といわれています。

■荒子城■ あらこじょう
加賀百万石で知られる前田家も、もともとは尾張の地元豪族。今回の訪問地は、そんな時代に築かれた前田家の居城跡です。築城者は前田利昌(利春)。前田利家の父です。織田家に仕えて荒子の地を与えられ、城を築きました(1544年)。

<富士権現社>荒子城跡
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荒子城の鎮守とされたと伝わります。右手の標柱には「冨士大権現 天満天神宮」と刻まれています。現在の正式名は冨士天満社。

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御祭神は木花開耶姫命、菅原道真

城跡といっても、遺構は残されていません。そもそも平らな土地で、城として地の利があったとは言い難い場所です。文献によれば、平地に柵と堀を巡らしたシンプルな構造だったようなので、屋敷に近いものだったのかもしれませんね。

とはいえあの前田家が拠点とした場所。それだけで来た甲斐はあります。ちなみに、荒子という地名には、開墾まもない田という意味があったようです。


■前田利家ゆかりの地■
前田利昌が亡くなると、まず長男の利久が荒子城主を継ぎました。これは順当ですね。ただ利久はあまり体が丈夫な方ではなく、更に実子がなかったことから、織田信長は利家に前田家の当主となることを命じます。利家は四男ですが、この頃既に信長の下で活躍が認められていたからでしょう。主君の命により、利家は自身が生まれた城の城主となりました。

<石碑と説明板>
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<説明板>
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のちに大出世する利家が、初めて一城の主となった場所ということですね。

<荒子観音山門>仁王門
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荒子城跡近くの荒子観音です。1576年に前田利家によって本堂が再建され、この時に前田利家自身の甲冑も寄贈しているそうです。


■前田慶次ゆかりの城■
『花の慶次』のファンです。荒子城もちょっと関係しているので、触れさせて頂きます。
●前田慶次郎利益●とします
利家の兄である利久は、家督を継いだ際に妻の実家である滝川氏(信長の重臣・滝川一益の一族)から、利益を養子に迎えています。この人物こそ、いわゆる『花の慶次』の前田慶次郎利益ですね。異風を好む傾奇者(かぶきもの)として描かれる慶次が、当時どのような暮らしぶりだったかは分かりませんが、ここ荒子城で過ごしたことは間違いありません。つまり、この地は前田慶次にとってもゆかりの地ということになります。

義理の叔父にあたる前田利家は、『花の慶次』ではちょっと情けないオジサン武将として登場しますが、若いころは派手好みで喧嘩早い傾奇者だったそうです。そう考えると、『花の慶次』における二人の関係は、生涯傾奇者の慶次と、変わってしまった元傾奇者の利家という構図なわけですね。

●奥村助右衛門●
ちなみにですが、その当時の前田家の家老は奥村永福。一般的にはマイナーな武将かも知れませんが、『花の慶次』では助右衛門の名で気骨ある武将として描かれ、慶次の親友とされています。奥村永福は利久に仕えて荒子城の城代を務めていました。信長の命で荒子城が利家のものとなっても、利久の指示があるまで城は渡せないとして抵抗したそうです。主の指示で城を明け渡すと、浪人する道を選びました。(のちに帰参し、前田家のために再び奮闘します)。

■廃城■
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前田利家が1575年に越前国府中(福井県越前市)に移り、続いて利家の長男・利長も1581年に越前に移ったことで、荒子城は廃城となったようです。


■つわものどもが夢の跡■
前田慶次や奥村助右衛門にまで言及させて頂きましたが、やはり荒子城と言えばこの男で締めた方が良いですね。
<前田又左衞門利家>またざえもんとしいえ
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荒子駅前ロータリーの前田利家像です。槍の又左と呼ばれた利家らしい姿です。

<利家とまつ>
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まつもここで幼少期を過ごしています

利家は15歳で織田信長に仕え、赤母衣衆の一員に抜擢され頭角を現します。短気なところもあり、出奔して浪人となった時期もありますが、信長の許しもないまま勝手に桶狭間の戦いに参戦して活躍し、帰参を許されています。利家が兄に代わって荒子城主となるのは、その直後のことでした。まだ傾奇者だった頃ですね。

----------■ 荒子城 ■----------
築城主:前田利昌
築城年:1544年
城 主:前田利昌
    利久 利家 利長
廃城年:1581年頃
現 況:富士権現社
   (天満天神宮)
[愛知県名古屋市中川区荒子]


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2019年11月17日

大手門番所 掛川城大手門のなごり

つわものどもが夢の跡
今回は城門と番所の位置関係が絶妙な掛川城の大手門の話です。

<大手門の外観>
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威風堂々!立派です!

■復元された大手門■
実はこの門の存在を事前に知っていたわけではなく、掛川城から駅までの帰り道に偶然みつけました。行きとは違う道で帰ろう。そう思ったことが幸いしました。むかしのものではないことはなんとなく察知しましたが、とても雰囲気のある門です。

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見えないところもしっかりと

現地の説明板で、復元であること、そして本来の場所よりちょっとだけ北側に再建されたことは頭に入りましたが、既に歩き疲れていたので、帰宅してからちゃんと調べ直すことにしました。以下は掛川市のホームページからの転記です。
『平成7年(1995年)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。掛川城の表玄関にふさわしい楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。実際は現在地より50メートルほど南にありました。』
[出典:掛川市HP(2019/11現在)]

なるほど
復元ながら情緒も漂っていたのは、既に20年以上経過しているせいかもしれません。


■大手門番所■
さて
大きな櫓門に見惚れる一方で、奥に見えている建物が、何となく気になっていました。
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あれはいったい何でしょう?

<木造>
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いわく付の建物であろうことは予想できたのですが、その正体は?

<説明>
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番所ですか・・・

この番所は復元ではなく、江戸時代末期のものを移設したそうです。嘉永7年(1854年)に地震で倒壊してしまったので、安政6年(1859年)に建てなおしたもの。ギリギリとはいえ江戸時代の建物ですね。貴重です。そもそもの話として、比較的簡易的な建物である番所が、廃棄されずに保存され続けていること自体が珍しい。

この番所は大手門を通って出入りする者を監視する役人の詰め所。そして城と掛川宿とを連絡する唯一の番所だったと言われています。人が出たり入ったり。結構忙しかったのではないでしょうか

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番所の建物が出入り口に近すぎるような?

門と番所の位置関係、個人的にはにちょっと違和感がありました。しかしこれは発掘調査の裏付けがあることらしく、これで良いそうです。まぁこれだけ接近していると、こっそり通ることは出来ませんね。


ところで
現地の説明板にもありましたが、実際の大手門はもうちょっと南にあったとのこと。どうせ南へ向かって帰るだけなので、目印を探しながらゆっくりと移動すると

<大手門跡>
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ありましたありました。本来はここにあったわけですね。大手門も番所も。道路脇の小さな石碑ですが、これはまた別の意味で立派な痕跡。かつてあった大手門のなごりです。

■訪問:掛川城大手門
[静岡県掛川市城下]27番地


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2019年11月16日

掛川城のなごり

つわものどもが夢の跡
山内一豊の居城として知られている掛川市の山城を訪ねました。
<山頂の復元天守>
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■中世から始まる城■
始まりは駿河の守護大名今川氏が、勢力拡大を目論んで築かせた山城でした。築城者は今川氏の重臣・朝比奈泰煕(やすひろ)。以降代々朝比奈氏が城を守っていました。当初は子角山(ねずみやま)と呼ばれる丘陵に築かれていましたが、のちに龍頭山(りゅうとうざん)に移転。この龍頭山は、現在の復元天守が佇む山です。すぐ南側には逆川が流れ、天然の堀として機能していたようです。

<逆川>さかがわ
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現在の逆川

<掛川城公園>
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龍頭山と復元天守。典型的な山城です。独立峰に築かれていますので、正確には平山城ですかね。比高で30mくらいの山です。

隆盛を極めた今川氏も、桶狭間で今川義元が討ち死にして以降は勢力を失い、掛川城は徳川家康の支配するところとなります。

<霧噴き井戸>
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天守丸の井戸。この井戸には逸話があります。今川義元亡きあと、後継者の氏真が家臣の朝比奈氏を頼って掛川城へ逃げ込みますが、徳川家康に城が包囲されると、この井戸から霧が出て城を守ったとのこと。掛川城の別名『雲霧城』はこの逸話に由来します。
実際に霧が影響したかは別として、今川氏の忠臣・朝比奈泰朝は、掛川城に籠城して5ヶ月ものあいだ徳川軍の攻撃に耐え続けました。既に多くの重臣が武田或いは徳川に寝返っている状況で、立派な家臣ですね。ただいくら頑張っても、もう今川氏真救援のために掛川城へ駆けつけてくれる仲間はいません。朝比奈泰朝は主君である氏真の身の安全を条件に開城を決めました。

この攻防戦で、掛川城の守りの堅さを認識した家康は、徳川十六神将の1人に数えられる石川家成に城を守らせます。そして家康が秀吉の命で関東へ移封されたのち、あの山内一豊が掛川城へ入城することとなります。


■山内一豊の大改修■
戦国末期に入城した山内一豊は、掛川城の大規模改修に着手します。現在確認できる掛川城の縄張りは、ほぼ一豊の時代に造られたものです。

山内一豊は10年間在城しました。その間、城の改修に加えて城下町の整備、そして治水工事にも注力しました。城下町掛川の基礎を造ったわけですね。

<天守>
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木造による復元天守閣の先駆けです。掛川のシンボルです。1994年(平成6年)に再建されました。

天下分け目の戦に際し、一豊が徳川家康にこの城の提供を申し出た逸話は有名ですね。関ヶ原の戦い後、功績を認められた一豊は土佐国9万8千石を与えられ、掛川城を去ります。


■太田氏の城■
豊臣秀吉の直臣だった山内一豊が去ると、家康の異父弟・松平定勝に始まり、家康と関係が深い大名が次々と藩主となって掛川城に入りました。めまぐるしく藩主が変わる状況は、上野国館林藩より太田氏が入って以降は安定。太田氏は幕末まで7代にわたって藩主を務めました。

<全体図>
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■掛川城のなごり■
<復元天守閣>
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<天守丸>
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本丸より高い位置の天守丸にて

<忍び返し>
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鉄剣による『忍び返し』は高知城にもありますね

<狭間>
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向うに見えているのは二の丸御殿

<天守下門跡>
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<腰櫓台跡>
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<荒和布櫓>あらめやぐら
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<四足門>
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絵図を元に復元された四足門

<三日月堀跡>
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麓に設けた堀の跡

<二の丸御殿>
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書院造りの二の丸御殿は国の重要文化財に指定されています


■廃城■
やがて明治となり、廃城令によって城郭の建物の大半は壊されました。ただ、城郭の御殿が現存する例は珍しく、とても貴重な文化財として評価されています。1994年に再建された天守も、鉄筋などを使わない復元です。城の縄張りも実感できましたし、とても満足な探索となりました。

<つわものどもが夢の跡>
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-----------■ 掛川城 ■-----------
別 名:懸川城 雲霧城 松尾城
築城年:15世紀後半
築城者:朝比奈泰煕(今川家臣)
改修者:山内一豊
城 主:朝比奈氏 山内氏 太田氏
廃 城:1871年(明治4)
[ 静岡県掛川市掛川 ]1138-24


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欠川と呼ばれた川 掛川城下の逆川にて

この日は駅から徒歩で掛川城へ。まもなく到着というところで、橋を渡ることになりました。

<松尾橋>
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山頂に築かれた掛川城天守閣が既に見えていましたが、しばしここで足を止めました。城好きなら当然想像するであろうことを味わうために。

これが天然堀だったわけか

<逆川>さかがわ
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川の名は逆川。掛川城の南側を流れる天然の川です。この川はいわゆる暴れ川で、しばしば氾濫したそうです。堤防が欠けるということから欠川とも呼ばれ、それが当地の地名の由来となっています。

<逆川改修記念碑>
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松尾橋近くの記念碑です。生々流転の逆川と刻まれています。現地の説明板によれば『昭和57年9月10日、台風18号は掛川市に異常な豪雨を斉らし』て市の中心部に氾濫する濁流が溢れたようです。このため『明治橋より馬喰橋に至る1,800mの区間』『総額39,7億円』『昭和57年〜61年に至る5ヶ年事業により改修が完成した。』とのこと。
[出典:逆川改修おぼえがき]

掛川城の天然の堀だった時代は勿論のこと、昭和の終わりごろになっても荒々しい川であり続けていたわけですね。

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コンクリの護岸が欠けるということはもう無いでしょう。ただ欠川という呼び名には、今後とも引き継ぐべき深いメッセージがあるのかもしれませんね

■訪問:松尾橋
[静岡県掛川市掛川]

<次の投稿>
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松尾橋を渡れば山城が待っています


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2019年11月11日

千代と一豊と駿馬 清水銀行掛川支店にて

掛川城へ向かう途上、古風な建物と出会いました。

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城下町を思わせるこの素敵な外観。良く見たら銀行でした。清水銀行掛川支店です。建物も魅力的ですが、外壁のレリーフがひときわ目をひきます。場所が場所ですから、あの武将は掛川城主にもなった山内一豊?ですよね。お隣は遠くからはよく分からず、個人的にモーゼを思い出してしまいました。そんな組み合わせあり得ませんが・・・

<外壁のレリーフ>
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こて絵でしょうか?良くできています。モーゼに見えた人物の正体は一豊の妻・千代でした。千代と馬に跨る一豊です。ということは、この馬はただの馬ではありませんね。駿馬です。このレリーフは有名な逸話を表現したものだったわけです。

逸話とは

ある時、織田信長が配下の武将を集めての大馬揃えを行うことになりました。大馬揃えとは、まぁ簡単に言ってしまえば騎馬の優越を競いあう軍事パレードのようなものです。山内一豊は信長に仕えていましたが、あまり裕福な方ではなく、人前で披露するような馬を用意することはできそうにありません。周囲の者達も、一豊は欠席するのではないのかと噂したそうです。事情を知った妻・千代は大金を差し出し、一豊に駿馬を買うよう勧めました。一豊は、その大金が『夫の一大事に備えよ』と千代の母が嫁ぐ娘に持たせたものだと知ります。
大馬揃え当日、一豊は駿馬にまたがって現れます。周囲の驚きは当然のこと、その姿は信長の目にもとまりました。いきさつを知った信長は、「この馬を織田家中の者が買うことが出来ず、他家の者が手に入れようものなら物笑いの種になったであろう。よくぞ織田家の恥を未然に防いでくれた」と褒めたたえました。

ちょっと省略しましたが、だいたいこんなお話です。

これ以降、一豊は信長、そして秀吉に重く用いられるようになります。掛川城の城主となれたのは、秀吉の小田原征伐に加わった時の功績によるもの。のちには徳川家康に従い、やがて土佐国9万8千石を与えられます。この大出世の陰に、妻の千代あり。司馬遼太郎の小説で描かれた世界ですね。

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内助の功、妻のへそくり、銀行預金・・・いろいろと考えさせられる光景でした。清水銀行さん、粋な演出ありがとうございました。


■訪問:清水銀行掛川支店
[静岡県掛川市中町]2-5


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2019年11月10日

駿府城下 上石町のなごり

城下町を訪ねると、職業や身分に由来する地名をよく見聞きしますよね。鍛冶屋さんが住んだであろう鍛冶町、人形を作る職人又は扱う商人が住んだであろう人形町、染物商(紺屋)が多く住んだであろう紺屋町、呉服町、材木町、大工町などなど。身分だと鉄砲足軽が集結していたと思われる鉄砲町、同心町などなど。

今回訪問した駿府城の城下でも、職人や商人を職業ごとに分けて住まわせたなごりを感じることができました。呉服町、両替町などなど。そんななか「え?あぁそういうことだったのか」と思った名がありましたので、ご紹介させて頂きます。

■上石町■ かみごくちょう
<上石町>
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まず直感的に「かみいし」と読みました。城下町で石、ならば石材の職人集まった町だったのかな?

漠然と石工を想像しながら脇の説明を読んだら、由来はまったく別のものでした。

<説明>
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かみごくちょう?

説明によれば、ここは『本石町』とも呼ばれていたようです。『石』は『穀』の意味といわれており、実際にこの付近には豪商の米座があったとのこと。米座(こめざ)とは、まぁお米商人連合組合のようなものです。

駿府城跡で石垣を見たばっかりだったので、普通に石を想像しましたが、穀物の穀だったとは。米の単位を石で現わす場合がありますが、これと関連付けて受けとめてよいのかもしれません。いわゆる何万石といった時に使う『石』です。ちなみに、1石は大人ひとりの1年分の米の量にほぼ一致すると言われています。

説明の続きによれば、徳川家康の駿府在城時に、穀物販売を上石町と下石町に限定したことにより、穀物商人が集まったようです。

なるほど
駿府の場合、上は北で下は南。ここ上石町の南側が下石町だったわけですね。

これは面白いと思い、帰宅してから調べ直したところ、上石町も下石町も区画整理によりその名は無くなったそうです。歴史の裏付けがある素敵な名と思えたので、ちょっと残念。ただまぁ、だからこそ石碑に記したのですね。


<駿府城公園の家康像>
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江戸の町を築いたことで知られる家康さん。ここ駿府においても城下の町づくりに注力していたわけですね。。

ということで
駿府城公園からの帰り道のちょっとした気付きでした。小さなことでも、新たな発見は嬉しいものです。


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2019年11月05日

家康が青春時代を過ごした駿府(今川館)

(駿府城の追記です)

<駿府城本丸跡の家康像>
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徳川家康が少年時代を人質として過ごしたことはよく知られていますね。今川義元のもとで預かりの身となり、8歳から18歳までの約10年を駿府(現在の静岡市)で過ごしました。もう少し具体的言うと、今川家が本拠としていた「今川館」ということになります。

今川館のあった場所には、家康の手によって駿府城が築かれました。家康にしてみれば、勝手知ったる場所に新たな城を築いたわけですね。

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ただ、立派な城郭が完成した結果、もともとあった今川館の詳細はよくわからない状態になっています。専門家の方々のお話では、駿府城の本丸付近のようですが、詳細はまだはっきりはしていません。

今川家といえばもともと名門家であり、義元が当主の時には、大きな勢力を誇る戦国大名になっていました。ということは、さぞ大きな拠点を構えていたのだろう。そう思う方が普通ですね。私も、駿府城は今川義元の居城を修繕するかたちで築かれたのだと勝手に思っていました。ところが、実際はそうでもなかったそうです。義元はすぐ近くの山に山城を築いていたらしく、館は平時の拠点でした。

Sunpujo-Imagawayakata.JPG

駿河の覇者である今川家は、もともと京との交流も盛んで、当時としてはかなり文化レベルが高かったようです。そこに身をよせていた家康には、人質ならではの苦労もあったかと思いますが、一方で、かなり立派な教育を受けていたと伝わります。

人質なのに?

短期的な人質とは事情が異なり、将来は今川配下で、家臣として活躍することが期待されていたようです。しかし家康が19歳の時に、桶狭間の戦いで当主である今川義元が死亡。家康はこれを機に故郷の岡崎へ戻りました。

Sunpu-jo-Ieyasu.JPG

駿府は家康が晩年拠点とした場所であると同時に、のちの糧となる教育の機会を得た場所なのかもしれませんね。

■訪問:今川館跡
 (駿府城公園)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]


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2019年11月04日

駿府城のなごり

つわものどもが夢の跡
今回の訪問は天守台の発掘調査真っ最中の駿府城跡です。一般人も見学できると聞き、訪問しました。

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こちらは復元された駿府城の櫓です

■近世城郭■
戦国の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍職を三男の秀忠に譲り駿府へ移住しました。古い歴史の駿府城は、この時に家康の手によって近世城郭として築城し直されます。
<家康像>
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駿府城内で撮影。まぁ分かり易く言えば、駿府城は大御所の拠点ということですね。

<大手門跡>
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城の南側の大手門跡。食い違い虎口になっています。

<縄張り図>
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三重の堀を持つ輪郭式平城です。近世城郭らしく石垣を廻らせました。本丸の北西には5重7階の天守を配置したと伝わります。

天守はのちの火災(1635年)で焼失してしまい、その後再建されることはありませんでした。でも石垣で固められた天守台は残ります。明治時代に軍の誘致で取り壊され、堀も埋められてしまいますが、今回の発掘調査で地中に埋もれていた天守の基礎部分が明らかにされようとしています。

<発掘調査>
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一般人も見学できます。予約も必要なく無料です!

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埋められてしまったことが幸いしたとも言えますね。上部が取り壊されても、土中には基底部分が残されていました。
今回の調査で、天守台の下層から別の天守台も発見されたようです。別の天守?

<2つの天守台>
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2016年からの発掘調査により、まず家康が築いた天守台が見つかりました。更に、その天守台とは別の天守台が確認されました。これは豊臣時代のもの?というのが有力です。駿府城を築城した家康は、その後関東に国替えしています。もうひとつの天守台は、その後城に入った秀吉の家臣・中村一氏が築いたものとみられています。

奥が深いですね


■駿府城公園■
縄張り図では堀が三重になっていましたが、内側の堀は埋められ、外側の堀は一部埋められ、中堀が当時を思わせる雰囲気で残っている状態です。中堀の内側、つまり二の丸と本丸が駿府城公園として整備され、遺構と復元された櫓により、かつての城のなごりを楽しむことができます。城好きの方々からは厳しい言葉も聞かれますが、都市開発の波のなかで、平城を良くここまで残してくれているなと私は感心しました。

<中堀>
shirononagoriSunpu (11).JPG

<巽櫓>
shirononagoriSunpu (9).JPG

<二の丸>
shirononagoriSunpu (18).JPG

<坤櫓>ひつじさるやぐら
shirononagoriSunpu (47).JPG
二ノ丸の南西の方角に復元された櫓です。未(ひつじ)と申(さる)は方角を表しています。

公園を中心にご紹介しましたが、外にも断片的に城のなごりが漂います

shirononagoriSunpu22.JPG


■つわものどもが夢の跡■
長らく埋められていたことで確認できる遺構。正真正銘のなごりですね。
shirononagoriSunpu (34).JPG

----------■ 駿府城 ■----------
別 名:府中城 静岡城
築城年:1589年(天正17)
(今川氏居館時代除く)
築城者:徳川家康
改修年:1607年(慶長12)
改修者:徳川家康
城 主:徳川氏 中村氏
    内藤氏(松平氏)
廃 城:1869年(明治2)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]



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posted by Isuke at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2019年08月15日

諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城跡にて)

武田勝頼は弱くない!

以前そんなタイトルで投稿したことがあります。
その時のブログ→『記事へ進む
諏訪原城訪問で同じ思いが込み上げてしまいました。ほぼ同じ内容です。そんなのでも良ければお付き合い下さい。

<諏訪原城跡>
shirononagori361 (5).JPG


■弱いイメージ■
甲斐武田家第20代当主勝頼武田信玄の息子であり後継者です。でも信玄があまりに有名なことに加えて、勝頼の代で武田家は滅亡したことから一般的な評価はあまり高くありませんね。場合によっては無能な武将であるかのように思われています。でも城跡巡りに付随して知る勝頼の戦歴は、無能とは程遠いものばかり。今回の諏訪原城訪問で再びこの思いが込み上げてきたので、またちょっと触れさせて頂きます。


■諏訪勝頼■ すわかつより
勝頼は武田信玄(晴信)の長男ではなく四男。実は、生まれた場所や時期がはっきりとしていません(1546年とされています)。母は諏訪家当主・頼重の娘ですが、実名はよくわかっていません。
信濃国の諏訪家と武田家の関係ですが、信玄の父・信虎の時には同盟関係にありました。諏訪家は古くから軍神として名高い諏訪大社と深い関係にあり、神官と武士の双方の顔を持つ特別な一族で、高い権威を維持していました。しかし信玄の代になると、武田家は諏訪領へ侵攻。やがては第19代当主である諏訪頼重を自害に追い込み、領地を武田家のものとしています。この時、信玄は当主の娘を側室とし、生まれたのが勝頼でした。

諏訪家の血をひく勝頼は、旧諏訪領に送り込まれ、諏訪四郎勝頼を名乗ります。勝頼の『』は諏訪家の通字です。高遠城主となり、武田勢として戦にも参加して数々の武功を挙げています。何ごとなければ、武田信玄の優秀な四男として名を残した武将なのです。

<二の丸の外堀>
shirononagori360a8.JPG


■武田家へ戻る■
武田信玄の嫡男は義信。信玄のあとを継ぐはずでした。しかし謀反の疑いからその権利をはく奪され自害。三男・信之は既に亡くなっており、次男(海野)信親は目が見えなかったことから、四男の勝頼が諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

めでたく武田家の後継者に!と言いたいですが、諏訪家に行っていた勝頼が、将来自分たちのお屋形様になることに、抵抗感のある家臣が多かったことは否めません。

信玄の実の子!

ではありますが、家臣団の間では諏訪勝頼として既に浸透してしまっています。諏訪家は神官として一目置かれる一方で、武士団の勢力としては一般の国人衆と変わりありません。また、武田家の歴代当主は将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのに勝頼にはそれもなく、そもそも名に武田家の通字である「信」もありません。明らかにお屋形様となるべき武田家より格下。一門衆の一人に過ぎません。家臣団から見れば自分たちとほぼ並列という感覚でもおかしくはないのではないでしょうか。それが将来は自分たちより上の立場となる。

面白くねぇ

そういう目は避けられないような気がします。ということで勝頼、いろいろと気苦労があったのではないでしょうか。


■第20代当主■
1573年、武田信玄が亡くなります。勝頼はここでようやく家督を相続し、武田姓に戻しています。第20代当主の誕生です。

信長包囲網の主力である武田信玄の死により、織田・徳川連合軍は一気に巻き返しを図ります。信長は将軍・足利義昭を京から追放し、浅井長政ほかを滅ぼし、勢力を拡大していきます。では信玄不在、そして想定外の人物が当主となる武田家はどうなったのでしょうか?

当主となった勝頼は、信玄の拡大路線を継承して外征に乗り出します。1574年には、織田領に侵攻して明知城を落とします。同年、徳川領に侵入して、かつて信玄でも落とせなかった高天神城を落としています。

凄い勢いではありませんか!

ただこの戦いぶり、何やら悲壮な覚悟を感じずにはいられません。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合う事。勝頼は先代の路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。

今回訪問の諏訪原城は、ちょうどそんな時期に勝頼が築いた城です。高天神城を攻略するための陣城のような扱いだったのかも知れません。

<曲輪と土塁>
shirononagori361 (4).JPG

<内堀>
shirononagori361 (3).JPG

<石碑>
shirononagori360a4.JPG


■織田・徳川軍に大敗■
1575年の長篠の戦い で武田勝頼の軍勢は敗退。総崩れとなって敗走する中で、諏訪原城築城者の馬場信春を含む多くの重臣層を失うことになります。

この戦いに動員された武田軍の兵は1万5千と言われていますが、当時の勝頼の総兵力の半分以下です。出陣の際、織田・徳川連軍と総力戦になるとは想定していなかったのでしょう。織田信長が自軍を率いてやってくることを知り、馬場信春は勝頼に撤退を進言したと言われています。しかし勝頼は決戦を選びました。そして合戦の途中で不利に気付きながらも、やはり兵を退きませんでした。

こういった勝頼の判断について、専門家の方々によるいろんな批評がありますが、根底には、身内の統率に対する強い意識があったのではないでしょうか。数奇な運命から養子に出され、母方の家を継ぐつもりだった諏訪勝頼が急きょ武田勝頼となった。そんな本人でしか分からない、深い事情があったような気がします。

<国指定文化財>
shirononagori361 (2).JPG
築城者は馬場信春です

<諏訪神社>
shirononagori360s1.jpg
二の丸に祀られた諏訪大明神


■1582年自害■
勝頼は敗戦後も外交その他で生き残る道を模索しますが、中核の家臣を失った武田家の弱体化は否めません。やがて1582年、天目山に追い詰められた勝頼の自害により、戦国最強を謳われた名門武田家は滅亡しました。

以上で終わりです。

史実を確認しながら書きましたが、個人的な思い込みがかなり込められています。歴史好きの会社員のブログですので、そのあたりはご容赦下さい。似たような感覚の人の目に触れれば幸いです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

shirononagori360s.JPG



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posted by Isuke at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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