今回は誰もが知っている戦国武将が、若き日を過ごした城跡の話です。
<前田利家卿御誕生之遺址>
こちらは前田利家生誕地を示す巨大な石碑です。ここは名古屋市中川区。前田利家が生まれた場所といわれています。
■荒子城■ あらこじょう
加賀百万石で知られる前田家も、もともとは尾張の地元豪族。今回の訪問地は、そんな時代に築かれた前田家の居城跡です。築城者は前田利昌(利春)。前田利家の父です。織田家に仕えて荒子の地を与えられ、城を築きました(1544年)。
<富士権現社>荒子城跡
荒子城の鎮守とされたと伝わります。右手の標柱には「冨士大権現 天満天神宮」と刻まれています。現在の正式名は冨士天満社。
御祭神は木花開耶姫命、菅原道真
城跡といっても、遺構は残されていません。そもそも平らな土地で、城として地の利があったとは言い難い場所です。文献によれば、平地に柵と堀を巡らしたシンプルな構造だったようなので、屋敷に近いものだったのかもしれませんね。
とはいえあの前田家が拠点とした場所。それだけで来た甲斐はあります。ちなみに、荒子という地名には、開墾まもない田という意味があったようです。
■前田利家ゆかりの地■
前田利昌が亡くなると、まず長男の利久が荒子城主を継ぎました。これは順当ですね。ただ利久はあまり体が丈夫な方ではなく、更に実子がなかったことから、織田信長は利家に前田家の当主となることを命じます。利家は四男ですが、この頃既に信長の下で活躍が認められていたからでしょう。主君の命により、利家は自身が生まれた城の城主となりました。
<石碑と説明板>
<説明板>
のちに大出世する利家が、初めて一城の主となった場所ということですね。
<荒子観音山門>仁王門
荒子城跡近くの荒子観音です。1576年に前田利家によって本堂が再建され、この時に前田利家自身の甲冑も寄贈しているそうです。
■前田慶次ゆかりの城■
『花の慶次』のファンです。荒子城もちょっと関係しているので、触れさせて頂きます。
●前田慶次郎利益●とします
利家の兄である利久は、家督を継いだ際に妻の実家である滝川氏(信長の重臣・滝川一益の一族)から、利益を養子に迎えています。この人物こそ、いわゆる『花の慶次』の前田慶次郎利益ですね。異風を好む傾奇者(かぶきもの)として描かれる慶次が、当時どのような暮らしぶりだったかは分かりませんが、ここ荒子城で過ごしたことは間違いありません。つまり、この地は前田慶次にとってもゆかりの地ということになります。
義理の叔父にあたる前田利家は、『花の慶次』ではちょっと情けないオジサン武将として登場しますが、若いころは派手好みで喧嘩早い傾奇者だったそうです。そう考えると、『花の慶次』における二人の関係は、生涯傾奇者の慶次と、変わってしまった元傾奇者の利家という構図なわけですね。
●奥村助右衛門●
ちなみにですが、その当時の前田家の家老は奥村永福。一般的にはマイナーな武将かも知れませんが、『花の慶次』では助右衛門の名で気骨ある武将として描かれ、慶次の親友とされています。奥村永福は利久に仕えて荒子城の城代を務めていました。信長の命で荒子城が利家のものとなっても、利久の指示があるまで城は渡せないとして抵抗したそうです。主の指示で城を明け渡すと、浪人する道を選びました。(のちに帰参し、前田家のために再び奮闘します)。
■廃城■
前田利家が1575年に越前国府中(福井県越前市)に移り、続いて利家の長男・利長も1581年に越前に移ったことで、荒子城は廃城となったようです。
■つわものどもが夢の跡■
前田慶次や奥村助右衛門にまで言及させて頂きましたが、やはり荒子城と言えばこの男で締めた方が良いですね。
<前田又左衞門利家>またざえもんとしいえ
荒子駅前ロータリーの前田利家像です。槍の又左と呼ばれた利家らしい姿です。
<利家とまつ>
まつもここで幼少期を過ごしています
利家は15歳で織田信長に仕え、赤母衣衆の一員に抜擢され頭角を現します。短気なところもあり、出奔して浪人となった時期もありますが、信長の許しもないまま勝手に桶狭間の戦いに参戦して活躍し、帰参を許されています。利家が兄に代わって荒子城主となるのは、その直後のことでした。まだ傾奇者だった頃ですね。
----------■ 荒子城 ■----------
築城主:前田利昌
築城年:1544年
城 主:前田利昌
利久 利家 利長
廃城年:1581年頃
現 況:富士権現社
(天満天神宮)
[愛知県名古屋市中川区荒子]
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