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2024年12月22日

河村城のなごり(山北町)障子堀の実物が見られる城跡

足柄郡の河村城跡を訪ねました。
<河村城跡>
Kawamurajo-Near-Entrance-Umadashi.JPG
国堺に築かれた山城です。

■ 南朝方の城 ■
城のはじまりは平安末期。相模国河村郷を本拠とした河村秀高によって城は築かれたと伝わります。河村氏は、平将門討伐で知られる藤原秀郷の流れをくむ波多野氏の一族。南北朝時代には上州の新田氏に協力して南朝につき、北朝の足利氏に対抗しました。その抗争の中で、河村秀国・河村秀経らが新田勢とともにこの城に立てこもり、2年に渡って北朝方を苦しめたとされています。最終的には落城となり、河村一族の大半は討ち死にとなりました。

<遠景>
Shiroyama-Sakawagawa.JPG
山城を遠くから眺めるとこんな感じです。手前を流れるのは酒匂川(さかわがわ)。支流の水を集めながら南下して、小田原で相模湾へ流れ出ます。

■ 小田原北条氏の城 ■
戦国時代には小田原城北条氏配下の城となり、甲斐武田と争奪合戦があったと伝わります。つまり激戦地の城だったわけですね。今に伝わる河村城の縄張りの基礎は、この頃に整備されたものと思われます。やがて豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)で北条氏が滅びると、河村城も城としての役割を終えました

■現地訪問 ■
Kawamurajo-Annaiban.JPG
城跡は城址公園として整備されています

Kawamurajo-Yamamichi.JPG
Kawamurajo-Uphill.JPG
麓から登るとわりと厳しい道のりです。あくまで戦闘に至った時に立て籠る城であって、武士たちも普段は麓に居住していました。

Kawamurajo-Umadashi-Area.JPG
やっと標柱が現れました。ここは馬出郭(うまだしくるわ)です。馬出しは主要な郭の虎口(こぐち=入口)の前に設ける小規模な郭のことです。

当ブログ、「くるわ」は曲輪という字で統一していますが、今回は現地案内に合わせてとさせて頂きます。

Kawamurajo-Umadashi-Moat.JPG
堀で仕切られていたなのごり

Kawamurajo-Umadashi-Area-Ruins.JPG
城が現役の時はこの堀ももっとシャープで深かったのでしょう

Kawamurajo-Umadashi-Ruins.JPG
郭の隅から斜面を見下ろす

Kawamurajo-Kuruwa.JPG
広い郭に出ました。ここはこの城の主郭(本丸)です。先ほどの馬出しはここへの侵入を防ぐために設けられた防衛施設です。

Kawamurajo-View-From-Castle.JPG
ちょっと木が邪魔ですが、主郭からは遠くまで見通せます

Kawamurajo-Horikiri-Bridge.JPG
本城郭とお隣の蔵郭を隔てる堀切です。橋が復元されています。

Kawamurajo-Explanationboard-Horikiri.JPG
こちらは堀切の説明板。幅が20mで深さ8mに対し、堀底の幅は50cmという急傾斜の堀切であることが記されています。

Kawamurajo-Signpost.JPG
これなら方向音痴(私)でも迷うことはありません

Kawamura-Castle-Ruins-Parke-Yamakita.JPG
主郭の冠木門(模擬)

Kawamurajo-Late-Autumn.JPG
12月の訪問ですがまだ秋の雰囲気が漂います

Kawamurajo-Castle-Map.JPG
シンプルで分かりやすい

Kawamurajoato.JPG
主郭の隅。この先に河村城跡ならではの光景が待っています

Kawamurajo-Dynamic-Area.JPG
本郭北側の小郭です。凄いことになっていますね。冬場で草も少なく、地形が露わになっています。ここに他ではめったに見られない堀があります。

Castle-Kawamurajo-Shojibori.JPG
主郭側から撮影しました。障子堀です。ざっくりと言ってしまうと、普通の堀以上に敵の動きに制約を持たせることができる堀です。

Kawamurajo-myfriends.JPG
小郭のスケールが分かりやすいように、この日同行してもらった友人2人に登場頂きます。高低差、伝わると思います。更に奥(北側)は茶臼郭と呼ばれる別の郭です。

Kawamurajo-Unebori-Upper-Part.JPG
Kawamurajo-Unebori-Lower-Part.JPG
ここでは畝堀と記されています。隔たりを設けて底を区画ごとに分断する堀を障子堀といいますが、この型式が一列に並んでいる場合には畝堀と表現されたりします。

ちなみに
Castle-Shoji.JPG
この隔たり(仕切り)を障子といいます。障子堀は、いわゆる障子に似ているからではなく、堀の底に障子を設けているからそう呼ばれています。障子のことを畝とも呼びますので、この場合は畝堀とも呼ばれますね。

Kawamurajo-Stonemonument-Ido.JPG
Kawamurajo-Spring.JPG
障子堀(畝堀)付近には井戸があったようです。お姫井戸と呼ばれ、城主の娘が身を投げたという悲話が名の由来となっています。城跡巡りをしていると、女性の悲話を耳にすることが多いような気がします。

Kawamurajo-Stonemonument-Chausukuruwa.JPG
小郭北側の茶臼郭へ移動

Kawamurajo-Unebori.JPG
茶臼郭から見下ろす障子堀。河村城址公園内では、発掘調査の結果を反映するかたちで、ここ以外にも障子堀(畝堀)が復元されています。いかにも小田原北条氏配下の城という印象です。

障子堀は北条氏の城に限った築城法ではありません。ただ関東の土の特性なども手伝ってか、関東覇者の北条氏は多用しました。言い換えると、関東には障子堀がたくさんありました。それらは専門家の地道な発掘調査で明らかになっていますが、地中に埋もれている障子堀は、調査が終わると埋めてしまうので、実物を見られることは稀です。

私が障子堀の実物を見たのは、山中城とここ河村城だけです。昨今では城跡巡りがさかんになっていますので、障子堀の適切な復元も増えていくかもしれません。しかし今現在においては、河村城址歴史公園は貴重な経験をさせてくれるありがたい城跡だと思います。

Kawamurajo-Tsuwamonodomogayumenoato.JPG
つわものどもが夢の跡

--------■ 河村城 ■--------
築城者:河村氏
築城年:不明(平安末期?)
城 主:河村氏・北条氏
改修者:小田原北条氏
廃城年:不明(1590年?)
現 況:河村城址歴史公園
[神奈川県足柄上郡山北町]


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■参考・引用
・現地説明板
(山北町教育委員会)
・石碑(山北町)
・Wikipedia:2024/12/22
・山北町HP
>歴史・文化>県指定文化財
>河村城跡

https://www.town.yamakita.kanagawa.jp/0000001056.html
タグ:神奈川
posted by Isuke at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[関東]
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