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2017年02月27日

間宮康俊と山中城

<つわものどもが夢の跡>
facebook2017yama.jpg
本当に見事な城址公園です。ただ、ここで壮絶な戦いがあったことは忘れてはなりません。

■ 山中城の戦い ■1590年
その日、秀吉の天下軍7万が早朝からこの山中城を取り囲みました。迎え撃つ北条側は約3千(資料によっては4千)。城主は松田康長、副将格の間宮康敏、北条一族の北条氏勝らが名を連ねます。

城攻めは攻め手に不利な点が多い。
そして、山中城は小田原北条氏の築城技術の粋を凝らした堅城です。
ただ、兵の数があまりにも違い過ぎました。

激突はまず城で最も先端に位置する出丸から三の丸付近で始まりました。

■ 出丸 ■
<岱崎出丸>だいさき
2017yamanaka (7).jpg
三の丸までを山中城の本体とみなすと、ここは街道を挟んだ外側の防衛施設です。

<スリバチ曲輪>
2017yamanaka (8).jpg
岱崎出丸の更に先の端に設けられた曲輪です。本来はもっとシャープな状態なのでしょう。枡形状になっていますが、ここに城兵が立て籠もるのか、攻め手を誘い込んで狙うためなのか、私には分りません。


■ 天下軍の力攻め ■
戦いの場は徐々に二の丸、本丸と移り、やがて城主松田康長が戦死。正午過ぎには落城したそうです。数に物を言わせた豊臣軍による力攻めです。強引さ故に、攻め手にも多くの被害がでました。要した時間と関係なく、戦国時代で最大級の攻城戦といえます。

<障子堀>
shirononagoriYamanakajoAD (4).JPG


■ 強者 ■つわもの
北条側副将格の間宮康俊という武将。間宮氏は代々北条氏に仕える一族で、康俊はこの戦では援軍として山中城へ入っていました。戦況不利とみると、康俊は北条一族の氏勝ほかに退却を促す一方、自らは手勢を二百ほど率いて岱崎出丸まで飛び出します。無事で済むはずがありません。百も承知で死地に飛び込みました。

この突撃ですが、少数ながら奮闘し、豊臣秀吉から信頼の厚かった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を討ち取ります。秀吉はその死を知らされると「関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆いたそうです。それくらい大きな手柄でした。

出丸で奮闘する猛将、実はこの時すでに73歳。「白髪首を敵に供するのは恥」として、最後は白髪を墨汁で染めて敵に突入し、討ち死にとなりました。

この年齢にしてこの気迫。武士のなかの武士の壮絶な最期です。


■ つわものどもが夢の跡 ■
2017yama (1).JPG
負け戦でなおも己の意志を貫く心の叫び。
それが聞こえてきそうな城跡でした。

■ 間宮康俊 ■まみや やすとし
1518年〜1590年5月3日
・小田原北条氏家臣
・玉縄城の歴代城主に仕える
・山中城の戦いで討死
※間宮海峡を発見した林蔵は、北条に仕えた間宮氏の末裔です


生きる選択をした「北条氏勝」へつづきます


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タグ:静岡
posted by Isuke at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]

2017年02月26日

山中城のなごり

つわものどもが夢の跡
障子堀で有名な三島市の城跡を訪ねました。

<障子掘と富士山>
shirononagoriYamanakajoAD (2).JPG

■小田原北条氏の城■箱根の砦
ここ山中城は北条氏康により築城された小田原城の支城です。本城のある小田原の西を守る重要拠点でした。城は東海道を挟み込むような構造になっています。もともとはライバルである武田氏に備えるべく築かれた城でした。

そして・・・

1590年、いわゆる小田原征伐が始まります。悪化する一方だった北条氏と豊臣氏の関係。秀吉が大軍を率いて動き始めたのに合わせて、山中城は更に守りを強固にすべく改修されました。ただ天下軍の進軍に改修が間に合わず、未完のまま7万の大軍を迎え撃ちました。

<案内図>
2017yama (2).JPG
日本100名城のひとつ。標高は580m、自然の地形を利用した山城ということになります。

小田原城の「支城」という感覚で訪問したので、現地で城の広大さに驚きました。箱根峠を越えるための道が、城の真ん中を通過する構造になっています。道は現在国道一号線となっており、やはり城跡の中を通り抜けています。

ここを避けては通れない。

山中城は東海道に立ち塞がる城としてこの地に築かれました。

<三の丸堀>
2017yama (3).JPG
駐車場から城内へ入ってすぐ。早くも遺構にかこまれ興奮してきました。恒例によって早足に・・・

<田尻の池>
2017yamanaka (3).jpg
籠城に無くてはならない水の確保。湿地を土塁で区切って溜池を造ったようです。

さらに登ると

<畝堀>うねぼり
2017yamanakashyo (2).JPG
山中城ならではの遺構。凄い。畝(うね)のようにみえることから畝掘と言います。が、私個人は障子堀と区別していません。

<障子堀>
2017yamanaka (6).jpg
中世の土の城で、人の手による工夫がここまで感じられる城跡は珍しい。

どんなつもりなのか・・・

その思惑を感じるようにしてゆっくりと見学させてもらいました。


■山中城の戦い■
この城での最後の戦いは、1590年の小田原征伐の時ということになります。沼津に到着した豊臣秀吉は、秀次を総大将にして山中城を攻めさせます。戦闘開始は未明。山中城の城兵も3千の兵で抵抗しますが、城主・松田康長は戦死。7万の大軍による力攻めにより、わずか半日で落城しました。

山中城側の死者は不明ながら千人以上とも言われています。壊滅状態です。同時に強引な攻め手の方にも死者は多く、秀吉から信頼の厚かった一柳直末が戦死しました。

時間にすると短いですが、かなり壮絶な戦いだったようです。

■つわものどもが夢の跡■
2017yamanaka (10).jpg
ここ山中城は、小田原城の支城として、箱根の入り口をずっと守ってきました。そこへ押し寄せる秀吉の天下軍。しかも徳川家康や池田輝政らを含む本隊です。中世の城としては、非常に手の込んだ城だと思います。ただ、最後の戦いについては、そもそも勝ち目はありませんでした。

北条氏滅亡後に廃城となったため、現在の遺構の大半はその当時の雰囲気を残しているものと思われます。

見事な遺構に加えて、いろんな人たちの思惑が余韻として漂う城跡でした。

--------■ 山中城 ■--------
築城年:不明(1558〜70年)
築城者:北条氏康
改修者:北条氏政
城 主:松田康長
廃城年:1590年
※北条氏滅亡後廃城
[静岡県三島市山中新田]

当ブログ関連記事
間宮康俊と山中城
北条氏勝と山中城


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posted by Isuke at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
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