信州の高遠城跡を訪問しました。
<高遠城跡>たかとおじょう
築城年や築城者についての詳細は分かっていませんが、諏訪氏の分家である高遠氏が拠点とした城でした。その高遠氏が甲斐の武田信玄によって滅ぼされると、城には大改修が施され、武田氏の南信濃支配の拠点として機能し続けました。
<案内板>
高遠城は二本の川の合流地点の崖上に位置するため、三方が川という要害です。曲輪の配置はシンプルですが、攻めるのに難儀な山城(平山城)だったことでしょう。
<三峰川> みぶがわ
こちらは高遠城の南側を流れる三峰川です。右手が高遠城。崖になっており、地形の険けわしさを利用した城だったことが伝わってきます。川から本丸までの高低差は約80mです。
武田氏が改修した時には、あの山本勘助が縄張りしたとも言われています。現在、城址公園西側の駐車場となっている区画は勘助曲輪と呼ばれていますが、そのなごりでしょうかね(不明)?
信玄亡きあと、織田信長による甲州征伐により、約35年続いた武田氏の支配は終焉をむかえます。武田家臣団の士気は徐々に低下し、離反や逃亡が相次ぎました。そんななか、高遠城では勝頼の弟で城主の仁科五郎盛信が3千の兵で抵抗を試みました。しかし相手は信長嫡男・信忠が率いる5万の大軍です。数的不利は如何ともし難く、高遠城は一日で陥落。仁科盛信は自害しました(1582年)。その後、当主の勝頼も天目山で自害し、戦国大名としての武田氏は滅びました。
<高遠城の戦い説明板>
戦いは壮絶で、双方に多数の犠牲者がでました。
本能寺の変は、武田勝頼が亡くなってから僅か3ケ月後のことです。織田信長がいなくなった混乱期に、高遠城を手にしたのは、武田の旧臣である保科正直でした。保科正直は徳川家康の支配下となります。
その徳川家康が関東移封となると、高遠は天下人となった豊臣秀吉の支配下となり、家臣の所領となりました。しかし関ヶ原の戦いの戦後処理で、日ノ本の勢力分布図は大幅に変わることとなり、高遠には保科正直の長男・正光が2万5千石で入部し、高遠藩が成立。高遠城は藩庁として統治のための城となりました。
藩主となった保科正光に子はなく、徳川秀忠の隠し子を跡取りとして養子に迎えます。その少年こそが、高遠藩主・山形藩主を経たのちに、会津藩の初代藩主となる保科正之です。幕府の中枢となって将軍をサポートした保科正之は、多感な少年時代を高遠で過ごしました。
<保科正之像>ほしなまさゆき
正之は会津松平家の祖となりますが、本人は養父の名・保科を生涯貫きました。
保科氏のあとは鳥居氏(1636年から2代)、内藤氏(1691年から8代)が藩主となりました。高遠城が廃城となるのは明治になってからです。最後の藩主は内藤頼直でした。
<高遠城址公園>
左手に見えているのは三の丸と二の丸を隔てる堀跡です。城跡は高遠城址公園として整備され、多くの人が訪れる観光地となっています。特に高遠の桜は全国的に有名です。
<高遠桜>
やや色の濃い高遠桜は、タカトオコヒガンザクラという固有種です。私の訪問時はまだ蕾が多い状態でしたが、園内の約1500本の桜が満開となれば圧巻だと思います。高遠城の桜は、城跡の荒廃を憂いた旧藩士たちが、城下の馬場から桜を移植したことに始まります。
<伝 高遠城大手門>
こちらは大手門と伝わる遺構です。場所は高遠城の北西、駐車場になっている勘助曲輪の北側です。門前に設置されている現地説明板によれば、大手門は明治になって取り払われており、現役の時とは姿形が異なるようです。また、ここは本来の大手口ではありません。民間からの寄贈により移設され、高校の正門として使用されていたようです。
<武家屋敷跡>
先ほどの門より先は三の丸跡です。この付近は武家屋敷が建ち並んでいた区画になります。この更に奥(北側)がかつての大手口。高遠城の三の丸は、本丸・二の丸など城の中心部の北側と東側を囲むように設けられていました。
<進徳館跡>しんとくかん
三の丸跡の藩校跡です。空き家となっていた元家老の屋敷を利用して、江戸末期に開校しました。
<高遠閣>たかとおかく
こちらは二の丸跡の高遠閣。昭和になってから建てられたもので城と直接は関係ありませんが、登録有形文化財に登録されている貴重な建物です。
<堀跡>
二の丸側から見た本丸北側の堀跡。廃城は明治ですので、遺構は近世城郭として整備された江戸時代のものということになります。ただ城の縄張りは戦国時代、つまりは武田流を引き継いでいると思われます。
<問屋門>とんやもん
城内に問屋門?この門はもともと城下の問屋役所にあったものです。問屋役所建物取り壊しの際、歴史ある門が失われることを惜しんだ町の有志の尽力により、城跡に移築されたものとのこと。城門だったわけではありませんが、今では城址公園には欠かせない存在となっています。
<問屋門と桜雲橋>おううんきょう
問屋門の内側から撮影。手前側は本丸、門の向こう側は二の丸と本丸をつなぐ桜雲橋です。桜雲橋は高遠城址公園のなかでも特に人気のスポットです。橋から満開の桜を見上げると、花弁が雲の如く見えることが名の由来です。
<満開時の桜雲橋>
こちらは公園内に設置されている大きなパネルです。記念撮影用ですね。私は眺めることが叶いませんでしたが、満開の日に晴れていれば、きっとこんな感じなのでしょう。
<本丸虎口付近>
本丸の虎口付近。いい感じの石積みは、城門のなごりであろうと現地では思いましたが、どうも廃城後に設けられたもののようです。塁上には古戦場跡の説明板。
<太鼓櫓>たいこやぐら
こちらは本丸跡の太鼓櫓です。番人がおかれ、太鼓で時を知らせる役割を担っていました。本来はこの場所ではないようです。
<新城神社・藤原神社>
こちらも本丸跡。新城神社と藤原神社がひとつの社に祀られています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信、藤原神社の祭神は内藤家の祖先にあたる藤原鎌足、そして内藤家代々の当主です。
<本丸土塁跡>
本丸を縁取る土塁のなごり
<堀跡>
本丸と南曲輪を隔てる堀跡
<南曲輪>みなみくるわ
本丸の南に位置する曲輪。柵の向こうは三峰川に面した崖です。
<南曲輪説明板>
南曲輪は保科家の養子となった保科正之が、幼少のころ実母と居住したところと言われています。
<白兎橋から見た堀>はくときょう
南曲輪と法幢院曲輪の間の堀跡
<法幢院曲輪>ほうどういんくるわ
南曲輪より更に南側の法幢院曲輪。高遠城の南端に位置します。
<空堀>
左手が法幢院曲輪です。適度な高低差と空堀。城跡好きが喜びそうな景色です。
高遠城は険しい地形を巧みに利用した山城ですが、現地は城址公園として整備され、比較的散策しやすい城跡となっています。多くの遺構が失われても、曲輪の周囲にめぐらされた深い堀が、むかしを偲ばせる形で残されています。戦国時代に激闘のあった古戦場であり、江戸時代も統治の中心地と存続した城です。国の史跡に指定され、日本100名城の一つにも選ばれています。
<つわものどもが夢の跡>
---------■ 高遠城 ■---------
別 名:兜山城
築城者:不明
築城年:不明
城 主:高遠氏 武田氏
仁科氏 保科氏
鳥居氏 他
改修者:武田氏
廃城年:1872年(明治5)
現 況:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・高遠城址公園説明板
・Wikipedia:2024/4/27
・伊那市HP(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
2024年04月27日
2024年04月13日
信長に屈しなかった信玄五男(高遠城の戦い)仁科盛信の最期
<高遠城>たかとお
信州高遠城跡です。この城を拠点に、織田信長の侵攻に最後まで抵抗した武田の武将がいました。
■ 仁科盛信 ■にしなもりのぶ
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。勝頼の異母弟です。四男の勝頼が諏訪氏を継承して諏訪四郎勝頼を名乗ったの同じく、信濃国安曇郡の仁科氏を継承しました。信玄亡きあとは、本家に戻って当主となった勝頼に従い、武田親族衆として活躍しました。
長篠の戦いでの壊滅的な敗北を機に、武田の勢力は徐々に衰え始めます。追い打ちをかけるように、織田信長が甲斐・信濃・駿河など、武田の領内に侵攻(甲州征伐)。武田家臣団の離反や逃亡が相次ぎまました。明らかに旗色が悪いなか、仁科盛信は高遠城に籠城し、最後まで抵抗を続けました。
ここからは、現地説明板の一部を引用させて頂きます。『』内は原文の転記です。
「高遠城の戦い(古戦場跡)」と題した説明文
『伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。』
大軍を率いる織田信忠は、僧を使者にして降伏を促したようですが、籠城する武田軍には、まったくそのつもりはなかったようですね。その後も奮闘しますが、やはり数的不利は如何ともし難い状況でした。説明文の続きを引用させて頂くと『三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。』とのことです。
副将として入城していた小山田昌成を含め、多くの犠牲者を出しながら、高遠城は落城しました。そして盛信自身も自害。壮絶な最期です。
激しい戦いのあった城跡は、今では公園として整備され、桜の名所として知られています。高遠の桜が濃い色をしているのは、討ち死にした城兵の血を吸っているためとも伝えられています。
仁科盛信の自害に続き、兄の勝頼も天目山で自害となりました。これにより、戦国大名としての武田氏は滅びました。
高遠城は兄・勝頼が諏訪氏を継承した際に城主を務めた城でもあります。歴代城主に兄弟で名を連ねたわけですね。武田の勢力拡張期には攻めの城、逆に押し込まれた際には守りの城として機能しました。
説明板に記されていた『要害は必ず兵禍を被る』という言葉が忘れられません。この場合の「兵」はいくさのことですね。戦略の要となるような城は、決まって戦禍に巻き込まれる。そう受けとめました。
仁科盛信終焉の地です
■訪問:高遠城
(高遠城址公園)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考及び出典
・現地説明板(高遠城址公園)
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
信州高遠城跡です。この城を拠点に、織田信長の侵攻に最後まで抵抗した武田の武将がいました。
■ 仁科盛信 ■にしなもりのぶ
仁科五郎盛信は武田信玄の五男。勝頼の異母弟です。四男の勝頼が諏訪氏を継承して諏訪四郎勝頼を名乗ったの同じく、信濃国安曇郡の仁科氏を継承しました。信玄亡きあとは、本家に戻って当主となった勝頼に従い、武田親族衆として活躍しました。
長篠の戦いでの壊滅的な敗北を機に、武田の勢力は徐々に衰え始めます。追い打ちをかけるように、織田信長が甲斐・信濃・駿河など、武田の領内に侵攻(甲州征伐)。武田家臣団の離反や逃亡が相次ぎまました。明らかに旗色が悪いなか、仁科盛信は高遠城に籠城し、最後まで抵抗を続けました。
ここからは、現地説明板の一部を引用させて頂きます。『』内は原文の転記です。
「高遠城の戦い(古戦場跡)」と題した説明文
『伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の侵攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。』
大軍を率いる織田信忠は、僧を使者にして降伏を促したようですが、籠城する武田軍には、まったくそのつもりはなかったようですね。その後も奮闘しますが、やはり数的不利は如何ともし難い状況でした。説明文の続きを引用させて頂くと『三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。』とのことです。
副将として入城していた小山田昌成を含め、多くの犠牲者を出しながら、高遠城は落城しました。そして盛信自身も自害。壮絶な最期です。
激しい戦いのあった城跡は、今では公園として整備され、桜の名所として知られています。高遠の桜が濃い色をしているのは、討ち死にした城兵の血を吸っているためとも伝えられています。
仁科盛信の自害に続き、兄の勝頼も天目山で自害となりました。これにより、戦国大名としての武田氏は滅びました。
高遠城は兄・勝頼が諏訪氏を継承した際に城主を務めた城でもあります。歴代城主に兄弟で名を連ねたわけですね。武田の勢力拡張期には攻めの城、逆に押し込まれた際には守りの城として機能しました。
説明板に記されていた『要害は必ず兵禍を被る』という言葉が忘れられません。この場合の「兵」はいくさのことですね。戦略の要となるような城は、決まって戦禍に巻き込まれる。そう受けとめました。
仁科盛信終焉の地です
■訪問:高遠城
(高遠城址公園)
[長野県伊那市高遠町東高遠]
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■参考及び出典
・現地説明板(高遠城址公園)
・Wikipedia:2024/4/13
・長野伊那谷観光局HP
(高遠城物語)
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=915
タグ:長野
2024年04月07日
遅い春の高遠桜(高遠城址公園)
桜で有名な信州の城跡を訪ねました。
<高遠城址公園>たかとお
長野県の高遠城跡です。旧上伊那郡高遠町、現在は伊那市です。
高遠の桜の見頃は普通なら4月。関東の感覚よりやや遅めです。そのことを意識して事前に訪問日を決めました。
ところが…
<本丸跡>
今年(2024年)の春は寒気の影響を受け、関東でも桜の開花が足踏み状態でした。よって高遠の「天下第一の桜」も、私が訪問した4月上旬は開花したばかり。人は大勢いましたが……
満開からはほど遠い状態でした
ちなみに
<パネル>
こちらは公園内に設置されている巨大パネル。記念撮影用です。満開の日に晴れていれば、こんな感じなのでしょう。
まぁもともと城好きですので、高遠城の実物を見れただけで充分です。
<案内板>
高遠城は地形の険しさを利用した城です。縄張りそのものは比較的シンプルで、ここまで登ってきてしまえば、城内は楽に散策することができます。
<遺構>
穏やかな公園ですが、曲輪と曲輪を分断する堀切はいかにも城らしく、築城・改修に膨大な人力がつぎ込まれたことが想像できます。
この城は諏訪氏一門である高遠氏の拠点から始まり、戦国時代には甲斐武田の支配下となりました。その武田が織田軍と激突した場所でもあり、江戸時代になってからも存続しました。廃城は明治になってからです。つまり、長い長い歴史が刻まれた城跡なのです。
そんな城跡の桜です。高遠城の桜は、城跡の荒廃を憂いた旧藩士たちが、城下の馬場から桜を移植したことに始まります。
高遠の桜はタカトオコヒガンザクラという固有種だそうです
ほころび始めた蕾をまざまざと見つめる機会なんて滅多にない。この赤くなった蕾が先から割れて桜の花となるわけですね。開花のきっかけは春の暖かさですが、冬の寒さに晒されなければ桜は咲きません。当たり前のことが、何だかとても新鮮でした。
日本百名城の桜です
ということで
開花したばかりの高遠桜のご紹介となりました。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/4/7
・伊那市HP
(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
<高遠城址公園>たかとお
長野県の高遠城跡です。旧上伊那郡高遠町、現在は伊那市です。
高遠の桜の見頃は普通なら4月。関東の感覚よりやや遅めです。そのことを意識して事前に訪問日を決めました。
ところが…
<本丸跡>
今年(2024年)の春は寒気の影響を受け、関東でも桜の開花が足踏み状態でした。よって高遠の「天下第一の桜」も、私が訪問した4月上旬は開花したばかり。人は大勢いましたが……
満開からはほど遠い状態でした
ちなみに
<パネル>
こちらは公園内に設置されている巨大パネル。記念撮影用です。満開の日に晴れていれば、こんな感じなのでしょう。
まぁもともと城好きですので、高遠城の実物を見れただけで充分です。
<案内板>
高遠城は地形の険しさを利用した城です。縄張りそのものは比較的シンプルで、ここまで登ってきてしまえば、城内は楽に散策することができます。
<遺構>
穏やかな公園ですが、曲輪と曲輪を分断する堀切はいかにも城らしく、築城・改修に膨大な人力がつぎ込まれたことが想像できます。
この城は諏訪氏一門である高遠氏の拠点から始まり、戦国時代には甲斐武田の支配下となりました。その武田が織田軍と激突した場所でもあり、江戸時代になってからも存続しました。廃城は明治になってからです。つまり、長い長い歴史が刻まれた城跡なのです。
そんな城跡の桜です。高遠城の桜は、城跡の荒廃を憂いた旧藩士たちが、城下の馬場から桜を移植したことに始まります。
高遠の桜はタカトオコヒガンザクラという固有種だそうです
ほころび始めた蕾をまざまざと見つめる機会なんて滅多にない。この赤くなった蕾が先から割れて桜の花となるわけですね。開花のきっかけは春の暖かさですが、冬の寒さに晒されなければ桜は咲きません。当たり前のことが、何だかとても新鮮でした。
日本百名城の桜です
ということで
開花したばかりの高遠桜のご紹介となりました。拙ブログにお付き合い頂き、ありがとうございます。
つわものどもが夢の跡
■訪問:高遠城址公園
[長野県伊那市高遠町東高遠]
お城巡りランキング
■参考
・Wikipedia:2024/4/7
・伊那市HP
(高遠城址公園)
https://www.inacity.jp/shisetsu/koenshisetsu/takatojoshikoen.html
タグ:長野
2024年03月23日
足柄城のなごり
駿河と相模の堺となる足柄峠。ここに築城された山城を訪ねました。
<足柄城跡>あしがらじょう
静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。
足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちにこの地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。
1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置するこの城が重要視され、翌年から数年の間に大規模な改修が行われました。
<足柄峠>
国境の峠ですから、重きをおかれるのは当然ですね
甲斐武田が滅んだのちも、小田原北条氏にとって足柄は重要な防衛ラインでした。次なる脅威は豊臣秀吉です。一族の氏光を城番として大規模な改修を施しました(1587年)。
北条氏光は、三代目当主・氏康の子ということになりますが、氏康の弟の子を養子としたという説が有力のようです。いずれにせよ、一族の中心に位置する武将です。
そして1590年
豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。北条氏光は足柄城に守将として入り、国境防衛に当たりました。周辺には支砦群も築かれていたそうです。しかし、小田原城の重要拠点のひとつである山中城(三島市)落城の知らせが届き、北条氏光は退却。北条家臣の依田大膳亮が引き続き足柄城に留まりましたが、井伊直政の攻撃をうけて開城。城はそののち廃城となりました。
■ 訪問記 ■
<足柄城址碑>
道路(足柄道)沿いの城址碑を撮影。背後は石垣ではありません(念のため)。階段を登ればそこはもう城ですが、その前に道の反対側をご紹介しておきます。
<小郭>
ここは道路を挟んで城とは反対側の小郭です。区画の隅の盛り土は土塁のなごりと思われます。この小規模な曲輪により、足柄城は尾根を開削した切通を挟み込むような構造になっています。
<城本体へ>
では小郭から城の本体へ
その前に
足柄城の大まかな構造を確認しておきます
<案内図>
設置してあった案内図です。現地でかろうじて字が読める程度なので、画像だと見えにくいですね。曲輪の配置だけも分かるように図解させて頂きます。
↓
簡素過ぎて恐縮です。尾根の要所要所を平らに造成し、それぞれを堀切で仕切る連郭式の縄張りです。この日は、明神郭を除く主要な郭を探索。聖天堂付近から切通しとなっている道(足柄道)を経由して一の郭へ進み、二の郭・三の郭という順で城内を見て回りました。
<一の郭>
かなり広い曲輪です。この山城の主郭=本丸ですね。真っ平に造成したような感じは無く、起伏が目立ちますので、大きな建物が建ち並ぶような感じではなかったのでしょう。
<玉手ヶ池>
一の郭の隅にある池の跡。私の訪問時には水が枯れていましたが、かつては「底知らずの池」などと言われていたそうです。この標高で水が湧き出るポイントがあるのは貴重ですね。籠城する兵の強い味方だったことでしょう。足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫が池の呼び名の由来となっています。
<足柄峠の碑>
足柄城を象徴する景色です。ここが足柄峠の頂上地点。城兵もここから富士の姿を見つめていたわけですね。
<二の郭へ>
二の郭へ移動してから振り返って堀切を撮影。木の陰になってよく見えませんが、普通の空堀ではなく、尾根を完全に断ち切った堀切の跡です。左手の土橋については詳細不明ながら、少なくともの上部は、公園として整備する際に造成したものでしょう。
<二の郭>
城内でもっとものどかな場所でした。富士山を独り占めできるベンチもあります。
<堀切>
二の郭と三の郭の間の堀切。今度はスケールが伝わるように、同行した友人が映っている画像にしました(顔は加工済)。城が現役の頃は、もっと深く、そして急こう配だったのでしょう。
<堀切>
逆に三の郭の友人が二の郭側を撮影した画像です。この堀切に土橋はありません。左手の階段で、一旦の堀の底へ降りてから三の郭へ向かいます。
<堀の底>
ちょっと見えにくいですが「空堀跡」と記されていました。
<三の郭>
一の郭・二の郭同様に西側の富士山が良く見えます。下には足柄道が通っていますので、まさに街道を押さえるための城です。
ここまでは公園として比較的綺麗に整備されています。ここから先、山を下りながら体感する四の郭以降は、いかにも城好きが喜びそうな景色が続きます。
<四の郭>
<四の郭井戸跡>
<空堀跡>
<空堀跡>
かなり高低差があり、竪堀も施されているように映ります。尾根を断ち切っているので「堀切」と呼びたいところですが、かなり幅広いため、普通に「空堀」と呼んだ方がしっくりしますね。次の五の郭も含め、城を拡張した北条氏による造成でしょう。
<五の郭>
<空堀跡>
凄い…
■足柄城のなごり■
足柄城は駿河と相模の境となる足柄峠の古道を取り込むように築かれました。拡張を繰り返し、防衛施設としてピークとなったのは豊臣軍襲来に備えた1590年でしょう。そしてその後まもなく廃城。都市開発の波に飲み込まれることもなく、当時の痕跡がいまでも多く残されています。
遺構のひとつひとつに、当時の人たちの思惑が込められています。風雪にさらされ原形は留めていなくても、そこには人の思いが漂っています。一の郭から始まり、先に進むほどそれを感じることができました。
天候にも恵まれ
良い探索となりました。
--------■ 足柄城 ■--------
別 名:霞城
築城者:大森氏(推定)
築城年:不明(1392年?)
城 主:大森氏・北条氏
改修者:北条氏綱・北条氏康
廃城年:1590年(天正18)
[静岡県駿東郡小山町足柄峠]
[神奈川県南足柄市矢倉沢]
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■参考及び出典
現地説明板・立札
(足柄峠城址公園)
Wikipedia:2024/3/23
<足柄城跡>あしがらじょう
静岡県小山町と神奈川県南足柄市の境です。城は旧東海道の足柄古道に沿いに築かれました。
足柄城は西相模に進出した大森氏が、街道を押さえるために築いたと考えられています。のちにこの地方に台頭した小田原北条氏の氏綱や氏康によって改修されたと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていないようです。
1568年に武田信玄の駿河侵攻が始まると、駿河と相模の堺に位置するこの城が重要視され、翌年から数年の間に大規模な改修が行われました。
<足柄峠>
国境の峠ですから、重きをおかれるのは当然ですね
甲斐武田が滅んだのちも、小田原北条氏にとって足柄は重要な防衛ラインでした。次なる脅威は豊臣秀吉です。一族の氏光を城番として大規模な改修を施しました(1587年)。
北条氏光は、三代目当主・氏康の子ということになりますが、氏康の弟の子を養子としたという説が有力のようです。いずれにせよ、一族の中心に位置する武将です。
そして1590年
豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。北条氏光は足柄城に守将として入り、国境防衛に当たりました。周辺には支砦群も築かれていたそうです。しかし、小田原城の重要拠点のひとつである山中城(三島市)落城の知らせが届き、北条氏光は退却。北条家臣の依田大膳亮が引き続き足柄城に留まりましたが、井伊直政の攻撃をうけて開城。城はそののち廃城となりました。
■ 訪問記 ■
<足柄城址碑>
道路(足柄道)沿いの城址碑を撮影。背後は石垣ではありません(念のため)。階段を登ればそこはもう城ですが、その前に道の反対側をご紹介しておきます。
<小郭>
ここは道路を挟んで城とは反対側の小郭です。区画の隅の盛り土は土塁のなごりと思われます。この小規模な曲輪により、足柄城は尾根を開削した切通を挟み込むような構造になっています。
<城本体へ>
では小郭から城の本体へ
その前に
足柄城の大まかな構造を確認しておきます
<案内図>
設置してあった案内図です。現地でかろうじて字が読める程度なので、画像だと見えにくいですね。曲輪の配置だけも分かるように図解させて頂きます。
↓
簡素過ぎて恐縮です。尾根の要所要所を平らに造成し、それぞれを堀切で仕切る連郭式の縄張りです。この日は、明神郭を除く主要な郭を探索。聖天堂付近から切通しとなっている道(足柄道)を経由して一の郭へ進み、二の郭・三の郭という順で城内を見て回りました。
<一の郭>
かなり広い曲輪です。この山城の主郭=本丸ですね。真っ平に造成したような感じは無く、起伏が目立ちますので、大きな建物が建ち並ぶような感じではなかったのでしょう。
<玉手ヶ池>
一の郭の隅にある池の跡。私の訪問時には水が枯れていましたが、かつては「底知らずの池」などと言われていたそうです。この標高で水が湧き出るポイントがあるのは貴重ですね。籠城する兵の強い味方だったことでしょう。足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫が池の呼び名の由来となっています。
<足柄峠の碑>
足柄城を象徴する景色です。ここが足柄峠の頂上地点。城兵もここから富士の姿を見つめていたわけですね。
<二の郭へ>
二の郭へ移動してから振り返って堀切を撮影。木の陰になってよく見えませんが、普通の空堀ではなく、尾根を完全に断ち切った堀切の跡です。左手の土橋については詳細不明ながら、少なくともの上部は、公園として整備する際に造成したものでしょう。
<二の郭>
城内でもっとものどかな場所でした。富士山を独り占めできるベンチもあります。
<堀切>
二の郭と三の郭の間の堀切。今度はスケールが伝わるように、同行した友人が映っている画像にしました(顔は加工済)。城が現役の頃は、もっと深く、そして急こう配だったのでしょう。
<堀切>
逆に三の郭の友人が二の郭側を撮影した画像です。この堀切に土橋はありません。左手の階段で、一旦の堀の底へ降りてから三の郭へ向かいます。
<堀の底>
ちょっと見えにくいですが「空堀跡」と記されていました。
<三の郭>
一の郭・二の郭同様に西側の富士山が良く見えます。下には足柄道が通っていますので、まさに街道を押さえるための城です。
ここまでは公園として比較的綺麗に整備されています。ここから先、山を下りながら体感する四の郭以降は、いかにも城好きが喜びそうな景色が続きます。
<四の郭>
<四の郭井戸跡>
<空堀跡>
<空堀跡>
かなり高低差があり、竪堀も施されているように映ります。尾根を断ち切っているので「堀切」と呼びたいところですが、かなり幅広いため、普通に「空堀」と呼んだ方がしっくりしますね。次の五の郭も含め、城を拡張した北条氏による造成でしょう。
<五の郭>
<空堀跡>
凄い…
■足柄城のなごり■
足柄城は駿河と相模の境となる足柄峠の古道を取り込むように築かれました。拡張を繰り返し、防衛施設としてピークとなったのは豊臣軍襲来に備えた1590年でしょう。そしてその後まもなく廃城。都市開発の波に飲み込まれることもなく、当時の痕跡がいまでも多く残されています。
遺構のひとつひとつに、当時の人たちの思惑が込められています。風雪にさらされ原形は留めていなくても、そこには人の思いが漂っています。一の郭から始まり、先に進むほどそれを感じることができました。
天候にも恵まれ
良い探索となりました。
--------■ 足柄城 ■--------
別 名:霞城
築城者:大森氏(推定)
築城年:不明(1392年?)
城 主:大森氏・北条氏
改修者:北条氏綱・北条氏康
廃城年:1590年(天正18)
[静岡県駿東郡小山町足柄峠]
[神奈川県南足柄市矢倉沢]
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■参考及び出典
現地説明板・立札
(足柄峠城址公園)
Wikipedia:2024/3/23
タグ:静岡
2024年03月18日
山の頂上付近の湧水池(足柄城)玉手ヶ池
足柄峠に築かれた山城の頂上付近には、かつて地下水が脈々と湧き出る池がありました。
<玉手ヶ池>
画像の奥が池の跡とされています。ここは足柄城の一の郭(主郭)の東隅。山麓、又は中腹ならともかく、標高の高い山のほぼ頂上です。
<現地の立札>
近くの立札に『史跡と伝説』と題した説明が記されています。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内が原文)。
『この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか。』
ちょっと私にとっては分かったよう分からないような感じでしたが、参考になりました。池の底が小田原に通じている?ファンタジーのセンスがないのか、想像が膨らみませんでした。ただ、これは昨日今日の話ではなく、古い言い伝えです。この山に刻まれた歴史やら、関わった人たちの思惑が込められているのだと受け止めることにしました。
<池跡>
私の訪問時は水がありませんでした。しかし立札の説明文から推定する限り、むかしはここから水が湧いていたのでしょう。池の名は足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫から付けられたものとのこと。とりあえず池跡と思うことにしますが、井戸跡とも言われているようですね。
<一の郭>
一の郭の池とは別に、足柄城には三の郭から四の郭の中間に井戸跡があります。地下の構造までは分かりかねますが、足柄城の築かれた山には、地中に溶け込んだ雨水の通り道が、地表近くに確保されていたのでしょう。
<玉手ヶ池のなごり>
籠城する城兵たちにとって、湧水ポイントが頼もしい存在であったことは言うまでもありませんね。
■訪問:玉手ヶ池跡
(足柄峠城址公園)
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考及び出典
現地立札
<玉手ヶ池>
画像の奥が池の跡とされています。ここは足柄城の一の郭(主郭)の東隅。山麓、又は中腹ならともかく、標高の高い山のほぼ頂上です。
<現地の立札>
近くの立札に『史跡と伝説』と題した説明が記されています。せっかくですので、以下に転記させて頂きます(『』内が原文)。
『この池は、底知らずの池又は雨乞い池と云われ、底は小田原に通じて居るとも云われて居り、又干ばつ続きの折には、池の水をかきまわし雨乞いをすれば必ず雨が降り、それこそ干天の慈雨とされたと云われ干日続きには遠近の村人達が雨乞いに来たものです。池の名称は足柄峠の守護神、足柄明神姫玉手姫から付けられたものですが、もともとこの池があったものか又足柄城の本丸井戸跡か、そのいずれかと思われますが井戸の大きさと池の大きさがやや一致するぐらいの面積であることは、史実と伝説の関連か非常に興味深く思えるではないでしょうか。』
ちょっと私にとっては分かったよう分からないような感じでしたが、参考になりました。池の底が小田原に通じている?ファンタジーのセンスがないのか、想像が膨らみませんでした。ただ、これは昨日今日の話ではなく、古い言い伝えです。この山に刻まれた歴史やら、関わった人たちの思惑が込められているのだと受け止めることにしました。
<池跡>
私の訪問時は水がありませんでした。しかし立札の説明文から推定する限り、むかしはここから水が湧いていたのでしょう。池の名は足柄峠の守護神・足柄明神姫玉手姫から付けられたものとのこと。とりあえず池跡と思うことにしますが、井戸跡とも言われているようですね。
<一の郭>
一の郭の池とは別に、足柄城には三の郭から四の郭の中間に井戸跡があります。地下の構造までは分かりかねますが、足柄城の築かれた山には、地中に溶け込んだ雨水の通り道が、地表近くに確保されていたのでしょう。
<玉手ヶ池のなごり>
籠城する城兵たちにとって、湧水ポイントが頼もしい存在であったことは言うまでもありませんね。
■訪問:玉手ヶ池跡
(足柄峠城址公園)
[静岡県駿東郡小山町竹之下]
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■参考及び出典
現地立札
タグ:静岡
2022年12月13日
佐々成政の北アルプス踏破(さらさら越え)どうする?家康
極寒の冬に富山城から北アルプスを越えて浜松城までたどり着く。そんなことがあり得るのか。佐々成政は何でそこまでしたのか。
<富山城跡>
現在の富山県富山市
<北アルプス>
富山から見た山々。3千m級の山々が連なります。撮影は11月中旬です。このあともっと白く色づくことでしょう。どう考えても挑むのは無謀と思えます
しかし
佐々成政はあの山の塊を越えて行きました。
<浜松城跡>
現在の静岡県浜松市
<徳川家康像>
この人物に会うために
そこまでやるには、それ相応の経緯があります。どこまで遡れば良いか分かりませんが、絶対的な存在だった織田信長の死が、佐々成政のその後の人生を大きく狂わせたことは間違いありません。
信長亡きあと、その後継者として織田信雄を推す徳川家康と、それを良しとしない羽柴秀吉の対立がありました。この関係がそのまま小牧・長久手の戦い(1584年)となり、小牧山城や犬山城を中心に、半年以上に渡って全国各地で武力衝突が繰り返されました。この間、反秀吉の佐々成政は、秀吉に味方する前田利家支配下の末森城(能登国)を攻めています。城主奥村永福の抵抗により、末森城を奪いとることはできませんでしたが、佐々成政が精力的に動き出していたことは伺えます。
それにしても、前田利家といえば加賀の覇者であり、越中を領する佐々成政にとってはお隣さんです。逆側(東側)のお隣さんである上杉とも良好な関係ではありません。相当自信があったのでしょうか。
小牧・長久手の戦いは長期化しましたが、最終的には秀吉が条件付きで織田信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾します。これにより家康は大義を失い、その後まもなく、秀吉と和睦します。
えっ
終わっちゃうのかよ!
佐々成政は納得できません。そこで家康を説得することにしました。ただ、越中は北が海で東と西は敵対勢力という状況です。まともには動けません。そこで、南の山岳地帯を経由して家康のもとに向かうことにしました。厳冬期の北アルプス、ザラ峠を越えてです。これがいわゆる「さらさら越え」です。
繰り返しになりますが、真冬で積雪の多い時期の北アルプスです。現在の防寒具があったとしても、常人にできることではありません。「さらさら越え」は今から400年以上も前の話ですから、仮に獣の毛皮をまとったとしても、生身の人間が成し得ることとは思えません。
それでも
成政なんとか浜松の家康と対面を果たしました。
そして挙兵を促します。
どうする?家康!
2023年の大河ドラマではありませんが、そんな問いかけだったのでしょう。どうするもなにも、苦労に苦労を重ねてきた家康は、かなり思慮深い武将になっています。佐々成政の意見は聞き入れられませんでした。
うぁ
何のためここまで来たのか…
そんな感じでしょうか。成政は織田信雄からも良い返事は得られず、失意のまま来た道を戻ったと伝わります。また厳冬の北アルプスを越えたということですね。ちなみに、60名で出発しながら、帰ってきた時は7名だったそうです。
ただ、その後も成政が反秀吉の姿勢を崩すことはありませんでした。どこまでも意志を貫く男ですね。この結果、居城の富山城は秀吉率いる10万の大軍に取り囲まれることになりました。ここでついに成政は秀吉に降伏。「さらさら越え」の翌年の夏のことでした。
ということで
佐々成政の「さらさら越え」のご紹介でした。今回もまた個人的な雑感が混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。
最後に
「さらさら越え」はあくまで伝説ですが、孤立していた富山城主・佐々成政が、浜松で家康と対面したということは事実のようです。道中敵ばかりのなか、どうやって辿りついたのですかね。
拙ブログにおつきあい頂きありがとうございました。
■参考
Wikipedia:2022/12/13
お城巡りランキング
<富山城跡>
現在の富山県富山市
<北アルプス>
富山から見た山々。3千m級の山々が連なります。撮影は11月中旬です。このあともっと白く色づくことでしょう。どう考えても挑むのは無謀と思えます
しかし
佐々成政はあの山の塊を越えて行きました。
<浜松城跡>
現在の静岡県浜松市
<徳川家康像>
この人物に会うために
そこまでやるには、それ相応の経緯があります。どこまで遡れば良いか分かりませんが、絶対的な存在だった織田信長の死が、佐々成政のその後の人生を大きく狂わせたことは間違いありません。
信長亡きあと、その後継者として織田信雄を推す徳川家康と、それを良しとしない羽柴秀吉の対立がありました。この関係がそのまま小牧・長久手の戦い(1584年)となり、小牧山城や犬山城を中心に、半年以上に渡って全国各地で武力衝突が繰り返されました。この間、反秀吉の佐々成政は、秀吉に味方する前田利家支配下の末森城(能登国)を攻めています。城主奥村永福の抵抗により、末森城を奪いとることはできませんでしたが、佐々成政が精力的に動き出していたことは伺えます。
それにしても、前田利家といえば加賀の覇者であり、越中を領する佐々成政にとってはお隣さんです。逆側(東側)のお隣さんである上杉とも良好な関係ではありません。相当自信があったのでしょうか。
小牧・長久手の戦いは長期化しましたが、最終的には秀吉が条件付きで織田信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾します。これにより家康は大義を失い、その後まもなく、秀吉と和睦します。
えっ
終わっちゃうのかよ!
佐々成政は納得できません。そこで家康を説得することにしました。ただ、越中は北が海で東と西は敵対勢力という状況です。まともには動けません。そこで、南の山岳地帯を経由して家康のもとに向かうことにしました。厳冬期の北アルプス、ザラ峠を越えてです。これがいわゆる「さらさら越え」です。
繰り返しになりますが、真冬で積雪の多い時期の北アルプスです。現在の防寒具があったとしても、常人にできることではありません。「さらさら越え」は今から400年以上も前の話ですから、仮に獣の毛皮をまとったとしても、生身の人間が成し得ることとは思えません。
それでも
成政なんとか浜松の家康と対面を果たしました。
そして挙兵を促します。
どうする?家康!
2023年の大河ドラマではありませんが、そんな問いかけだったのでしょう。どうするもなにも、苦労に苦労を重ねてきた家康は、かなり思慮深い武将になっています。佐々成政の意見は聞き入れられませんでした。
うぁ
何のためここまで来たのか…
そんな感じでしょうか。成政は織田信雄からも良い返事は得られず、失意のまま来た道を戻ったと伝わります。また厳冬の北アルプスを越えたということですね。ちなみに、60名で出発しながら、帰ってきた時は7名だったそうです。
ただ、その後も成政が反秀吉の姿勢を崩すことはありませんでした。どこまでも意志を貫く男ですね。この結果、居城の富山城は秀吉率いる10万の大軍に取り囲まれることになりました。ここでついに成政は秀吉に降伏。「さらさら越え」の翌年の夏のことでした。
ということで
佐々成政の「さらさら越え」のご紹介でした。今回もまた個人的な雑感が混じっておりますが、ただの会社員のブログということでお許し下さい。
最後に
「さらさら越え」はあくまで伝説ですが、孤立していた富山城主・佐々成政が、浜松で家康と対面したということは事実のようです。道中敵ばかりのなか、どうやって辿りついたのですかね。
拙ブログにおつきあい頂きありがとうございました。
■参考
Wikipedia:2022/12/13
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2022年10月15日
二ノ丸枡形のなごり(名古屋城)旧二之丸東二之門
今回は重要文化財に指定されている名古屋城の城門の話です。
<旧二之丸東二之門>
この門は復元ではなく、現存する名古屋城の城門です。もともとは二ノ丸に設置されていましたが、昭和47年に本丸跡に移築されました。重要文化財です。門の形式は高麗門。城好きが高麗門と聞けば、櫓門とセットの枡形虎口を想像するのではないでしょうか。その想像であっているようです。
<説明板>
説明板が設置されています。そのまま転記させて頂きます。
『本来は東鉄門(ひがしくろがねもん)という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。』
ちょっとややこしい話ですが、現在は本丸の東二之門の位置に移されたかつての二ノ丸の東二之門ということですね。櫓門は残っていませんが、二ノ丸に設けられた枡形のなごりです。
この門をくぐった先に見どころが多いことから、わりと素通りしてしまう人も多いのではないでしょうか。現存する貴重な城門です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいれば幸いです。
■訪問:旧二之丸東二之門
(名古屋城本丸跡)
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/10/15
現地説明板
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<旧二之丸東二之門>
この門は復元ではなく、現存する名古屋城の城門です。もともとは二ノ丸に設置されていましたが、昭和47年に本丸跡に移築されました。重要文化財です。門の形式は高麗門。城好きが高麗門と聞けば、櫓門とセットの枡形虎口を想像するのではないでしょうか。その想像であっているようです。
<説明板>
説明板が設置されています。そのまま転記させて頂きます。
『本来は東鉄門(ひがしくろがねもん)という二之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。昭和三十八年(一九六三)、二之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、昭和四十七年に現在地(本丸東二之門跡)に移築された。平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。』
ちょっとややこしい話ですが、現在は本丸の東二之門の位置に移されたかつての二ノ丸の東二之門ということですね。櫓門は残っていませんが、二ノ丸に設けられた枡形のなごりです。
この門をくぐった先に見どころが多いことから、わりと素通りしてしまう人も多いのではないでしょうか。現存する貴重な城門です。当ブログがきっかけで、足を止めてくれる方がいれば幸いです。
■訪問:旧二之丸東二之門
(名古屋城本丸跡)
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考及び抜粋
Wikipedia:2022/10/15
現地説明板
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タグ:愛知
2022年10月12日
清正石(名古屋城)加藤清正が運んだとされる巨石
今回は名古屋城に石垣に用いられている巨石の話です。その名も清正石。呼び名の通りで、加藤清正が運んだ石とされています。
<清正石と説明板>きよまさいし
表面積は畳で十畳ほどとのこと。説明文をそのまま転記すると『名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。』とのこと。搦手(からめて)ですから、正門以外の出入り口といった感じでしょう。付近の工事そのものは黒田長政が担当したようですね。この石だけは清正が積み上げた?
よくわかりませんが、後世の作り話というお話もあります。では清正は何もしていないのか?といえばそうではなく、天守台の石垣を担当していました。ちゃんと持ち場が決められていたわけですね。メンバー全てをご紹介はしませんが、元豊臣家臣団、つまり築城を命じた徳川家康にとっての外様大名たちだったようです。
<加藤清正像>
こちらは清正石の近くに設置されている清正公石曳きの像。清正が巨石の上にのって、石を運ぶ人たちを鼓舞している姿です。清正石そのものは、どうも黒田長政の手によるものと考えた方が良さそうですが、言い換えられてしまうあたりが、加藤清正の人気ぶりを表しているような気がします。
清正は戦場での武功だけでなく、新田開発や治水工事でも実績を上げた武将。そして城づくりの名手と言われ、あの熊本城の改修者にも名を連ねます。名古屋城の築城の際も、現場で重要な役割を担っていたわけですね。
ということで
名古屋城の清正石のご紹介でした。
清正石は本丸東二之門付近です
■訪問:清正石
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考及び抜粋
現地説明板
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<清正石と説明板>きよまさいし
表面積は畳で十畳ほどとのこと。説明文をそのまま転記すると『名古屋城で最大の石垣石材。ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当であったが、巨石であるがゆえ普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、清正石と呼ばれてきた。』とのこと。搦手(からめて)ですから、正門以外の出入り口といった感じでしょう。付近の工事そのものは黒田長政が担当したようですね。この石だけは清正が積み上げた?
よくわかりませんが、後世の作り話というお話もあります。では清正は何もしていないのか?といえばそうではなく、天守台の石垣を担当していました。ちゃんと持ち場が決められていたわけですね。メンバー全てをご紹介はしませんが、元豊臣家臣団、つまり築城を命じた徳川家康にとっての外様大名たちだったようです。
<加藤清正像>
こちらは清正石の近くに設置されている清正公石曳きの像。清正が巨石の上にのって、石を運ぶ人たちを鼓舞している姿です。清正石そのものは、どうも黒田長政の手によるものと考えた方が良さそうですが、言い換えられてしまうあたりが、加藤清正の人気ぶりを表しているような気がします。
清正は戦場での武功だけでなく、新田開発や治水工事でも実績を上げた武将。そして城づくりの名手と言われ、あの熊本城の改修者にも名を連ねます。名古屋城の築城の際も、現場で重要な役割を担っていたわけですね。
ということで
名古屋城の清正石のご紹介でした。
清正石は本丸東二之門付近です
■訪問:清正石
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考及び抜粋
現地説明板
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タグ:愛知
2022年10月11日
豊臣恩顧の大名たちが積み上げた石垣(名古屋城)
<名古屋城本丸石垣>
■天下普請■てんかぶしん
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その後諸大名を動員して、伏見城や駿府城など、大規模な城の再建・造営を推し進めました。いわゆる天下普請の実行です。そのなかでも、ここ名古屋城の工事はかなり大規模なもので、スケールのわりには短期間のうちに築き上げられたと伝わります。これは大坂の陣より前のお話。家康がほぼ天下を手中に収めたといっても、まだ豊臣家の影響が残っている時の話です。大坂城の豊臣秀頼を意識した戦略の一環でした。
■豊臣恩顧の大名による築城■
名古屋城築城には加藤清正や福島正則、黒田長政ほかの豊臣恩顧の有力大名が動員されています。元豊臣秀吉の家臣たちは、この工事をどのように受け止めていたのでしょう。ちなみに、家康は豊臣家にも動員を命じていますが、これは拒否されています。
労務提供だけでも大変なことですが、大名たちは石材などを自分たちで持ち寄り、技術者を集めて名古屋城を築きました。経済力を削がれた上に、尽くす相手は豊臣ではなく徳川。何となく納得はしていなかったような気もします(素人の想像です)。逆に、それでも従わせることで、家康は今後の序列を明らかにしていたのかもしれませんね。
当時の最先端技術が集結して積み上げられた石垣です
--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]
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■天下普請■てんかぶしん
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、その後諸大名を動員して、伏見城や駿府城など、大規模な城の再建・造営を推し進めました。いわゆる天下普請の実行です。そのなかでも、ここ名古屋城の工事はかなり大規模なもので、スケールのわりには短期間のうちに築き上げられたと伝わります。これは大坂の陣より前のお話。家康がほぼ天下を手中に収めたといっても、まだ豊臣家の影響が残っている時の話です。大坂城の豊臣秀頼を意識した戦略の一環でした。
■豊臣恩顧の大名による築城■
名古屋城築城には加藤清正や福島正則、黒田長政ほかの豊臣恩顧の有力大名が動員されています。元豊臣秀吉の家臣たちは、この工事をどのように受け止めていたのでしょう。ちなみに、家康は豊臣家にも動員を命じていますが、これは拒否されています。
労務提供だけでも大変なことですが、大名たちは石材などを自分たちで持ち寄り、技術者を集めて名古屋城を築きました。経済力を削がれた上に、尽くす相手は豊臣ではなく徳川。何となく納得はしていなかったような気もします(素人の想像です)。逆に、それでも従わせることで、家康は今後の序列を明らかにしていたのかもしれませんね。
当時の最先端技術が集結して積み上げられた石垣です
--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]
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2022年10月10日
名古屋城のなごり 御三家の筆頭 尾張徳川家17代の居城
つわものどもが夢の跡
深い歴史が刻まれ、日本100名城に選定されている名城を訪ねました。
<名古屋城>
誰でも知っている城ですね。一般に金箔押の鯱でもよく知られ、金鯱城(きんしゃちじょう)などと呼ばれたりもします。
名古屋城は、徳川家康の命により築かれた尾張徳川家の居城です。1609年(慶長14年)に築城を開始して1612年(慶長17年)には天守完成。その後1871年(明治4年)の廃城令まで存続した城です。江戸城や大阪城の天守は江戸時代に焼失していましたが、名古屋城の天守は明治・大正を経て、なんと昭和まで存在していました。1930年(昭和5年)に国宝に指定されています。凄いことですね。しかし1945年(昭和20)の空襲で天守を含め多くの貴重な建物が焼失してしまいました。
<五層の天守>
現在は鉄骨鉄筋コンクリートの天守ですが、外観は旧天守を再現したものと言われています。ということは、この佇まいは、かつて日本最大級を誇った名古屋城の天守と思ってよいようです。大阪城・熊本城とともに日本三名城に数えられる城です。
私のような素人の目にはわかりませんが、この天守は再建が早かった(1959年)こともあり、既に老朽化という問題を抱えているそうです。城に関する詳細な資料が残されていることから、今度は木造による復元も検討されているとのこと。
■完成までの道のり■
名古屋城そのものは徳川家康の命で築かれましたが、この地にはそれ以前に今川氏の城がありました。織田信秀がこれを奪って那古野城と改名し、息子である信長もこの城に居住していたと伝わります。その信長が清須城(清洲城)を築いて本拠とすると、那古野城の存在意義は徐々に薄れ、しばらくしたのちに廃城となりました。
尾張統治の中心地は清須へ移りましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は清須城に代わり、既に荒れ地となっていた那古野の城跡に新たな城を築くことを決断しました。これが名古屋城のはじまりです。明らかに大坂城にいる豊臣秀頼を意識した戦略の一環であり、築城には多くの名だたる諸大名が動員されました。
尾張国清洲藩主となっていた家康9男・義直が初代城主となり、尾張徳川家の祖となりました。
<東南隅櫓(辰巳櫓)>
御三家筆頭と呼ばれる尾張徳川家はじまりの城です
--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考:
現地説明板
Wikipedia:2022/10/10
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深い歴史が刻まれ、日本100名城に選定されている名城を訪ねました。
<名古屋城>
誰でも知っている城ですね。一般に金箔押の鯱でもよく知られ、金鯱城(きんしゃちじょう)などと呼ばれたりもします。
名古屋城は、徳川家康の命により築かれた尾張徳川家の居城です。1609年(慶長14年)に築城を開始して1612年(慶長17年)には天守完成。その後1871年(明治4年)の廃城令まで存続した城です。江戸城や大阪城の天守は江戸時代に焼失していましたが、名古屋城の天守は明治・大正を経て、なんと昭和まで存在していました。1930年(昭和5年)に国宝に指定されています。凄いことですね。しかし1945年(昭和20)の空襲で天守を含め多くの貴重な建物が焼失してしまいました。
<五層の天守>
現在は鉄骨鉄筋コンクリートの天守ですが、外観は旧天守を再現したものと言われています。ということは、この佇まいは、かつて日本最大級を誇った名古屋城の天守と思ってよいようです。大阪城・熊本城とともに日本三名城に数えられる城です。
私のような素人の目にはわかりませんが、この天守は再建が早かった(1959年)こともあり、既に老朽化という問題を抱えているそうです。城に関する詳細な資料が残されていることから、今度は木造による復元も検討されているとのこと。
■完成までの道のり■
名古屋城そのものは徳川家康の命で築かれましたが、この地にはそれ以前に今川氏の城がありました。織田信秀がこれを奪って那古野城と改名し、息子である信長もこの城に居住していたと伝わります。その信長が清須城(清洲城)を築いて本拠とすると、那古野城の存在意義は徐々に薄れ、しばらくしたのちに廃城となりました。
尾張統治の中心地は清須へ移りましたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は清須城に代わり、既に荒れ地となっていた那古野の城跡に新たな城を築くことを決断しました。これが名古屋城のはじまりです。明らかに大坂城にいる豊臣秀頼を意識した戦略の一環であり、築城には多くの名だたる諸大名が動員されました。
尾張国清洲藩主となっていた家康9男・義直が初代城主となり、尾張徳川家の祖となりました。
<東南隅櫓(辰巳櫓)>
御三家筆頭と呼ばれる尾張徳川家はじまりの城です
--------■ 名古屋城 ■--------
別 称:金鯱城 亀屋城
築城年:1609年(慶長14)
築城主:徳川家康
城 主:尾張徳川家
廃城年:1871年(明治4)
[愛知県名古屋市中区本丸]
■参考:
現地説明板
Wikipedia:2022/10/10
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