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2019年08月15日

諏訪四郎勝頼のなごり(諏訪原城跡にて)

武田勝頼は弱くない!

以前そんなタイトルで投稿したことがあります。
その時のブログ→『記事へ進む
諏訪原城訪問で同じ思いが込み上げてしまいました。ほぼ同じ内容です。そんなのでも良ければお付き合い下さい。

<諏訪原城跡>
shirononagori361 (5).JPG


■弱いイメージ■
甲斐武田家第20代当主勝頼武田信玄の息子であり後継者です。でも信玄があまりに有名なことに加えて、勝頼の代で武田家は滅亡したことから一般的な評価はあまり高くありませんね。場合によっては無能な武将であるかのように思われています。でも城跡巡りに付随して知る勝頼の戦歴は、無能とは程遠いものばかり。今回の諏訪原城訪問で再びこの思いが込み上げてきたので、またちょっと触れさせて頂きます。


■諏訪勝頼■ すわかつより
勝頼は武田信玄(晴信)の長男ではなく四男。実は、生まれた場所や時期がはっきりとしていません(1546年とされています)。母は諏訪家当主・頼重の娘ですが、実名はよくわかっていません。
信濃国の諏訪家と武田家の関係ですが、信玄の父・信虎の時には同盟関係にありました。諏訪家は古くから軍神として名高い諏訪大社と深い関係にあり、神官と武士の双方の顔を持つ特別な一族で、高い権威を維持していました。しかし信玄の代になると、武田家は諏訪領へ侵攻。やがては第19代当主である諏訪頼重を自害に追い込み、領地を武田家のものとしています。この時、信玄は当主の娘を側室とし、生まれたのが勝頼でした。

諏訪家の血をひく勝頼は、旧諏訪領に送り込まれ、諏訪四郎勝頼を名乗ります。勝頼の『』は諏訪家の通字です。高遠城主となり、武田勢として戦にも参加して数々の武功を挙げています。何ごとなければ、武田信玄の優秀な四男として名を残した武将なのです。

<二の丸の外堀>
shirononagori360a8.JPG


■武田家へ戻る■
武田信玄の嫡男は義信。信玄のあとを継ぐはずでした。しかし謀反の疑いからその権利をはく奪され自害。三男・信之は既に亡くなっており、次男(海野)信親は目が見えなかったことから、四男の勝頼が諏訪家から武田家へ戻ることになりました。

めでたく武田家の後継者に!と言いたいですが、諏訪家に行っていた勝頼が、将来自分たちのお屋形様になることに、抵抗感のある家臣が多かったことは否めません。

信玄の実の子!

ではありますが、家臣団の間では諏訪勝頼として既に浸透してしまっています。諏訪家は神官として一目置かれる一方で、武士団の勢力としては一般の国人衆と変わりありません。また、武田家の歴代当主は将軍から偏諱をもらい、官位を受けるのに勝頼にはそれもなく、そもそも名に武田家の通字である「信」もありません。明らかにお屋形様となるべき武田家より格下。一門衆の一人に過ぎません。家臣団から見れば自分たちとほぼ並列という感覚でもおかしくはないのではないでしょうか。それが将来は自分たちより上の立場となる。

面白くねぇ

そういう目は避けられないような気がします。ということで勝頼、いろいろと気苦労があったのではないでしょうか。


■第20代当主■
1573年、武田信玄が亡くなります。勝頼はここでようやく家督を相続し、武田姓に戻しています。第20代当主の誕生です。

信長包囲網の主力である武田信玄の死により、織田・徳川連合軍は一気に巻き返しを図ります。信長は将軍・足利義昭を京から追放し、浅井長政ほかを滅ぼし、勢力を拡大していきます。では信玄不在、そして想定外の人物が当主となる武田家はどうなったのでしょうか?

当主となった勝頼は、信玄の拡大路線を継承して外征に乗り出します。1574年には、織田領に侵攻して明知城を落とします。同年、徳川領に侵入して、かつて信玄でも落とせなかった高天神城を落としています。

凄い勢いではありませんか!

ただこの戦いぶり、何やら悲壮な覚悟を感じずにはいられません。身内をまとめるのに一番役に立つ方法は、外の敵と向き合う事。勝頼は先代の路線を引き継ぐ一方で、このことも意識していたのではないでしょうか。

今回訪問の諏訪原城は、ちょうどそんな時期に勝頼が築いた城です。高天神城を攻略するための陣城のような扱いだったのかも知れません。

<曲輪と土塁>
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<内堀>
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<石碑>
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■織田・徳川軍に大敗■
1575年の長篠の戦い で武田勝頼の軍勢は敗退。総崩れとなって敗走する中で、諏訪原城築城者の馬場信春を含む多くの重臣層を失うことになります。

この戦いに動員された武田軍の兵は1万5千と言われていますが、当時の勝頼の総兵力の半分以下です。出陣の際、織田・徳川連軍と総力戦になるとは想定していなかったのでしょう。織田信長が自軍を率いてやってくることを知り、馬場信春は勝頼に撤退を進言したと言われています。しかし勝頼は決戦を選びました。そして合戦の途中で不利に気付きながらも、やはり兵を退きませんでした。

こういった勝頼の判断について、専門家の方々によるいろんな批評がありますが、根底には、身内の統率に対する強い意識があったのではないでしょうか。数奇な運命から養子に出され、母方の家を継ぐつもりだった諏訪勝頼が急きょ武田勝頼となった。そんな本人でしか分からない、深い事情があったような気がします。

<国指定文化財>
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築城者は馬場信春です

<諏訪神社>
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二の丸に祀られた諏訪大明神


■1582年自害■
勝頼は敗戦後も外交その他で生き残る道を模索しますが、中核の家臣を失った武田家の弱体化は否めません。やがて1582年、天目山に追い詰められた勝頼の自害により、戦国最強を謳われた名門武田家は滅亡しました。

以上で終わりです。

史実を確認しながら書きましたが、個人的な思い込みがかなり込められています。歴史好きの会社員のブログですので、そのあたりはご容赦下さい。似たような感覚の人の目に触れれば幸いです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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タグ:静岡
posted by Isuke at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 城跡[中部]
この記事へのコメント
佐藤さん
おっしゃる通りだと思います。いろんな評価があっても良いのですが、ひとむかし前まで、まるで勝頼が非力なせいで武田が滅んだかのような評価が多かったので、残念に思っていました。最近は随分と見直されていますね。
拙ブログに訪問頂き、ありがとうございます。
Posted by Isuke at 2023年09月23日 18:45
勝頼の首と対面した時信長は「日の本に隠れなき弓取りであったが運が尽きればこうなるのだな」という感じの言葉を語ったらしいです。

武田家滅亡は勝頼のミスも多々あったんでしょうけど、根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時はベストあるいはベターだったが、勝頼の代に負の遺産になってしまったからなんじゃないのかなと思いました。
Posted by 佐藤信平 at 2023年09月23日 16:35
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