<駿府城本丸跡の家康像>
徳川家康が少年時代を人質として過ごしたことはよく知られていますね。今川義元のもとで預かりの身となり、8歳から18歳までの約10年を駿府(現在の静岡市)で過ごしました。もう少し具体的言うと、今川家が本拠としていた「今川館」ということになります。
今川館のあった場所には、家康の手によって駿府城が築かれました。家康にしてみれば、勝手知ったる場所に新たな城を築いたわけですね。
ただ、立派な城郭が完成した結果、もともとあった今川館の詳細はよくわからない状態になっています。専門家の方々のお話では、駿府城の本丸付近のようですが、詳細はまだはっきりはしていません。
今川家といえばもともと名門家であり、義元が当主の時には、大きな勢力を誇る戦国大名になっていました。ということは、さぞ大きな拠点を構えていたのだろう。そう思う方が普通ですね。私も、駿府城は今川義元の居城を修繕するかたちで築かれたのだと勝手に思っていました。ところが、実際はそうでもなかったそうです。義元はすぐ近くの山に山城を築いていたらしく、館は平時の拠点でした。
駿河の覇者である今川家は、もともと京との交流も盛んで、当時としてはかなり文化レベルが高かったようです。そこに身をよせていた家康には、人質ならではの苦労もあったかと思いますが、一方で、かなり立派な教育を受けていたと伝わります。
人質なのに?
短期的な人質とは事情が異なり、将来は今川配下で、家臣として活躍することが期待されていたようです。しかし家康が19歳の時に、桶狭間の戦いで当主である今川義元が死亡。家康はこれを機に故郷の岡崎へ戻りました。
駿府は家康が晩年拠点とした場所であると同時に、のちの糧となる教育の機会を得た場所なのかもしれませんね。
■訪問:今川館跡
(駿府城公園)
[静岡県静岡市葵区駿府城公園]
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