本丸の南側の御前曲輪で撮影。武将とお姫様を象った顔出しパネルです。
明らかに異質です。ちなみに、背後のコンクリートもこの城跡にあっては異質。では駄目なのか?いや、そういう意味ではなく、ちょっと浮いた感じがするのは事実です。
ただまぁせっかくですので(何が?)、現地で素通りしたとか、まったく興味がわかなかった方のために、あえてご紹介させて頂きます。無機質なコンクリートの方を先に説明すると、これは戦前に地元出身の軍医少将が『模擬天守』を建てたなごりです。建物は落雷で焼失し、土台だけが残ったものとのこと(現地説明板より)。ではひと際目立つあのパネルは?こちらはこの城を守った英雄です。
■小笠原信興■ おがさわらのぶおき
この方は地元に根をはる豪族であり、高天神城の城主です。通称は与八郎。もともと今川の家臣でしたが、今川に代わって遠江国の支配者となった徳川家康に属し、対武田の最前線にあたる高天神城の城主を任されました。
ここでは『小笠原与八郎長忠』と記されています。姫様は『奥方』のようですね。
高天神城は『高天神を制する者は遠江を制す』とまで言われた重要拠点です。1571年には、あの武田信玄が大軍を率いて高天神城に攻め掛かったこともありました。しかし与八郎こと信興は、わずかな兵で籠城し、武田軍を撃退しました。
凄いですね!
これにより、高天神城は難攻不落の城として知られるようになります。
しかし、これで終わりではありません。信玄亡き後の1574年、今度は武田勝頼がまた大軍を率いて高天神城に攻め掛かりました。繰り返しますがここは徳川の『最前線』なのです。攻める武田も必死です。小笠原信興は籠城しながら浜松城の徳川家康に助けを求めます。しかし、援軍が来ることはありませんでした。
家康にも事情があったとは思いますが、信興にしてみれば、約2ヵ月間も持ち堪えながら、誰も助けにこなかったことは重い事実。最後は城兵の助命を条件に降伏しました。
武田勝頼の寛大な措置で、城に立て籠った城兵のうち、希望する者たちは武田への帰属が許されました。小笠原信興は最前線で奮闘する自分たちに援軍をよこさなかった徳川を見限り、武田に降る道を選びました。
まぁ家康に反旗を翻したことになりますが、籠城した兵たちの無駄死にを避けたという結果を伴っており、武将として筋が通らない話とは思えませんね。更に、小笠原氏はもともと地元の豪族ですから、自然な流れとも言えます。
■つわものどもが夢の跡■
<高天神城からの眺め>
小笠原信興も眺めたであろう景色です
武田に降ったあとの小笠原信興の消息については、諸説あってはっきりしていません。ただ、直後の徳川勢との闘いで、小笠原信興が武田勢の先鋒だったという記録があります。
ということで
冒頭のパネル武将は、この城ゆかりの凄い武将だったというお話でした。
■訪問:高天神城 御前曲輪
[静岡県掛川市]
お城巡りランキング
タグ:静岡